自分の人生考えよって、ある事を思うたがよねー
たぶん
人生ってもんにはある一定の負荷があるがやと思うわ
その負荷は何をしても退けれるもんやないがよね
もし逃げたとしても違う出来事で同じ濃度の負荷がくる。
なんで逃げれんかってゆうたら
それを負わんなら、死ぬるがやろうね
生きる寿命と引き換えに負荷を乗せちょくがやろう
負荷=不幸ながやけど
よく仏教では言われるやいか
生きるとは修行であると
その修行をやる時間が、寿命ながやろう
やけん苦労して磨かれてええ人に成ったら、さっさと死んでいくがやろうね。
楽になりたい=死にたい。と結びつくのは、ある一種の道理でもあるかもしれんね。
こんな逃げて終るような浅はかなことは真理とは言わんけんね。仏教視点でゆうたらギリギリ、道理とゆうやつやろう。
私は家庭とゆうものにしんどい思いをして
親とまったく縁を切った2年間があったがやけど
その間は楽になると思うちょったら、ところがどっこい、その縁を切った年に職場を変えたら親の分身みたいながと働くハメになって
身内じゃない分2倍にしんどい思いをして適応障害になったわ。
なんでか、職場を辞めたら次は親との関わりがもんて、
ああ、どの道面倒くさいと思うたもんの
他人をクソと呼ぶか、身内をクソと呼ぶかなら、身内をクソと呼んだ方がええわと思うて、親と縁を切れんがは諦めた。
逃げても外に違う形で同じものが同じ濃度やってくるもの。
そういやぁ、言われちょったと思うたがよ
袴のおんちゃんらーに
『負荷を退けることはできん』
と
唯一退ける時があるならそれは死ぬ時だと言われたわ。
負荷を退けるとゆうことは、この世に生きる因果を切ることになって、死ぬるがやろうね。
お前死ぬるぞって、何回も言われたわ
その度に助けないかんけん大変やと。
精神的な病気ってもんはよ
実際の自分の宿命から逃げる時に起こるもんながかもしれんね。
歩むべき運命を歩んでない時ってゆうのが、精神を崩す時かもしれんね。
そう自由にできる時期が、厄年というね。
前回の職場の本心の本当の目的は
光ある生活を送るために軽い所を引き寄せていったつもりやった
やけど、その軽さが大地獄となったわ。
重りっているがよ。
気楽に軽くなれれば、楽にいけた職場かもしれんけど、あの親の分身にはやられたわ。
過去にやられたしんどさの記憶が関わる度に蘇るわ
親と一切関わらんなって、それがきて、そのせいで親と関わるようになってから、こっちは退職したけん縁が切れたけんね
結局二転三転して元に戻ったわ。
面倒〜くさいと思うばっかりよ。
富士が動くけん怒るな怒るな言われて、ええ子で過ごさんといかん毎日やし
まあ、そこまで怒ることも親と関わらんなってから前みたいにはなくなったけど
退けたいに、退けれんと
思うたことやったわ。
たぶん人ってもんはなんらかの負荷を背負っておる状態が普通ながやろう
徳が高くて根っから明るい性格の魂には、それに匹敵する身体の障害が付き物やろうしね。
何かしらの相反するものを持つことが生きるってことよ
やけん、人生は修行といわれるがよ。