実用化待つ人へ「希望を持って」 山中教授が受賞会見 | 再生医療が描く未来 -iPS細胞とES細胞-

実用化待つ人へ「希望を持って」 山中教授が受賞会見

「感謝という言葉しかありません。無名の研究者だったが、国から非常に大きな支援をいただいた。多くの同僚、励ましてくれる友人が心の支えになり、助けてくれた」
グレーのスーツに薄い水色のネクタイ姿の山中さんは午後7時52分、京都大(京都市左京区)構内に設けられた会場で受賞会見に臨んだ。常に周囲への感謝を忘れない山中さんらしく、受賞の喜びを語った。
山中さんは周辺に「今年、受賞することはないだろう」と語っていた。発表は午後6時半。受賞の連絡を携帯電話で受けたとき、大阪市内の自宅で、ガタガタと音のする洗濯機を直そうとしていたところだったという。「もっとふさわしい方がたくさんいる。本当なのか信じられなかった」。母親にもすぐ電話で伝えたが、「母親もきょとんとしている感じだった」。
会見の直前には、野田佳彦首相から「国民を元気にする受賞。代表してお祝いの言葉を述べたい」と祝福の電話を受けた。「総理と話すのは生まれて初めてだったので、緊張しました」とはにかんだ。
研究の実用化を待つ人たちへの言葉も忘れなかった。「まだまだ研究が必要ですが、私たちの研究所でも200人以上が日夜研究しているし、日本、世界の研究者が前に進んでいる。希望を持っていただきたい」
来週からは早速、研究に専念するという。「論文も出さないと。学生も待っている。この賞は過去の業績に対するというより、発展への期待という意味が大きいと信じている。それに報いるように研究開発に取り組んでいきたい」     ◇
会見に先立つノーベル賞サイトの電話インタビューにこう答えた。「人生の目標は、iPSの技術をベッドサイドに届け、多くの患者を救うことです」
(朝日新聞)
http://www.asahi.com/science/update/1008/OSK201210080034.html?ref=reca

「i」PSなぜ小文字? 山中さんってどんな人?
iPS細胞は、induced Pluripotent Stem cell(人為的に多能性を持たせた幹細胞)の頭文字で、山中さん本人が名付けた。「i」だけが小文字なのは、はやりの米アップル社の携帯音楽プレーヤー「iPod」にあやかって、広く普及して欲しいとの遊び心だ。
遊び心は、難しい再生医療の講演中にも忘れない。「少なくとも1回は笑いを取る。関西でうけるネタは米国で、関東のネタは英国で受ける」。専門用語はなるべく使わず、登壇の1分前まで内容をパソコンで直し吟味する。
そんな心がけは大阪生まれというだけではなく、米国留学中に学んだプレゼンテーションの授業のおかげだ。「目線をスクリーンにばかり向けちゃだめ」「レーザーポインターを振り回さず、1カ所に止めて説明して」と厳しく指導された。
米国の学会では、無名の研究者でも面白い内容なら発表後に研究者や記者、科学誌の編集者らが集まってくる。つまらなければ、どれだけ高名な学者だろうと冷たい反応が待っている。「偉い先生が悲惨な講演をするのも見た。やっぱり発表は大事です」
帰国後にゆかりのない奈良先端科学技術大学院大の助教授に採用されたのも、無名で業績がない研究室に成績優秀な大学院生たちがやってきたのも、プレゼン能力がものを言った。「ビジョン、夢のある目標を示した。だましたわけではないけど、研究室には20人も希望者が出た。他の教授からは大変文句を言われた」
後に、iPS細胞作りで重要な役割を果たす高橋和利・京大講師もこのときの学生の一人。山中研究室を希望した理由は「ほかの人の言っていることが全くわからなかった。山中先生は夢みたいなことを言っていたが、素人にも唯一理解できた」。
     ◇
妻の知佳さんは、大阪教育大付属天王寺中高の同級生。掃除などを一緒にする生活班が一緒だったのがきっかけで知り合ったという。知佳さんは高校卒業後は、関西医大に進み、現在は皮膚科医。2人の娘も医大に進んだ。
     ◇
山中さんの「初の論文」と友人の間で言われているのが、中学時代の自由研究「記憶能力について」。学校で優秀作品に選ばれたという。
当時、人間の脳に興味があったという山中さんが、でたらめな10種類の単語を覚えてから、1時間おきに何個覚えているかを自身で実験した。復習すれば、記憶が続くかも、何通りかで試している。最初から2時間以内が一番忘れやすいとして、復習するならこの時間で、効果は12時間くらいたって表れる――と結論づけた。ほかに印象の強さと記憶の関係についても調べている。
論文の最後には「研究は実験がスムーズで成功だったが、成功=完成ではない」とある。同級生が「常に目標をもって、反省しながら、努力を続けていくタイプ」と話す山中さんらしい結びで締めくくられた。
信州・乗鞍高原への中学の修学旅行で植林したときの文集には、「自然保護と人間保護」と題した作文を書いた。植林のために刈られるクマザサなどの雑草だって一つの自然なのだから、植林は真の自然保護ではなく、人間保護ではないか、とつづった。自分の研究を常に客観的に見つめ、「何のための研究なのか」を自問する現在の山中さんをほうふつとさせる。
(朝日新聞)
http://www.asahi.com/science/update/1008/OSK201210080032.html

「先生、細胞の塊が…」 山中氏、iPS成功への道のり
iPS細胞は逆転の発想で生まれた。ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった京都大の山中伸弥教授は、常識にとらわれない大胆な手法と数々の幸運で、生命科学の新たな扉を開いた。
「先生、細胞の塊が生えてます」
2005年、京都は梅雨の季節を迎えていた。山中さんの教授室に、研究員の高橋和利さん(現・京大講師)が飛び込んできた。実験皿に丸く、細胞がぎゅっと詰まった塊が盛り上がっているのを見つけた。世界で初めてiPS細胞ができた瞬間だった。
整形外科医をあきらめ、基礎研究の世界に入った山中さんは、米国留学中にかかわったES細胞(胚(はい)性幹細胞)の研究をしていた。ES細胞は、夢の再生医療に道を開くと期待されつつも、「生命の萌芽(ほうが)」である受精卵を壊して作るという倫理的な問題がつきまとった。「じゃあ、逆をいこう」。人のまねをしない信念があった。「受精卵じゃないふつうの細胞から万能細胞を作ろう」
1996年に英国の研究者が体細胞クローン羊「ドリー」を誕生させ、体細胞を初期化して万能細胞に変える因子が、卵子の中にあると推測できた。さらに01年、京大の多田高准教授らが、ES細胞と電気ショックで融合させた体細胞がES細胞になることを発表。これがヒントになった。「ES細胞にふつうの体細胞を万能化する因子があるに違いない」。ES細胞で働く遺伝子を探すことに狙いを定めた。
だが、ヒトやマウスの遺伝子は2万~3万個。小さな研究室で一つずつ検証したら数十年かかる。ちょうどそのころ、理化学研究所が約1万の遺伝子の働きを網羅したマウスの遺伝子データベースを公開した。
山中さんは大学時代、実家のミシン部品工場の在庫管理のためにプログラムの勉強をしたことがあった。その経験を生かしてデータベースを解析し、ES細胞で強く働いている遺伝子を100個ほど選び出した。
実験で遺伝子の働きを調べ、世界で発表された重要そうな遺伝子も加え計24個に絞り込んだ。その遺伝子を一つずつ入れて試した。この時、高橋さんが「(遺伝子を導入するための試薬が)余ってもったいない」と24個すべてをある実験皿に入れた。するとこの皿にだけiPS細胞ができた。
万能細胞づくりを目指していたライバルはほかにもいた。だが、「初期化の仕組みは複雑なはず。多くの遺伝子を一度に入れると、何が起きているか働きが見えにくく、お互いが邪魔して悪い結果になる恐れもある」と遺伝子の機能を一つひとつ詳しく調べていた。
「実を言うと、24個の中に正解がある確信はなかった。宝くじに当たったようなもの」と山中さんは振り返る。実験を10回ほど繰り返し、間違いないと確信した。秋はすぐそこだった。
さらに作業を続ける。高橋さんのアイデアで、1個除いた23個ずつを細胞に入れた。万能細胞ができなければ、除いた1個が必要な遺伝子だ。ついに4個の遺伝子のセット「山中因子」にたどり着いた。
成功は論文発表まで2人だけの秘密にした。高橋さんは「居酒屋でぽろっと話して聞かれたらまずい、と山中先生と話した。大学院生でもできるほど単純な方法だったから」と言う。
ちょうど韓国の研究者によるES細胞の論文捏造(ねつぞう)問題が世界的なスキャンダルになっていた。「アジア人がまたうそをついていると思われないように」と、何度も実験を積み重ねた。
そして06年、米科学誌に論文を発表。世界の研究者は驚いたが、親しいと思っていた研究者からも、うそつき呼ばわりされた。山中さんは「知識が邪魔をすることもある。整形外科の研修でも、やってみないと分からないことが多かった」と言う。
海外の研究者も同じ方法でiPS細胞づくりに成功し始めると評価が高まっていった。翌07年には、米国勢との激しい競争で同着だったがヒトのiPS細胞づくりも成功したと発表し、名声は確立された。
iPS細胞に関する京都大の特許についても今年9月までに、世界のバイオテクノロジー市場の中心となっている米国で6件取得するなど世界27の国と地域で基本特許を成立させた。
だが、目指す治療への応用まではまだまだ越えなくてはいけないハードルがある。学生時代にラグビーのライバルチームでスクラムが崩れて脊椎(せきつい)損傷になった選手、研修医時代に目の当たりにした手の施せない重度のリウマチ患者らの姿を胸に刻んで、山中さんは繰り返す。「iPS細胞の成果が患者さんに届かなければ、何の意味もない」
(朝日新聞)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201210080332.html?ref=comkiji_txt_end_t_kjid_TKY201210080332

山中氏ノーベル賞:「国の支援のたまもの」記者会見で
ノーベル医学生理学賞に決まった京都大iPS細胞研究所長の山中伸弥教授の記者会見と一問一答は次の通り。
受賞の知らせはストックホルムから電話で受けた。受賞できたのは、国に支えていただいたことが大きい。日本が受賞したと思っている。まだ無名の研究者だった奈良でも国の大きな支援を受けることができた。京都大でもさらに大きな支援を頂いた。支援がなければノーベル賞はなかった。
感想を一言で言うと感謝しかない。国民の皆さん、京都大学、若い研究者をはじめとする同僚、友人たちが心の支えになってくれた。家族にも心から感謝したい。80歳を超えている母に報告できたことがうれしい。義理の父は今年早くに亡くなったが、天国で実父と一緒に喜んでくれているだろう。
責任も感じている。まだiPS細胞は新しい技術。本当の意味で新薬開発や医学の役に立ったという段階にはきていない。受賞は光栄だが、研究を続けて一日も早く応用して社会貢献を果たしたい。速やかに研究に戻り来週から研究に専念して論文を出したい。
ガードン先生と一緒に受賞できることもうれしい。研究分野を開拓された人だ。先生の発見から50年、分野の大先輩と同じ賞を頂くことは研究者人生に大きな意味を持つ。
--感想は。受賞はどんな点が評価されたと思うか?
家にいて、洗濯機がガタガタ音が鳴るので、直そうと思って動かそうとしたら、携帯電話が鳴り、それが英語だった。日米にはノーベル賞に匹敵する研究者がたくさんいる。その中で選ばれ、信じられないというのが正直な気持ちだ。ノーベル賞の仕組みは知っているが、日本人の私が受賞できたのは国の支援のたまもの。iPS研究について、ガードン先生の仕事がなければ私たちの仕事はあり得ない。さらに言えば、過去50年間に幾つかのキーとなる研究成果があり、先人の先生のお陰と思う。
--野田首相からはどんな言葉をかけられた? 
緊張して全部覚えていないが、「日本の皆さんを元気にするような受賞で、国を代表してお祝いの言葉を贈る」という身に余る言葉を頂いた。私たちの本当の仕事は、しっかり研究を進め、iPSの医療応用を果たすこと。これからも本当の仕事を進めていかねばならないと思った。
--何と答えたか?
「ありがとうございます」と。言いたかったのは、国からの支援を頂いたからこそ受賞できたということ。06、07年の論文があっても国の支援がなければ受賞はなかった。感謝の意を伝えたかった。
--家族の反応は? ガードン博士とのエピソードも教えてほしい。
知らせを聞いた時は家族の何人かが家にいたが、私自身も状況をあまり理解できず、電話で伝えた母もきょとんとしていた。ガードン先生と最初にお会いしたのはiPSに成功する何年も前、02、03年ごろ日本に来られて初めてお会いした。現役で実験をされていることにびっくりした。常に論文を読んでおられ、科学者というのはこうでないと駄目ということを教えられる。
--今年受賞しないと思ったのはなぜ?
アメリカを筆頭に、世界各地で実用面ではるかに先を行く研究がたくさんある。その中で「まさかiPS細胞が」という思いだ。
--実用化を待つ患者にメッセージを。
iPSという技術は万能細胞と呼ばれることもあり、「今日、明日にでも病気が治る」と誤解を与えているかもしれない。研究には5年、10年と時間がかかる。私の研究所でも200人を超す研究者が研究を進めている。希望を捨てずにいてほしい。
--若い研究者、学生へのメッセージを。
私もまだ若いつもりだが、研究はアイデア一つ、努力でいろいろなものを生み出せる。日本の天然資源は限られているが、研究や知的財産は無限。国の力にもなり、病気で苦しむ方の役にも立てる。一人でも多くの人が参加してほしい。
--協力してくれた患者にメッセージを。
私は元々臨床医で、患者さんの顔が常に見える仕事だった。そこから基礎研究に入り、顔が見えなくなった。病気の名前は見えるが、患者一人一人の顔はなかなか見えない。しかし、iPS細胞は実際の患者の皮膚などをいただいて研究する仕事。一人一人の顔を思い浮かべながら取り組んでいる。明日どうなのか、と言われるとその力はないが、希望を持ってほしい。
--今日の服装は家族が選んだ? 会見で話す内容は車の中で考えた?
何の準備もしていなかったので十分な身支度ができず、家族もろうばいして準備ができなかった。目の前にある荷物をかばんに詰め、車に乗り込んだ。車の中でもいろいろな方から電話やメールを頂いた。今考えたことをそのまま口にしている状況で、うまく編集してほしい。
--研究所の若いメンバーへ一言。
みんなすごいの一言に尽きる。僕も若い時はかなり実験を頑張ったが、それよりもはるかに頑張っている。今の研究にとってなくてはならないメンバー。メンバーに恵まれたのは、本当にラッキーで感謝の一言だ。
--どこでユーモアを学んだのか? 研究の倫理面での心配は?
ユーモアがあるかどうかは……。本当はもっと面白い人間だが、今日は変なことを言えない。倫理面は本当に難しい問題。アメリカでマウスの研究を始め、日本に帰って人間のES細胞の研究を始めた。医学に役立つと喜んだが、倫理的な問題に直面した。研究者としてどうすればいいかと始めたのが、iPS細胞の研究。ES細胞のいいところを何とか伸ばしたいと思った。iPSから精子や卵子を作れば新しい命につながる。一つの倫理的問題を解決するためにやったことが、また新しい課題を生み出してしまった。
倫理的な議論を少しでも早く準備しておかないと、科学技術の方が思ったより早く進む。研究所でも倫理の専門家を教員として迎え、そういう面からもiPS細胞を引っ張っていきたい。科学者がやっている研究の仕事は一つのピースにすぎない。倫理、機材、広報、契約、許認可など全てが同時に進まないと本当の実用化はされない。
--ユーモアは意識的に獲得したもの?
大阪生まれ、大阪育ちなので、ある程度は自然と身に着いたのかもしれないが、アメリカでプレゼンをたたき込まれ、いかに人の心をつかむか、そのためには笑いの一つも取らないと駄目だと。研究がすごくても聴衆がシーンとする講演もあります。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121009k0000m040054000c.html

山中氏ノーベル賞:目元緩ませ「感謝」繰り返し
病気の原因解明や治療など医療全般に応用が期待される研究が、世界最高の栄誉に輝いた。ノーベル医学生理学賞の授与が決まった京都大教授の山中伸弥さん(50)は整形外科医から進路を変え、病気に苦しむ患者を助けたいとの一心で基礎研究に没頭した。「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」の開発を発表して6年余りのスピード受賞に感謝の言葉を繰り返した山中さん。経済が低迷する日本に届いた朗報に、同僚や恩師らからは歓喜の声が上がった。
◇「今後さらに努力」苦しむ人、おもんぱかり
「国や大学をはじめ、いつも励ましてくれた友人、家族に心から感謝したい」。勤務先の京都大(京都市左京区)で記者会見に臨んだ山中さん。緊張した表情で言葉をかみ締めながら感謝の言葉を繰り返し、時折、眼鏡の奥の目元を緩ませた。
受賞発表から約1時間後の午後7時半ごろ、山中さんは京都大本部棟にタクシーで到着。同8時前、水色のネクタイと淡いグレーのスーツ姿で記者会見場の大会議室に現れ、待ち構えた200人を超す報道陣から無数のフラッシュを浴びた。
会見が始まる直前、着席した山中さんの携帯電話に野田佳彦首相から連絡があり、こわばった面持ちで「ますます励みますのでよろしくお願いします」と返答。会見で感想を求められると「総理大臣と直接話すのは初めて」と照れくさそうな表情を浮かべ、会場を沸かせた。
その会見で、山中さんは「感謝」の言葉を多用した。「名目上は山中伸弥だが、日の丸のご支援がなければ受賞はできなかった」。無名の研究者として歩み出した十数年前から、国や大学の支援を受けられたことに加え、分野の異なる研究者や家族に支えられたことに謝意を表した。そのうえで「80歳を超えた母に受賞を報告できてよかった」と語り、こみ上げてくる感情を抑えるように口を真一文字に結んだ。
ただ、受賞については「まさか、取れるとは思っていなかった」。ノーベル財団からの吉報が届いたときは「ガタガタという洗濯機を直そうと座り込んでいたときに、携帯が鳴って、それが英語だった」と話し、会場の笑いを誘った。こうしたユーモアに話が及ぶと「本当は僕はもっと面白い人間だと思うが、これだけの人間を前にすると……」。さらに「大阪生まれの大阪育ちですから」と付け加えて、ちゃめっ気ものぞかせた。
開発から6年という異例のスピード受賞だが、「喜びと共に責任を感じている」としたうえで「過去の業績ではなく、これからの発展に期待していただいたと思う」と語った。さらにiPS細胞がまだ臨床の現場で用いられていないことにも触れ、「研究を続けて、一日も早い本当の意味での社会貢献をしたい。難病で苦しんでいる人も、希望を捨てずにいてもらいたい」とし、治療法の確立を待つ患者たちをおもんぱかった。
約1時間に及ぶ会見が終わると、山中さんは京都大の松本紘学長とがっちり握手を交わし、カメラマンの注文に応じて笑顔を振りまいた。
◇大学通じ母と妻「皆さまに感謝」
山中さんの妻知佳さん(50)と母美奈子さん(81)は8日、京都大を通じてコメントを発表した。
知佳さんのコメント 名誉ある賞を受賞することになり、大変光栄に思っております。iPS細胞の発見は、山中一人の力ではなし得なかったことです。
美奈子さんのコメント このような名誉ある賞を受賞し、大変驚いております。皆さまのお力添えのたまものと思っております。
◇恩師、友人、研究仲間から称賛の声
山中さんの恩師や友人らも受賞をたたえた。
山中さんは大阪教育大付属天王寺中学、高校で柔道部に所属した。柔道部の先輩に当たる大阪市交通局の藤本昌信局長(56)は大学時代、コーチとして山中さんを指導。「何度打ちのめされても目をそらさずに向かってくる、負けず嫌いな少年だった」と振り返った。山中さんは毎夏のOB会に欠かさず出席し、先輩にビールをついで回るといい、「いつも驚くほど自然体。先輩として、柔道家として本当に誇らしい」と興奮気味に話した。
高校時代の恩師で仲人も務めた社会福祉法人晴朗会理事長の平林宏朗さん(81)は「毎年期待していたが、現実に受賞が決まって無上の喜び」と話した。学生時代の山中さんを「特に集中力がすごかった」と思い返し、「今後も人類に夢や希望を与える研究を続けてほしい」と期待した。
中学、高校を通じて友人の会社経営、平田修一さん(50)=兵庫県芦屋市=は、「高校の文化祭で同級生2人と『枯山水』というフォークグループを組んでかぐや姫の歌を歌っていた姿が印象に残っている。ギターも弾けるのかと驚いた」と振り返った。受賞決定後、携帯電話から「やったなぁ!おめでとう!」とメールを送ると「ありがとう」と返信がきた。5日前に一緒に食事をした時に、本人は今年のノーベル賞受賞は「ない。ない」と言っていたという。
山中さんは神戸大3年で柔道からラグビーに転向した。初心者にもかかわらず、教則本を読んで作戦を立案するなど研究熱心。一方、試合でゴールラインの場所を勘違いしてトライしたこともあり、部内では「いじられキャラ」だったという。医学部ラグビー部で後輩だった黒田良祐・同大大学院医学研究科准教授(47)は「不器用でストイック、ひたむきで、くそ真面目な人。だからこそ、普通の人間なら考えつかないようなところに行けたのだと思う」と喜んだ。
研究者仲間やかつての指導者からも称賛する声が相次いだ。
iPS細胞を使った心筋シートでの治療を目指し、山中さんと共同研究している澤芳樹・大阪大学大学院医学系研究科教授は受賞を知り、すぐに本人の携帯電話に連絡した。山中さんは「ありがとうございます。皆さんのおかげです」と、珍しく興奮した様子だったという。澤教授は「ひたむきに淡々と研究している。常に臨床への応用を意識していることが受賞につながったと思う。『一日も早く患者さんを助けられる状態にしなければならない』と、私自身も身震いする思いだ」と話した。
大学院生時代に指導した山本研二郎・元大阪市立大学長は「うれしいの一言だ」と話した。当時、山中さんら教え子と酒を飲む度、「仕事と研究は違う。仕事は、他人が既に手がけたことをやるので、成果が出やすい。だが研究は、成果が出るか分からず、誰もやらないことをしないといけない」と、基礎研究の重要性を説いたといい、「まさにオリジナルの研究が評価された」と喜んだ。
山中さんが99~04年に在籍した奈良先端科学技術大学院大(奈良県生駒市)の磯貝彰学長は記者会見し、「何をやりたいかビジョンがはっきりしていた。一方で、(自分の考えだけにこだわらずに)周りの状況を的確につかみ、孤立しない点が大変優れていた」と話した。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121009k0000m040051000c.html

山中氏ノーベル賞:「難病治したい」繰り返した挫折、再起
「人間万事塞翁(さいおう)が馬」(人生の幸・不幸は予測できない)
8日、今年のノーベル医学生理学賞に輝いた山中伸弥・京都大教授(50)は、この言葉を心の支えに研究に力を注いできた。人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発を発表してからわずか6年。50歳の若さで最高の栄誉を手にした。しかし、開発までの半生は挫折と再起の繰り返しだった。
◇夢は整形外科医
最初に目指したのは整形外科医だった。中学、高校で柔道に打ち込み、足の指や鼻などを10回以上骨折した経験からだ。スポーツ外傷の専門医になろうと、神戸大医学部を卒業後、国立大阪病院(大阪市、現・国立病院機構大阪医療センター)整形外科の研修医になった。
しかし、直面したのは、治すことができない数多くの患者がいるという現実だった。最初に担当した慢性関節リウマチの女性は、みるみる症状が悪化し、痩せて寝たきりになった。山中さんは「枕元にふっくらした女性の写真があり、『妹さんですか』と聞くと『1~2年前の私です』という。びっくりした」と振り返る。手術も不得手で、他の医師が30分で終わる手術に2時間かかった。「向いていない」と痛感した。
◇基礎研究に転換
有効な治療法のない患者に接するうち、「こういう患者さんを治せるのは、基礎研究だ」と思い直した。病院を退職し、89年に大阪市立大の大学院に入学。薬理学教室で研究の基本を学んだ。「真っ白なところに何を描いてもいい」。基礎研究の魅力に目覚め、実験に没頭した。論文を指導した岩尾洋教授は「彼の論文は完成度が高く、ほとんど直さなくてよかった」と語る。
大学院修了後、米サンフランシスコのグラッドストーン研究所に留学。当時のロバート・メイリー所長から、研究者として成功する条件は「ビジョンとワークハード」、つまり、長期的な目標を持ってひたむきに努力することだと教えられた。マウスのES細胞(胚性幹細胞)の研究に打ち込んだ。
しかし、96年に帰国すると、再び苦しい時が訪れた。研究だけに没頭できる米国の環境との落差に苦しんだ。「議論する相手も研究資金もなく、実験用のマウスの世話ばかり。半分うつ状態になった」。研究は滞り、論文も減った。やる気を失っていった。
◇救った出来事
「研究は諦めて臨床へ戻ろう」。思い詰めた山中さんを、二つの出来事が救った。
一つは、98年に米の研究者がヒトES細胞の作成に成功したこと。大きく励みになるニュースだった。
もう一つは、奈良先端科学技術大学院大の助教授の公募に通ったこと。「落ちたら今度こそ研究を諦めよう」との思いで応募した。「研究者として一度は死んだ自分に、神様がもう一度場を与えてくれた」。99年12月、37歳で奈良に赴任した。
翌春、山中さんは大学院生約120人の前で、「受精卵を使わないでES細胞のような万能細胞を作る」と、研究テーマを語った。学生を呼び込むために考えた「夢のある大テーマ」だった。現在、京都大講師の高橋和利さん(34)ら研究室に入った大学院生との挑戦が始まった。
◇患者に役立つ技術に
03年には科学技術振興機構の支援を受けることが決まり、5年間で約3億円の研究費を獲得した。面接した岸本忠三・元大阪大学長は「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した」。研究は当初、失敗の連続だったが、今度は諦めなかった。「学生や若いスタッフが励ましてくれたから、乗り切れた」。マウスの皮膚細胞を使ってiPS細胞の作成に成功したのは、その3年後だった。
今は「この技術を、本当に患者の役に立つ技術にしたい。その気持ちが研究の原動力」と言い切る。新薬の開発、難病の解明、再生医療など、今や幅広い分野でiPS細胞の研究が進む。「10年、20年頑張れば、今治らない患者さんを治せるようになるかもしれない」--。抱き続けた夢がかなう日は、もう遠い未来ではない。
◇交流の難病と闘う少年も涙「すごい先生です」
筋肉が骨に変形する難病と闘う兵庫県明石市立魚住中3年の山本育海(いくみ)さん(14)は、山中さんと交流し、iPS細胞を使った治療法の確立の夢を託してきた。「iPSが世界中に広まって研究が進み、薬の開発が早くなると思うとうれしい」と受賞を喜んだ。
育海さんは小学3年の時、「進行性骨化性線維異形成症」(FOP)と診断され、支援団体「FOP明石」の署名活動などで07年3月に国の難病指定を受けた。iPS細胞が難病の治療に役立つ可能性があると知り、09年11月に山中さんに面会。10年2月には「一日も早く薬を開発してほしい」と体細胞を提供した。今年もシンポジウムの会場やテレビ番組で山中さんと面会した。
この日、山中さんの受賞が決まると、明石市内で記者会見。母智子さん(39)と手を取り合って「本当に良かった。すごい先生です」と目に涙を浮かべた。智子さんは「3年前に初めてお会いしてから、本当に優しく接していただいている。今回の受賞でFOPの研究に、もっともっと光が当たってほしい」と話した。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121009k0000m040055000c.html

山中氏ノーベル賞:医療ビジネス追い風に
ノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥・京都大教授が開発したiPS細胞は、次世代の医療技術である「再生医療」を発展・普及させるカギとして注目されている。すでに国内の産業界では、世界に先駆けてiPS細胞を用いた創薬や培養装置開発の取り組みが始まっており、今回の受賞は、こうした研究開発の追い風になりそうだ。
新型万能細胞とよばれるiPS細胞は、病気やけがで失った体内の組織や臓器を取り戻すための再生医療を実現させる上で、中核技術として期待されている。製造業の空洞化など経済低迷が続く中、政府は今夏まとめた日本再生戦略で、再生医療の将来性に着目。新たな産業の柱の一つに育てる目標を掲げた。
製薬分野でも、iPS細胞はヒト細胞の新たな供給源として重要視されている。従来の医薬品開発の現場では、ヒトの正常細胞は入手の難しさや高価であることなどを理由にあまり使われていなかった。しかし無限の増殖性を持つiPS細胞なら、開発段階の新薬の薬効や毒性の評価を低コストで行うことが容易になり、より迅速な新薬開発への貢献が期待されている。
このため国内の製薬ベンチャーや医療機器、電機、精密機器など幅広い分野の企業が、内臓や組織などの機能細胞をiPS細胞から大量に作成し、十分な機能を持つ品質の良い細胞をより低コストで供給可能にする技術や装置の開発に取り組んでいる。
大日本住友製薬は11年3月から、京大iPS細胞研究所との間で5年間の共同研究契約を締結。iPS細胞を使って難病の進行メカニズムを解明する共同研究を始めている。同社で山中教授と共同研究した経験がある西澤雅子・ゲノム科学第1研究部グループマネジャーは「iPS細胞は世界中がしのぎを削る研究」と指摘する。
タカラバイオは09年4月にiPS細胞作成のライセンスを取得。仲尾功一社長は「受賞を機に、国のサポート拡大や、参入企業の増加が見込めるのではないか。業界の発展に期待したい」と期待を寄せる。研究開発で世界をリードすれば、日本経済の成長のエンジンとしての役割も期待される。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121009k0000m020059000c.html

山中氏ノーベル賞:後輩の偉業を祝福 歴代受賞者
日本人がノーベル医学生理学賞を受賞するのは、87年の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授(73)以来25年ぶり。過去の受賞者の中でも5番目に若く、日本の受賞者たちは、待ちかねたスターの誕生に祝福を送った。
利根川さんは「受賞は確信しており心待ちにしていた。この20~30年、物理や化学分野で多くの日本人受賞者が出た中で、医学・生理学分野では受賞者が出なかったが、今回は日本のために本当によかった」と、四半世紀ぶりに現れた“後輩”の偉業をたたえた。
「一連の成果は、先生と若い学生で行われた初期の大発見に基づいている。近年、多くの科学研究が大規模化しているが、おおもとにあるのは個人の創造力あふるる発想だという点で、わが意を得たりと思った」と振り返った。
また「iPS細胞は医学・薬学に多大な可能性を提供しているが、もともとは基礎研究の独創的な発見から始まっている。社会に役立つ技術の開発には、基礎研究がいかに大切かを証明していただいた」と、基礎研究の充実を訴えた。
01年に化学賞を受けた野依良治(のよりりょうじ)・理化学研究所理事長(74)は「格別にうれしい。来るべき時が来た」と喜んだ上で「国民からは、臨床医学への応用が期待されている。それを進めるような取り組みを社会全体で進めていくべきだ」と述べた。
08年に物理学賞を受賞した益川(ますかわ)敏英・名古屋大特別教授(72)は「たいへんおめでとうございますと伝えたい。山中先生はとても紳士的で控えめな方。受賞でこれからたいへん忙しくなると思うが、適当にはしょって、研究の時間を確保してもらいたい」とアドバイス。益川さんと共同受賞の小林誠・高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授(68)は「受賞は確実視されていたが、(ついに)やったなという印象。(成果が米科学誌に掲載されてから6年あまりでの受賞は)それだけインパクトのある仕事だったと思う」と評価した。
10年に化学賞を受賞した鈴木章・北海道大名誉教授(82)は「サイエンスの可能性は無限です。若い人々が続くことを期待します」とのコメントを出した。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121009k0000m040071000c.html

山中さん今後の課題や亡父への思い語る
ノーベル医学・生理学賞に選ばれた山中伸弥さんは、共同記者会見のあとNHKのニュースウオッチ9に出演し、iPS細胞の今後の研究課題などを述べるとともに、亡くなった父親への思いなども語りました。
山中さんはまず受賞の連絡を受けたときを振り返り、「自宅ではいつくばって掃除をしていたら受賞を知らせる電話がきた。たくさんの研究者のなかで私たちの研究はまだ実用化に向けて努力が必要だったため、ほんとうに驚いている」と話しました。
また今後の臨床研究について、「病気によって差があるが、加齢黄斑変性と呼ばれる目の網膜の病気を対象にした臨床研究が来年にも始まる。脊髄損傷とか、パーキンソン病とか心臓病に対しても数年以内に始まるが、本格的な臨床研究には10年単位でかかると思う」と述べました。
そのうえで「研究の速度は予想をはるかに超えていて、6年前に、iPS細胞を作ったとき、ここまでの速度を予想していなかった。倫理面も早く進めないと、研究は進んでいるのに、ほかの理由で、患者が恩恵を受けられないということもあり得るので、バランスよく進めていく必要がある」と述べました。
一方で山中教授は学生時代について、「あまりほめられた学生ではなかったと思う。『医学部じゃなくてラグビー部じゃないか』、と言われるくらいだった。父のすすめで医者になったことはとても誇りに思っている。多くの人々の病気を治して、亡くなった父にもう一度会いたい」と話しました。
(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121008/k10015596001000.html

“iPS研究 患者思い浮かべながらできる”
記者会見で山中教授は、研究に協力してきた患者に対しての思いを聞かれ、「臨床医は、常に患者の顔が見えるが、私は基礎研究の研究者になって、病気の名前は見えるが、その病気で苦しんでいる患者の顔は見えなくなった。iPSの技術は、患者の細胞をもらって研究をするという仕事なので、基礎研究でありながら、患者の顔を浮かべることができる。進行していく病気の時間との戦いを強く感じるし、私たちの一日と患者にとっての一日の違いを心して、研究している。あす、薬を作ることはできないが、多くの研究者が日々挑戦しているので、希望を持っていただきたいと思う」と述べました。
(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121008/k10015595481000.html

難病の中学生が受賞を祝福
ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中さんに、難病治療に役立ててもらおうと研究用の細胞を提供した兵庫県明石市の中学3年生、山本育海さん(14)は、「今回の受賞でさらに研究が進み難病治療の薬が早く開発されてほしい」と述べ受賞を喜びました。
山本さんは、200万人に1人という難病、FOP=進行性骨化性繊維異形成症の患者です。
FOPは、遺伝子の異常で、筋肉が次第に骨に変わっていく進行性の病気ですが、病気の治療法の解明に役立ててもらおうと、おととし2月に、皮膚の細胞を山中さんに提供しました。
京都大学の「iPS細胞研究所」の研究チームでは、治療薬の開発を進めるため、山本さんから提供された細胞をiPS細胞に変化させて、それをもとに病気の進行を抑える物質を探す研究を進めています。
山本さんは、8日、明石市役所で母親の智子さん(39)とテレビで受賞を見守り、山中さんの受賞が決まると歓声を上げていました。そのあと、記者会見した山本さんは、「ノーベル賞の受賞はすごいと思います。今回の受賞でiPS細胞の研究に改めて注目が集まると思うので、さらに研究が進み難病治療の薬が早く開発されてほしい」と述べ、受賞を喜びました。また、母親の智子さんは、「山中さんは全く偉ぶらずに息子と同じ目線で優しく話をしてくれる人柄です。これでさらに研究が進み、1日でも早く薬の開発が行われるとうれしいです」と話していました。
(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121008/k10015594981000.html

共に評価された2人の研究者
今回、山中さんと同時に受賞することになったイギリス、ケンブリッジ大学のジョン・ガードンさんは、1962年に行った実験で、カエルの卵から核を取り除き、代わりにオタマジャクシの細胞の核を移植しても、卵がそのまま成長することを示しました。
いったん成長した細胞の核でも、卵の中に入れることで、受精卵の細胞核と同じような状態になる、「初期化」が起きることを初めて示しました。
その44年後の2006年、山中さんはマウスの実験で「iPS細胞」を作りました。
ガードンさんの示した細胞の初期化が特定の4つの遺伝子を細胞の核に入れることで可能になり、皮膚の細胞が受精卵のように、体のあらゆる組織や臓器に変わることを世界で初めて示したのです。
翌年には、ヒトでもiPS細胞を作ることに成功し、山中さんはヒトの細胞でも初期化が起きることを証明しました。
こうした業績から、山中さんは、3年前、ガードンさんとともに、アメリカでもっとも権威のある医学賞、「ラスカー賞」を同時に受賞しました。
受賞が決まったときの記者会見で山中さんは、「身に余る光栄で、この分野の父と呼ぶべき人と、ともに受賞できるのは格別の思いです」とガードンさんへの敬意を込めて喜びを語っていました。
また、ことし6月、山中さんが大会長を務め、横浜市で開かれた国際幹細胞学会では、ガードンさんが、初日の冒頭で講演を行い、初期化の仕組みについて、研究の進展を報告しました。
(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121008/k10015593381000.html

受賞理由の「初期化」とは?
山中さんのノーベル医学・生理学賞の授賞理由として挙げられたのが「細胞の初期化」についての研究成果です。
ヒトや動物の体は、1個の受精卵が分裂を繰り返し、さまざまな役割に変化した細胞で形づくられています。
細胞の核に詰まった遺伝情報がいったん役割を決めると元の細胞に戻ることはないとされてきました。
ところが山中さんは、6年前、マウスの実験で、皮膚の細胞の核に、特定の4つの遺伝子を入れると、受精した直後のように、体のあらゆる組織や臓器に変わる「初期化」が起きることを世界で初めて示し、この細胞を「iPS細胞」と名付けました。
翌年にはさらに、ヒトでも同じ方法でiPS細胞を作り出し、それまでの生命科学の常識を打ち破る発見となりました。
今回、山中さんとともに受賞者に選ばれたイギリスのジョン・ガードンさんも同じ「初期化」をテーマに研究をすすめ大きな成果を上げました。
ガードンさんは、1962年に行った実験で、カエルの卵から核を取り除き、代わりにオタマジャクシの細胞の核を移植しても、卵がそのまま成長することを示しました。
いったん成長した細胞の核でも、卵の中に入れることで、受精卵の細胞核と同じような状態になる、「初期化」が起きるとした最初のケースでした。
(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121008/k10015593411000.html

ノーベル生理学・医学賞 - 京大の山中伸弥 iPS細胞研究所長・教授が受賞
スウェーデンのカロリンスカ研究所は2012年10月8日(現地時間)、2012年のノーベル医学・生理学賞の受賞者として、京都大学 iPS細胞研究所 所長/教授で、同大 物質-細胞統合システム拠点(iCeMS)の連携主任研究者の山中伸弥氏ならびに英ケンブリッジ大学のJohn B. Gurdon教授に授与すると発表した。
両氏の授賞理由を「for the discovery that mature cells can be reprogrammed to become pluripotent」と同研究所では説明しており、iPS細胞(人工多能性細胞)を開発したことが評価された形となった。
山中氏のiPS細胞に関する発表は2006年8月に、ノックインマウスの線維芽細胞を用いた多能性誘導アッセイ系により、候補因子の中から4つの遺伝子(Oct3/4, Sox2, Klf4, c-Myc)の導入で、ES細胞と形態、機能が近似した人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell)が樹立できるということを米学術雑誌「Cell」に発表して以降、ほぼ毎年のようにiPS細胞に関する研究成果が発表を行ってきている。ノーベル医学・生理学賞では、広く実用化した段階で授与されるのが通例とされているが、今回の受賞は、そうした意味でも極めて早い段階での受賞となった。
同氏は1962年生まれの50歳。経歴などは、1987年3月に神戸大学の医学部を卒業。1993年3月にに大阪市立大学大学院医学研究科博士課程を修了後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の博士研究員や日本学術振興会特別研究員、大阪市立大の医学部助手、奈良先端科学技術大学院大学(NAIST) 遺伝子教育研究センター 助教授を経て、NAIST 遺伝子教育研究センター 教授。2004年10月、京大 再生医科学研究所 教授。2008年1月、iCeMS iPS細胞研究センター長、2010年4月、京大 iPS細胞研究所長となっている。
同氏の受賞者は日本人のノーベル賞受賞者は、米国籍を取得している南部陽一郎氏を含めて19名となり、医学・生理学賞の日本人受賞者は1987年の利根川進氏以来の2人目となる。
授賞式は2012年12月10日にスウェーデンのストックホルムで行われ、賞金として800万スウェーデンクローナ(日本円にして約9400万円:2012年10月8日時点)が贈られる。
(マイナビニュース)
http://news.mynavi.jp/news/2012/10/08/027/




iPS細胞研究の山中氏らにノーベル賞 医学生理学賞」の追加情報です。