「ふぅ……。」
蛇口をひねり、水を止めながら蓮は小さく溜息をつく。
そして、水滴で濡れる顔をタオルで拭いながら鏡に映る自分自身を見た。
「……………。フッ。」
寝不足で少しくたびれた表情はしているものの、顔色は良好だ。
身体はだるさがあるが、精神的な活力としては漲るほどである。
今日の午後からの仕事に支障は出ない…いや、絶好調でこなすことができるだろうと確信して、蓮はもう一度鏡の中の自分を見る。
「…………良い目をしているじゃないか。なぁ?」
語りかけるは自分自身。だが、それは『敦賀蓮』にかけた言葉ではない。
「ちょっと中途半端かな?でも、ミス・ウッズがいないし……。」
ハゲに対する危機感はないものの、自分でいじるには後ほどの美の女神が恐ろしい。今後、一切仕事で関わってくれなくなっては『敦賀蓮』として生きていけなくなるので、仕方がないことだと思うことにする。
「……でも、『コレ』が今の『オレ』なのかもしれないな………。」
鏡の中で笑っている男。
その男の瞳は、いつもの濡れるような黒い瞳ではなかった。
―――コーンの瞳って、とっても綺麗ねェ~~~~……―――
うっとりと、とろけるような声でそう言ったのは、幼い6歳の女の子。
―――綺麗な緑色の瞳……でも、光にあたると一瞬だけ赤茶色に変わるのよ?うふふっ、素敵な魔法みたい……―――
メルヘンワールドに半分飛んでしまっている、夢見る乙女の大きな潤んだ瞳こそが、綺麗だったことを今でも覚えている。
「……君の瞳の方が綺麗だよって言ったら、どう返してくれたんだろうな……。」
もはや戻ることはできない過去の出来事だけれど。
思うままに語れなかったあの瞬間から、すでに『彼』の心はキョーコのものだったのかもしれない。
あの日より、大人びてしまったけれど。
今、鏡の中にいる人物は、少女を夢見心地にしてみせた、緑の瞳をしている。
しかし、それを縁どる髪は、金色ではなく……。
むしろその対極に位置されてしまうことが多い、漆黒の髪。
「半分妖精、半分人間……?半分『コーン』で半分『敦賀さん』。……どう取るだろうな、あの娘は。」
う~~ん、と腕を組んで少女の反応を想像してみる。
未だ、二人で過ごした寝台にいる女の子は、先ほどやっと夢の国に旅立ったところだった。
「…………。まぁ、何だっていいか。」
一晩中。二人で話をした。
たくさんたくさん、話をした。
少女は、蓮の話を聞いて、怒って、泣いて、笑って、恥ずかしがった。
蓮の腕の中で暴れて叫んで、蓮をぎゅっと抱きしめてくれて、お腹を抱えるほどに笑い転げて…そして、全身を真っ赤にしながら蓮から顔をそむけてみせた。
そんなキョーコの反応が可愛くて、何度も何度もキスを送り、キスをせがんで。
たくさんの口付けを送り、送り返された。
そうして、世界が陽の光の恩恵を受け、白み始めるころ。
疲労の限界に達した少女が眠りについて、今に至る。
「……………。」
『敦賀蓮』との日々は、彼女が腕の中で眠りにつくまでの間に、大体は語ることができた。
けれど、『彼』とキョーコの物語はそれだけではないから。
「……『オレ』も一緒に、受け入れてくれるかな?」
『敦賀蓮』はキョーコに対して決して紳士的ではなかったけれど。『クオン』のような罪を負った人間ではない。
けれど、この21年間を生きてきたのは、『敦賀蓮』だけではなく、『クオン』も一緒なのだから。
だから、語ることを未だ恐れる話をも、少女に伝える必要がある。
――― 一緒に、います。―――
「うん。一緒に、いたい。」
……一緒にいるために。
全てを、愛しいあの娘に伝えよう。
鏡を見つめる。
鏡の中にいる男は、少し情けない表情をしているが…それでも。
その瞳の色に、絶望の光だけはなかった。