「……社さん……。」
「…なっ、何ですかな…?こっ琴南さん…。」
一部始終を、視線をそらすことなく睨みつけるかのように見ている奏江。…社はこれ以上は見ていられないと早々に視線を外していたのだが、外したがために、奏江の眉間に皺を寄せた鬼のような形相を見る羽目になってしまった。
「……あれはセクハラじゃないんですかね……?」
「うっ…。あ、あの……。でも、蓮も3日もキョーコちゃんから離れていて、キョーコちゃん不足なんだよ……。」
奏江の視線の先では。
蓮がキョーコの左頬に触れ、髪を掻きあげて耳の後ろに指をかけ、髪を梳いて首筋をなで、そして顎を伝い手の甲で右頬に触れ……と、右手でキョーコの顔中を撫でまわしている光景が展開されている。
ここで耐えきれずに奏江も二人から視線を外す。
「…エロい手つき……。」
「あっ…あはは…。ご、ごめんね、本当に…。」
今でさえこの反応で収まっているが、初めて目撃した時は本気で叫びそうになった。…それを押し止めることができたのは、目の前に座る彼も驚愕のあまり顎が外れていると思えるほどの大口を開け、真っ赤になっていたからだ。…つまりは社のあまりの表情に、冷静になってしまったのである…。冷静に見つめた先で、キョーコはやけに大人しくその右手を受け入れていた。まるでそれが二人の当然の『儀式』であるかのように。
あの『右手』は、雄弁だ。キョーコがどれほどその『右手』の意味を理解し、享受しているのか分からないが……。
あの『右手』は、キョーコの存在を確かめるためのもの。キョーコが手の届くところに在ることを確認し、そしてキョーコが己の心にあることを確かめて……。『最上キョーコ』という存在全てをその『右手』で感じるために、キョーコの輪郭を辿り、柔らかな髪を梳いていく。
「…とりあえず、無用なこととは思いますが。伝えておきますね?」
「ん?何?」
「私は、キョーコが受け止めているから何も言っていないだけで。普通あんなことを付き合ってもいない女にしたら深刻な問題になるんだってこと、しっかりと担当俳優に伝えておいてください。」
「…ははっ、それこそ『無用なこと』だよ。」
蓮の右手は語る。『君だけが必要なのだ』と。『君を愛している』と。『君が欲しい』と。
蓮の右手がそんな感情を向ける相手はただ一人。今、彼が瞬きするのも惜しみながら見つめる先の人間のみ。
「…全く、あの子は…。無防備もいい加減にしないと、いつか押し倒されるんだから…」
「…ごめん、時間の問題かも…」
「…想像したくないんで、思っていても言わないでください。」
小声で呟きあう奏江と社に気づくことなく、『右手の儀式』はまだ続く。
うっとりと、その右手を受け止めるキョーコ。まるで主人の手に甘える子犬や子猫のように、彼女の頬に触れる蓮の右手にスリスリとすりよる。
そんな彼女を、一段と甘い笑顔で見つめる蓮。こちらは決して、可愛いペットを溺愛している飼い主の表情ではない。…そこには、一人の『女』を心底愛している『男』の艶やかな色気と仄暗ささえ感じる欲望が見え隠れしている。
「…社さん、後何分ですか?」
「うっうん…後、10分……」
「…ちっ、今日はやけに長いですね。…3日でキョーコ飢え症状マックスですか…。辛抱たりない男は嫌われますよ?」
「あっ、あはははは…。」
『右手の儀式』を目撃したのはこれで4回目。恐らく奏江が目撃していないだけで、2人はもう癖になるほどにこの行為を繰り返しているはずだ。久しぶりとはいえないほどの間隔で何かと会っているくせに、休憩終了5分前くらいに、別れを惜しむかのように始まるものが『これ』だった。…それが今日は15分。3日分を一気に補うかのように始まったこの行為。…彼もそろそろ、『いい先輩』でいるのは限界なのかもしれない。
そんなことを考えながら、終了までの10分を、奏江と社はひたすらにブラックコーヒーを口に含むことで耐えた。
*****
「え!?敦賀蓮!?」
千織のその大声に、奏江は、閉じていた瞳を開いた。
「えぇ。…このLMEの看板俳優で、抱かれたい男№1の、敦賀さん。」
「そっ、そう…。」
千織がどこか呆けたような顔で、キョーコを見つめている。
キョーコは淋しそうに微笑み、それから軽く溜息を吐いた。
「…大事な人が、いる人だって、分かっているんだけれどね…。」
そう呟いた声。そして、全てを諦めたかのように泣きそうな顔で微笑むキョーコ。
……大丈夫よ、あんたの想いは成就する。しかも、多大なる愛を伴って、ね……
「そう…。まぁ、せいぜいその胸のうち、伝えてきなさい。」
「…うん。ありがとう、モー子さん。」
奏江なりの激励の言葉を受け、微笑んだキョーコは…心からの美しい笑みを、みせていた。…キョーコは今よりもっと綺麗になる。あの、この子を愛して止まない男の愛を全身に受け止めて。
少しの淋しさはあるけれど、キョーコが幸せならそれでいい。…大親友には、たくさんの愛と幸せが必要なのだ。誰よりもそれを与えられるのは悔しいことに『あの男』なのだから仕方ない。
―――どうか。どうか、幸せに…―――
奏江は、二人に気づかれないようににっこりと微笑んだ。
そして、『その日』は訪れる。
誰もが想像していた未来とはかけ離れた『運命の日』は、キョーコと蓮…そして彼らを見守る人々の前に、無情にも、訪れてしまった…。