「……。社長。須永先生。」
「…なんだ?」
「……おう。」
ローリィはテーブルに戻した湯呑みをじっと見つめ…須永は相変わらず天井に視線を向けたままだった。そんな初老の二人を社は順に見た後、そっと目を閉じた。
――-この2人は、まだ見捨てたわけではない。それどころか…信じて、いるのだ―――
目の前で倒れた男を思い出す。自身が6年間作り上げていた人格を演じることもできなくなってきた状態なのに、未だに「大丈夫」と繰り返すだけの男。
でも…倒れる瞬間の瞳が叫んでいた。「助けてくれ」と。「苦しい」と。
『彼』は口に出さないかもしれない。限界に近い状況にありながらも、胸に巣食う闇をじっと一人で抱え続けるのかもしれない。
「俺…待ちます。」
支えの少女を失って、彼は絶望の淵にいる。それでも、何食わぬ顔をして『敦賀蓮』たらんとするだろう男。…彼が、いつか手を差し伸べて欲しいと。そう、社に願い出るまで…。
「俺も蓮を信じて、待ちます。…あいつが、俺を本当の意味で信じてくれるまで。」
他人である自分に頼っていいのだと。信じてもいい人間なのだと気付いてくれるまで。…最上キョーコだけが、彼を支える全てではないと、そう自分自身で理解してくれるまで。そして、自からの意志で欲した少女を得ようと、もがき始めるまで。
「辛いぞ。耐えられるか?」
『敦賀蓮』が日本の芸能界のトップに立てるように、一緒になって走ってきたつもりだった。信じてくれて、頼りにしてくれていると思っていた。何でも、共有できていると思っていた。
「…はい。」
実際は、全てを信じてくれているわけではないし、本当の意味で頼りにはしてもらえていない。そのことに対する苛立ちはある。それでも……。
「俺は、『敦賀蓮』のマネージャーですから。」
初めて会ったその日から、共に険しい道を走ってきた。今更、この立場を誰かに投げ出すつもりはない。
「見守ることも、『愛』ですよね?社長。」
「……そうだ。頼まれる前に動いてやる必要はない。それがどれほど歯痒いことでもな。」
ローリィは、目の前で笑顔を浮かべる青年に、「ふふんっ」といつもの調子で笑ってみせた。
「社長の愛の深さにはいつも感服します。」
「お前も大概になりつつあるぞ。せいぜい松島を倒れさせない程度に見守ってやれよ?」
「はい。…大丈夫です。あいつは『敦賀蓮』ですからね。仕事に支障を出すわけがない。このことは、『敦賀蓮』をサポートしてきた人間として自信を持って言えます。」
目を覚ました青年は、どれほど苦しい現実であろうとも、『敦賀蓮』たらんとするだろう。己を否定した少女が、記憶を失くす前に向けてくれていた感情を守ろうとする気持ちは、どれほど傷ついても失うことはない。
何よりも、彼には役者『敦賀蓮』としての誇りがある。それは、これまでの『彼』を見てきた社にはよく分かっている。
「それでは、俺は蓮の様子を見に行ってきます。」
「あぁ。…何かあれば連絡してこい。できる限りのことはしてやる。」
「はい。ありがとうございます。」
にこりと笑って頭を下げる社は、何かがふっきれたような清々しい表情をしていた。
「頼もしいガーディアンだな?」
「あぁ。『あいつ』には勿体ねェくらいだ。」
「失礼します。」と綺麗なお辞儀をして退出していった青年。優秀なマネージャーの背は、自信に満ちあふれていた。普段通りの穏やかな空気に、何か強い力が加わったかのような…。
そんな彼を見送った後、二人は穏やかな笑みを浮かべながら、頼りになる若者が出て行った扉を見つめ、言葉を交わす。
「…後は、坊主が変わるだけだ。」
「そうだな。」
自分の周囲にいる人間を信じ、本当に欲しいものを「欲しい」といえる人間になる…。そうなることで、彼はやっとキョーコを得るための土俵にあがることができるのだ。
今の『彼ら』には、その資格さえない。
「 。…久遠。…蓮。」
ローリィが目を閉じながら呟いた言葉。音にはならず、ローリィの胸の内にとどまったままとなったその言葉は。