そういやあ、普通というのは楽であることや楽しいだけとか嬉しいだけというのとは違うな~と思う
人生の普通という基準とは生きるとは大変で苦労があること
やと思うね
でもこの大変や苦労は人によって感じかたが違って、大変や苦労をある一定の基準でゆうよりかは
本人の感覚の渡合をそれぞれ基準にした方が正確やろう
事故してもケロっとしていたり、ドーンと落ち込んだりするのも人それぞれやけん
人によって感覚が違うやんか。
まあ、けんど
腹痛と下痢を起こして苦しむさまは、ほぼどんな人間でも変わりなく同じ苦痛を味わいよる
出産とかね。
病気ってもんからの痛さは大抵均一やないかと思うね
レベル2の痛みには殆どの人は顔が青くなって冷や汗をかくことが均一ですとか。
んで、何が言いたいかって
人生とは普通大変で苦労するもんながやということが前提やと思うたね
そりゃあお金持ちでなに不自由のない人生の人もおるけど、まず不幸に出くわさんことはなくて、本人が気付くか気付かんかだけの問題ということよの。
誰やち必ず病気になるけんね。
幸せが普通という前提で物事を考えた時に
幸せってなんやろうと思えば、苦労や大変さはあるけど、一部ぼーーーとできる時間がある一日が続く事。
8割大変で2割自由というやつないろーかね。
それを動かして割合を逆転させろうとすることがそもそもの不幸やないろうかねえ。
おかしいとか、変とか、もうちょっととか、人はああなのに、こうなのに、とか思うてきたら逆転させろうと頑張るがやろうけど
思えば大変なことって、今に始まった事ではなかったと思えばこれがおかしいというもんではなくて、そもそもこのしんどいことが普通やったと思うたら
疑問が消えたわ。( ̄ー ̄)
なんでやろうというたところで、周りも大変やに、何がなんでやろうということをワザワザ考えんといかんがやろうかと思うたわ。
何が、なんでやろうながやろう?
やけどね、不幸は味わっても
悲惨なことはやらんでええと思うがよ。
やけん神様の力を借りるなら、悲惨なことについて助けてもろうたらええし
本人の背負うべき不幸より量が多い場合に、悲劇を越えて悲惨になるがやけん
そこはやる必要はないと思うね。
人間として生きるなら。
ああ、そういえば
『感情は先祖』
といいよったね
先祖は感情に影響するらしいね。
よくわかる。
腹が立ったらおさまりつかんなるもの。