論文を書くということ | KFデラックスの日記

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・人災のため2010年2月2日よりこちらに引越しをいたしました。最近、「なう」も始めました。
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・2013年4月25日より、名前をKFデラックスに変更しました。

こんばんは!!


今日は急に暖かくなりましたね。

僕の大嫌いな夏に向かっているようで複雑な気持ちです。


一年中スーツ着用なので8月あたりが思いやられます。


昨晩は,先日ガイダンスを担当した慶應LSの2Fの飲み会に出席させて頂きました。

昨年の2Cと比べると大人しいかもしれませんが,穏やかで良いクラスになりそうな印象を持ちました。



一次会はラッキーな事に女子テーブル^^

ハーレムですな。

二次会は末っ子君と眠たそうな子

若い。


さて,今日は


訴状・答弁書・準備書面の起案方法を学びました。

やはりこれらのリーガルライティングをする上で必要なのは要件事実的思考であり,司法試験時代の勉強が活きてくるのだと思います。


仕事を終え,KER3年のヤスと新宿へお買い物!

その後寿司!!




KERヤス。

タケノコの天ぷら!

美味しい!

最後に少し握りを食べて。


ヤス,お買い物のお付き合いありがとうございました。






さて,巷では小保方さんの論文問題が話題となっていますね!

本件小保方事件で捏造や剽窃があったかどうかはまぁどうでも良く(本来は深刻だけど),論文を書くにあたり捏造やコピペをする意味・メリットがどこにあるのかと真剣に思います。


そういった人たちは論文を書く意味というか,喜びを分からないまま執筆しているのではないかという疑問を持たざるを得ません。



僕自身,(半人前ながらも)人生で3回論文を書く機会がありました。



高校3年の時の卒業論文

大学4年の時の卒業論文

司法試験後のリサーチペーパー



です。



高校時代は

『日本が導入すべき世界の教育 ---フィンランドの学力の謎--』

というテーマで執筆しました。

3万字程度。


17歳の僕が書いたものであり,文献の引用方法等の基本的作法がなっておらず,エッセイに近いものだったと思います。


教育に興味があった僕は,PISAという世界共通試験のようなもので1位となったフィンランドの教育のあり方に着目し,日本にどの程度導入可能なのかを検証した論文です。


「教師」の質にこだわり続けたフィンランドの教育について理解を深めることができました。


指導担当のサポートもあり,優秀論文賞を学校から頂くことができました。




大学時代は

医療訴訟におけるカルテの証拠保全


について執筆しました。

2万字程度。


初めての法律論文の執筆であり,なんとか完成させたものです。


『白い巨塔』というドラマで病院にカルテの証拠保全をしに行くシーンがありますが,あれを見て,この社会学的事実は法的にはどのような手続に従って行われているのだろうという疑問を持ったことがきっかけでした。


司法試験後は

『類似必要的共同訴訟における当事者の手続関与権の濃淡』

というタイトルで執筆しました。

8万字程度。


この論文は決して主流とは言えない類似必要的共同訴訟という訴訟類型に着目し,あらゆる紛争類型ごとに整理したものです。


現在,2名の最終選考に残っており,今月雑誌への掲載の可否が決まります。

ここまで来たら最後まで残ってもらいたいです。



以上のように自分の浅い人生の中で3本論文を書きました。



たかが3本ですが,3本の論文を執筆して,論文を書くということのメリットは何なのかを考えたので今日の記事にしようと思います。


1 自分の頭で考え,悩むことは人間の美徳であること


 アルバイトをしたりする時,確かに事務処理のような単純作業の方が楽だと思います。しかし,途中で飽きたりしてしまうのではないでしょうか。


 司法試験でも短答プロパーの勉強は暗記ばかりで苦痛でしたが,論文の勉強はそのような苦痛はありませんでした。もちろん,楽という趣旨ではありませんけど。


 仕事をする上でも,自分に裁量があり,その範囲内において自分の頭で考え,悩み,結論を出せるからこそやりがいがあるのではないでしょうか。


 それと一緒で論文を執筆している最中は本当に考えます。考えて,考えても答えがなかなか出ないことがあります。確かに大変かもしれませんが,その瞬間こそが自分の成長の機会となるし,人間が持つ美徳を享受している時間なのではないでしょうか。


 もっと狭い話をすれば,司法試験の勉強をする時,一定の結論のみを覚えることは簡単です。しかし,なぜそのような結論に至るのかを自分の頭で考えることが一番大切であるし,自分の頭で考え抜いたことは簡単には忘れません。


 このように論文を書くということは自分の頭で考え,悩める貴重な機会となります。



2 自己表現手段の1つであること


 なぜ論文を書くのでしょうか。それは,自分の頭で考えたことを文章にし,世に発表をし,それが「承認」されることを通じて喜びを感じるためではないでしょうか。


 ノーベル賞等,世界的に権威のある賞はもちろん,学校内におけるクローズドな空間における賞であったとしても,自分の表現物が評価され承認された瞬間というのは嬉しいのではないでしょうか。なぜなら,自己表現を受け入れて貰えたからだと思います。


 人間は演説などの言語的手段はもちろん,服装,髪型などの非言語的手段を通じた自己表現を行います。これらの自己表現が他者から承認されることはとても嬉しいことだと思います。「その服かっこいいね。」「その髪型かっこいいね!どこで切ったの?クレアトゥール?」みたいな事を言われると嬉しいはずです。


 こういった自己表現―承認という形が論文という形に変わっただけです。


 およそ都知事になれないような人が多額の供託金を積んで立候補しますね。あれに何の意味があるだろうと考えました。僕はあれはある種の自己表現なのではないかと思います。適法に演説ができ,テレビでも放映され,ビラも貼れます。これは一般人が真似しようとしてもできない表現手段です。多額のお金をかけてまでも,自分を表現したいからではないでしょうか。


3 苦労して自分の足跡を残せること。


 これは2とリンクするかもしれませんが,成果物という形で足跡を残せることはとても有意義なことではないでしょうか。


 学生生活を振り返って「ラグビー部で主将を務めて,良い結果を出せた!」「留学に行けた!」というのも素敵な足跡です。目に見える物理的な足跡としてはまさに論文が挙げられるでしょう。「大変だったけど,執筆した論文に賞を貰えた。」というのは思い出にもなるし,形にも残ります。


 苦労したことなんて,過去を振り返る時点まで時が経過すれば思い出話になります。楽だったことは振り返ってみても何も残りません。苦しかったからこその足跡なのです。


 自分の中で「司法試験に合格した。」というのは自分の人生にとって大きな足跡を残せたと思っています。自分の能力を考えると,勉強はとても大変でした。泣いたこともありました。けど,大変だったからこそ苦労話として思い出に残っています。


 論文を書くということは苦労して自分の足跡を残せる貴重な手段です。


4 執筆した分野に詳しくなることでチャンスを広げられること。


 ある一つの分野について執筆するということは,周辺部分を含めて相当程度リサーチすることとなります。そうすれば自ずと,当該分野について詳しくなります。


 当該分野に詳しくなることは,一般論から言っても有益だと思いますし,それを公開することで,仕事の依頼を受けたり新たなチャンスがやってくる可能性が高まります。


 チャンスなんてそう転がっていません。自らチャンスを呼び寄せることが大切なのではないでしょうか。論文執筆は自己の能力を高め,新たな可能性を創出する貴重な活動ではないでしょうか。


5 プロから直接指導を受けることで,文書作成能力が向上すること。


 言うまでもなく,文書を作成する訳ですから,文書作成能力は一定程度向上すると思います。文書は実際に書いて,プロに見てもらうのが鍛えるのに一番の手段だと思います。


 僕の後輩で,ESを僕に送って貰い,僕が添削して返却するということを何回も繰り返していた人がいました。最初は淡白な文章でしたが,徐々に迫力があり,心に入ってくる文章に変わってきました。それがどこまで影響したかは不明ですが,ES段階では結構通り,内定も出たみたいです。


 僕はプロでも何でもないので,当てはまりませんが,社会に出たらプロから直接指導を受けられる機会ってあまり無いと思います。論文を書くことを通じてプロの指導を受けますが,それ自体貴重な機会ですが,それを通じて文書作成能力が向上することにもメリットはあります。


 法曹は「言葉を命とする職業」なので当たり前として,仕事をする上で文書を作成する機会は決して少なく無いと思います。その際に良い文書が作成できるというのはメリットなのではないでしょうか。


6 (即物的なメリットとして)留学等のプラス材料になること


 これは自分の指導教授の三木先生が仰っていたことです。三木先生の文章をそのまま転載したいと思います。


「卒論は、将来における重要な「財産」になる。ここにいう「財産」には、人間としての成長というような抽象的な意味を含めてもよいが、もっと即物的かつ実利的な意味での「財産」という意味もある。毎年、9月頃になると、官庁・企業に就職したり弁護士・裁判官になったりした卒業生から、アメリカのロースクールなど、外国の大学に留学するので推薦状を書いて欲しいという依頼が数多く舞い込む。こうした留学のためには、推薦状が必須である場合が多く、しかも合否の判定にあたって推薦状の占める比重は重い。こうした推薦状であるが、その卒業生が学生時代に卒論を書いているかどうかで、大きな差異が生じる。その卒業生が卒論を書いていない場合には、教師として売り込むべき業績や個性が見出せないからである。欧米の大学では、日本の大学時代に受動的に教室で授業を聞いていたというだけの出願者は、かりに学生時代の成績がよくても、あまり評価されない。また、創造性や独創性などを具体的に示すエピソードが必要である。学生時代における学問分野での積極性・創造性・独創性などをアピールする素材としては、卒論のほかに適当なものは少ないのである。もちろん、法科大学院の入学試験や公私の機関の採用において推薦状が要求されることもあり、こうした際にも卒論は威力を発揮する。 」



7 まとめ


 このように論文を書くメリット・喜びはとても大きなものだと僕は考えています。これは別に研究者になる人だけでなく,それ以外の多くの層に当てはまるのではないかと思います。


私見として上記のような効能があると思っているので,論文を捏造したりすることは考えられません。


 積極的に論文を書けとまでは言いませんが,「卒論があるゼミには行かない。」と言う発想だけは持たず,少なくとも大学生活で1本思い出に残る論文を書いてみたらいかがでしょうか。