カルロス・ザンブラーノ
ニックネームは "Big Z"。フォーシーム・ファストボールのほか、ツーシーム、スライダー 、カーブ 、SFFを投げ分けます。奪三振も少なくはないものの本人は「私はストライクアウト・マンではない。グラウンドボール・マンだ」と語っています。
1997年にカブスと契約。2001年8月20日、ブルワーズとのダブルヘッダー第2戦に先発しメジャーデビュー。1か月後の9月20日、アストロズ戦でメジャー初勝利。2002年は開幕をマイナーAAA級アイオワで迎えたが、その後すぐにメジャー昇格。7月1日以降は先発ローテーション入り 。
2003年は開幕からローテーションに定着。ケリー・ウッド、マット・クレメント、マーク・プライアー、ショーン・エステスに次ぐ5番手という立場ながら200イニングを投げ13勝。2004年 には16勝・防御率 2.75でチーム二冠となり、自身初のオールスター選出。こうして実績を残し、2005年には開幕投手。その開幕戦で球審の判定に腹を立て「お前には眼鏡が必要だ」と暴言を吐いたことで退場処分を受けたザンブラーノだが 、このシーズンを通してエースとして活躍し14勝・防御率3.26・202奪三振を記録。
2006年春にはベネズエラ代表として第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC) に出場。初戦・ドミニカ共和国戦で救援登板。エイドリアン・ベルトレー
に3点本塁打を浴びました。同年のMLBレギュラーシーズンでは、7月中に6勝を挙げ、月間防御率が4.15ながら月間最優秀投手賞を受賞。この年はチームが地区最下位に沈むなか、与四球がリーグ最多ながらシーズン16勝を挙げ、自身初タイトルとなる最多勝を獲得。
2007年は、シーズン開幕前に「今年はオレがサイ・ヤング賞を獲る。そしてカブスはワールドシリーズで優勝。このオレが保証する」と宣言 。しかし、6月1日のブレーブス戦、捕逸や暴投で失点したことに怒り、ベンチやクラブハウスで捕手マイケル・バレットと殴り合い。この件については同月20日、最終的にバレットがパドレスへトレードで放出。また、9月3日のドジャース戦では4回8失点で降板。ファンは8月以降勝ち星のなかったザンブラーノにブーイングを浴びせ、これに対しザンブラーノは罵り言葉を発しながらベンチへ、翌日に謝罪。結局、この年は自己最多の18勝も、奪三振率やWHIPが前年から低下。チームは前年の最下位から地区優勝しポストシーズンへ進出したが、地区シリーズで敗退。8月17日には5年総額9,150万ドルで契約を延長。
2008年はシーズン投球回は6年ぶりに200を下回ります。9月14日のアストロズ戦では4回にミゲル・テハダに四球を与え、完全試合を逃すもノーヒッターも達成。この試合は当初はアストロズの本拠地球場ミニッツ・メイド・パークで開催される予定が、ハリケーン・アイクがテキサス州 に上陸し、同球場があるヒューストンも損害を受けたため予定を変更、ブルワーズの本拠地であるミルウォーキーのミラー・パークで行われました。試合する2チームのどちらの本拠地でもない中立地でノーヒッターが達成されたのは、史上初。 シーズンでは14勝を挙げています。しかし防御率が4点台近くまで悪化。
2年連続出場のポストシーズンでは再び地区シリーズで敗退。ザンブラーノも同シリーズで敗戦投手。さらに、この右肩痛が原因で、前述の通り参加を希望していた第2回WBCも出場辞退 。ヨハン・サンタナ も辞退していますので、フェリックス・ヘルナンデス が一人、エースとして頑張りベスト4。もしどちらかでも出ていれば、韓国を破り、決勝は日本VSベネズエラだったでしょう。
投手ながら強打のスイッチヒッターとしても活躍。2005年は80打数24安打 ・打率3割を記録。2006年は6本塁打を放ち、投手による本塁打の球団記録に並ぶ とともにシルバースラッガー賞を初受賞。2008年にも打率3割3分7厘、4本塁打、14打点で受賞。2009年も4本塁打で受賞。
彼についていつも言われるのは「自分をコントロールできるようになれば球界を代表する投手になれるのに・・・」ということ。私も同感ですが、彼の良さを上手く引き出してくれるパーソナルキャッチャーがいれば・・・。
<最終更新日 2012年7月25日>