「でも、大丈夫です。」
「……蓮。」
「すみません。でも…。…大丈夫、なんです……。」
世間的には『敦賀蓮』と『京子』の根も葉もない噂は終息を迎え、仕事の上では平穏な日常が送られるようになっていた。
だが、蓮個人としては『大丈夫』なわけではない。
この一週間。蓮とキョーコの関係は何一つ変わってなどいないのだ。その結果、キョーコが無事だったことで一時は立ち直った『彼』の心は、徐々に…だが、確実に蝕まれつつあった。
…深夜、宝田邸ゲストハウスに戻ると、玄関は真っ暗になっている。その先にあるリビングルームも、同じように真っ暗で。
先にある『闇』は、そのまま自身の『闇』に見えて、いつも蓮は玄関先で立ち止ってしまう。
そして、キョーコがいるであろう部屋…蓮のマンションの間取りでいうところのゲストルームがある場所に視線を向ける。
…あそこに、『キョーコ』がいる……。そう思うことで、蓮は毎日ゲストハウスの玄関の照明をつけ、リビングルームに続く廊下を歩むことができた。
最上キョーコの気配を全く感じない、蓮のマンションを完全に模した『ゲストハウス』。それでも、蓮の寝室に入ればその中には、きちんと畳まれて隅に置かれた洗濯物がある。……陽の香りをまとった掛け布団が、ある……。
こうして、毎日『最上キョーコ』の欠片を確認し、辛うじて明日へとつなぐ。『敦賀蓮』としての心と…立場を。
「…大丈夫って、お前……。」
「大丈夫なんです。」
どれほど、助けを呼びたいと思っていても。迫りくる自身の『闇』に怯える日々を送っていても。
―――大丈夫…。―――
そうとしか、言うことができなかった。これ以上、どうしたらいいのかも分からない状況下で、社まで巻き込むことはできない。…己の過去を正確に知らない、善良な人間に久遠の『闇』を見せることなど…その相手を大事だと思えばなお一層、できることではない。
……プキュッ、プキュッ、プキュッ、プキュッ……
蓮と社を取り巻く空気は、周囲の空気よりも酸素が薄く、重苦しいものとなっていた。その中でも、平然としたふりをして歩んでいた二人の耳に…。何やら、間抜けな空気の抜ける音が聞こえる……。
「あっ!!」
聞き覚えのある音に思わず足を止めた蓮の耳に、社の驚いたような声が聞こえる。
「蓮っ!!見ろっ!!」
先ほどまでの深刻な様子はどこに行ってしまったのか。社は目を輝かせながらある方向……。間抜けな音が響いてきた方向を指さす。
そこには。『プキュッ、プキュッ』と規則正しい珍妙な音を立てながら歩いている…鶏の後ろ姿があった。