【幕が上がる考察】中西悦子のモロモロ
<長文警報>
この記事は「小説と違う映画の素晴らしさ」という記事を読まないと、解りにくい内容になっています。
必ずそちらを読んでからお読み下さい。
さて、では、今回から映画「幕が上がる」に出てくるそれぞれのキャラクターについて、
焦点を当てて書いてみたいと思います。
最初は有安杏果の演じた中西さんこと、中西悦子。
実は幾つかの感想を見ていると、映画版の中西さんというキャラクターに批判的な意見を目にしました。
特にそのような意見を持つ人は、彼女を演じた有安杏果推しのモノノフが多かった気がします。
果たしてそれはなぜなのか。
原作の中西さんは、県内の演劇強豪校から来るスーパー演劇転校生。
スラっとした美女で、その演技は強豪校の中でもずば抜けていて、主役を食ってしまうレベル。
さおり曰く、「歩く姿が美しい。私が男子だったら、好きになってる。」と思うほどの物腰。
華やかなユッコとは違う、クールでミステリアスな印象をもった女優である。
彼女は演劇への意識が高すぎ、強豪校の演劇部顧問と衝突し、さおり達の高校に転校してきました。
ところが映画版の中西さんの設定はかなり変更されています。
ユッコが嫉妬するほどに演技力が高い女優なのは確かなのだけれど、
転校の理由は自分の滑舌の悪さもあり、強豪校のレベルについていけなかったから。
原作とは真逆で、大好きなはずの演劇から逃げてきた設定なのです。
この設定の改変が杏果推しから見ると、ネガティブに捉えられかねないのである。
他のメンバーに比べてみると、映画版の中西さんのキャラは、
明らかに演じる有安杏果に寄せて作られているように感じるからです。
「滑舌が悪い」という設定がその最たる要素でしょう。
人によってはこれが、有安杏果には中西さんを演じるのが無理だと判断され、
原作からキャラを改変して、演じやすくしたのではないかと感じる。
なんだか自分の推しだけ、バカにされているような気分にもなるのも、仕方ないのかもしれません。
しかしこの映画、そもそもがももクロ全員の演技経験から見ると、少々無茶な挑戦といえる。
25時間に及ぶワークショップをこなし、それぞれに難しいシーンが存在している。
(有安杏果で言えば駅のホームでのシーン、強豪校の一員として演じる枕投げのシーン等)
「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」を見れば、
まるでガルルが当て書きされたような高城れにでさえ、
とんでもないプレッシャーの中、演じていたのが見て取れます。
百田夏菜子などは特に、自分とは間逆に近いキャラクターを演じる羽目になっている。
そんな状況で、中西さんを演じる有安杏果だけ特別視され、
演じやすいように役を改変してもらえたなど、私には到底思えない訳です。
それでは、なぜ中西さんのキャラクターを変更することになったのか。
前回書いた「小説と違う映画の素晴らしさ」の中で、私は高橋さおりのキャラクター改変により、
この映画がよりドラマチックで感動的な仕上がりになったと書きました。
喜安浩平氏の綿密に練られたシナリオが、大成功しているからこの映画は素晴らしいものになっている。
その喜安氏が、単なる気まぐれや、有安杏果への情けでキャラクター改変をしたはずはない。
そこにはなにか大きな要因があったはずなのです。
しかしそれは、少し考えてみると簡単なことでした。
この映画で、原作から大きなキャラクター改変を行ったのは主に2人。
それが主人公高橋さおりと、今回のテーマである中西悦子である。
つまりは、高橋さおりのキャラクターを書き変えることで、
中西悦子というキャラクターを変えなければ、この物語は成り立たなくなったと考えられます。
これを読み解くには、高橋さおりと中西悦子の関係性を知らなければなりません。
原作におけるこの2人の関係性は、演劇という共通の話題があり、
しかもかなり高い意識で語り合える「同志」とも言える存在。
中西さんは演劇部に誘われてから、吉岡先生のレッスンだけは見学するようになるのだけど、
徐々にさおりにも興味を持ち始め、その力を認め始めます。
やがて自分が通う演劇サマースクールの、課題のレッスンや演出まで手がけてもらう。
さらには出会ってたった2ヶ月で、全国大会を見に行く小旅行に誘い、
同じベッドを共にする仲にまでなります。(いやらしい意味ではない)
この2人のシーンは常に演劇と共に有り、個人的な話はかなり少ない。
互いに高め合う、同じ志を持った者として、2人の仲は急接近していくのです。
では、これが映画版になるとどうか。
映画版のさおりは、前の記事に書いたとおり、演劇部部長としては未熟な存在として描かれています。
特に吉岡先生に出会う前は、自分が何者であるかすらわからない。
そんな何者にもなれない自分に、自信が持てずイライラしている。
ある種のコンプレックスを抱いている存在なのです。
さらには中西さんが現れた時点でも、演劇を続ける理由すら答えられない。
その映画版高橋さおりの前に、小説版のスーパー転校生中西悦子が現れたらどうなるでしょう。
おそらく彼女は、さおりに対して興味を抱くことはないと思います。
2人は対等でなければ成り立たない関係。
なのでどちらかが一方的に秀でた存在であれば、同志になることはありえないと言えるのです。
なので、映画版の中西悦子のキャラクターを設定するにあたり、
さおりと同等レベルの存在に下げなければならない。
つまりは自分に自身がもてず、コンプレックスを抱えた存在として描く必要がありました。
だから演劇強豪校を、意識の高さが故に辞めてしまうようなスーパー転校生ではなく、
演劇は好きなのに、演劇強豪校のレベルについて行けず、
ドロップアウトした存在として書き換えられたのだと考えられます。
そこに、ももクロには有安杏果という存在がいた。
彼女も現在では大分改善していると思いますが、
かつて秀でた実力を持ちながらコンプレックスがあり、自分にあまり自信を持てないアイドルでした。
なので彼女こそ中西悦子役がハマり役であり、
キャスティングされたことは必然であったと言って、過言ではないのです。
そして映画版の中西さんは、滑舌が悪いというコンプレックスのある設定なのだけれども、
それは決してモノノフ向けの単なるサービスとして、杏果の滑舌悪さをネタにされた訳ではないと思います。
この設定は中西役が有安杏果に決定してから、本広克行監督が後付した物だと言います。
単純に「強豪校のレベルについて行けなかった」とするよりも、
そういった具体的なコンプレックスを付随し、それが元でみんなに迷惑をかけたとすることで、
より彼女が辞めた理由にリアリティを出すことに、成功していると言って良いでしょう。
これらの設定変更は、映画の中で見事にハマり、印象的なシーンを作り出す事になりました。
原作小説では、2人は全国大会の旅の最中、演劇を通じて徐々に距離が縮まっていきます。
約350ページある小説のうち、30ページほど割いてるので結構じっくりとです。
2人きりの小旅行は面白いし、銀河鉄道の夜の台本を書くきっかけにもなるのですが、
そこに何か派手な仕掛けや展開はなく淡々としています。
120分の映画に、この過程を詰め込む事は、かなり難しい事だと思います。
しかし映画では、ショッピングモールでさおりが中西さんの手を握り、
「一緒に来て、全国」と力強く語るシーンから急激に距離が縮まります。
正直、最初見た時は少し唐突な展開かとも思いましたが、
台本を書くことに行き詰まったさおりにとって、
自分よりも演劇の知識も、経験も豊富な中西さんが偶然現れ、藁にもすがる思いだったでしょう。
そして演劇が好きなのにもかかわらず、その道を諦めてしまった中西さんにとっては、
なぜ演劇を続けているのかすらわからないのに、台本のことで悩みながらも楽しそうに見える、
さおりの姿はとても魅力的で、自分に足りない何かを感じたのかもしれません。
お互いの存在を求め合うのも必然だったのでしょう。
彼女達が全国大会の帰り、駅のホームでお互いの心の内をさらけ出し、打ち解けるシーンは、
この映画の最初の泣き所とまで言われる屈指の名シーンです。
「高橋さん、それでも…、人は1人だよ。宇宙で…、たった1人だよ…。」
「でも、ここにいるのは2人だよ。
中西さん…、やりませんか、演劇。私と一緒に。」
「銀河鉄道みたい…。」
これら心に残る名ゼリフは、さおりが自らの演劇を続ける理由と決意を表明し、
中西さんが自らの挫折と孤独を、告白しなければ成り立たない。
映画版のキャラクターだからこそ、感動的なシーンと成り得たと言えます。
という訳で、私はこの映画版中西悦子のキャラクター改変を全肯定しますし、
そしてこのキャラクターを有安杏果が演じた事は、
この映画を名作たらしめる大切な1ピースとなっていると断言します。
また、中西さんとユッコとの和解は映画版のほうが、
お互いが持っている、無い物ねだりの嫉妬心を認めさせる事によって、丁寧に描かれています。
そして、地区大会が失敗に終わって消沈するさおりの手を親友のユッコではなく、
中西さんがショッピングモールのシーンとは逆に「行こう」と力強く引く姿は、
お互いの関係性が対等になっている事を象徴している、印象的なシーンだと思います。
これら映画にしかない無いシーンは、
それぞれのキャラクターの関係性を、小説とは違った形で見事に補完している。
それらを比較してみるのも、「幕が上がる」という作品の楽しみ方の1つかもしれませんね。
5月にはメディアミックスとして、舞台版の公演も控えていますし、
また新たなる「幕が上がる」の世界が広がる事を、楽しみにしたいと思います。
この記事は「小説と違う映画の素晴らしさ」という記事を読まないと、解りにくい内容になっています。
必ずそちらを読んでからお読み下さい。
さて、では、今回から映画「幕が上がる」に出てくるそれぞれのキャラクターについて、
焦点を当てて書いてみたいと思います。
最初は有安杏果の演じた中西さんこと、中西悦子。
実は幾つかの感想を見ていると、映画版の中西さんというキャラクターに批判的な意見を目にしました。
特にそのような意見を持つ人は、彼女を演じた有安杏果推しのモノノフが多かった気がします。
果たしてそれはなぜなのか。
原作の中西さんは、県内の演劇強豪校から来るスーパー演劇転校生。
スラっとした美女で、その演技は強豪校の中でもずば抜けていて、主役を食ってしまうレベル。
さおり曰く、「歩く姿が美しい。私が男子だったら、好きになってる。」と思うほどの物腰。
華やかなユッコとは違う、クールでミステリアスな印象をもった女優である。
彼女は演劇への意識が高すぎ、強豪校の演劇部顧問と衝突し、さおり達の高校に転校してきました。
ところが映画版の中西さんの設定はかなり変更されています。
ユッコが嫉妬するほどに演技力が高い女優なのは確かなのだけれど、
転校の理由は自分の滑舌の悪さもあり、強豪校のレベルについていけなかったから。
原作とは真逆で、大好きなはずの演劇から逃げてきた設定なのです。
この設定の改変が杏果推しから見ると、ネガティブに捉えられかねないのである。
他のメンバーに比べてみると、映画版の中西さんのキャラは、
明らかに演じる有安杏果に寄せて作られているように感じるからです。
「滑舌が悪い」という設定がその最たる要素でしょう。
人によってはこれが、有安杏果には中西さんを演じるのが無理だと判断され、
原作からキャラを改変して、演じやすくしたのではないかと感じる。
なんだか自分の推しだけ、バカにされているような気分にもなるのも、仕方ないのかもしれません。
しかしこの映画、そもそもがももクロ全員の演技経験から見ると、少々無茶な挑戦といえる。
25時間に及ぶワークショップをこなし、それぞれに難しいシーンが存在している。
(有安杏果で言えば駅のホームでのシーン、強豪校の一員として演じる枕投げのシーン等)
「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」を見れば、
まるでガルルが当て書きされたような高城れにでさえ、
とんでもないプレッシャーの中、演じていたのが見て取れます。
百田夏菜子などは特に、自分とは間逆に近いキャラクターを演じる羽目になっている。
そんな状況で、中西さんを演じる有安杏果だけ特別視され、
演じやすいように役を改変してもらえたなど、私には到底思えない訳です。
それでは、なぜ中西さんのキャラクターを変更することになったのか。
前回書いた「小説と違う映画の素晴らしさ」の中で、私は高橋さおりのキャラクター改変により、
この映画がよりドラマチックで感動的な仕上がりになったと書きました。
喜安浩平氏の綿密に練られたシナリオが、大成功しているからこの映画は素晴らしいものになっている。
その喜安氏が、単なる気まぐれや、有安杏果への情けでキャラクター改変をしたはずはない。
そこにはなにか大きな要因があったはずなのです。
しかしそれは、少し考えてみると簡単なことでした。
この映画で、原作から大きなキャラクター改変を行ったのは主に2人。
それが主人公高橋さおりと、今回のテーマである中西悦子である。
つまりは、高橋さおりのキャラクターを書き変えることで、
中西悦子というキャラクターを変えなければ、この物語は成り立たなくなったと考えられます。
これを読み解くには、高橋さおりと中西悦子の関係性を知らなければなりません。
原作におけるこの2人の関係性は、演劇という共通の話題があり、
しかもかなり高い意識で語り合える「同志」とも言える存在。
中西さんは演劇部に誘われてから、吉岡先生のレッスンだけは見学するようになるのだけど、
徐々にさおりにも興味を持ち始め、その力を認め始めます。
やがて自分が通う演劇サマースクールの、課題のレッスンや演出まで手がけてもらう。
さらには出会ってたった2ヶ月で、全国大会を見に行く小旅行に誘い、
同じベッドを共にする仲にまでなります。(いやらしい意味ではない)
この2人のシーンは常に演劇と共に有り、個人的な話はかなり少ない。
互いに高め合う、同じ志を持った者として、2人の仲は急接近していくのです。
では、これが映画版になるとどうか。
映画版のさおりは、前の記事に書いたとおり、演劇部部長としては未熟な存在として描かれています。
特に吉岡先生に出会う前は、自分が何者であるかすらわからない。
そんな何者にもなれない自分に、自信が持てずイライラしている。
ある種のコンプレックスを抱いている存在なのです。
さらには中西さんが現れた時点でも、演劇を続ける理由すら答えられない。
その映画版高橋さおりの前に、小説版のスーパー転校生中西悦子が現れたらどうなるでしょう。
おそらく彼女は、さおりに対して興味を抱くことはないと思います。
2人は対等でなければ成り立たない関係。
なのでどちらかが一方的に秀でた存在であれば、同志になることはありえないと言えるのです。
なので、映画版の中西悦子のキャラクターを設定するにあたり、
さおりと同等レベルの存在に下げなければならない。
つまりは自分に自身がもてず、コンプレックスを抱えた存在として描く必要がありました。
だから演劇強豪校を、意識の高さが故に辞めてしまうようなスーパー転校生ではなく、
演劇は好きなのに、演劇強豪校のレベルについて行けず、
ドロップアウトした存在として書き換えられたのだと考えられます。
そこに、ももクロには有安杏果という存在がいた。
彼女も現在では大分改善していると思いますが、
かつて秀でた実力を持ちながらコンプレックスがあり、自分にあまり自信を持てないアイドルでした。
なので彼女こそ中西悦子役がハマり役であり、
キャスティングされたことは必然であったと言って、過言ではないのです。
そして映画版の中西さんは、滑舌が悪いというコンプレックスのある設定なのだけれども、
それは決してモノノフ向けの単なるサービスとして、杏果の滑舌悪さをネタにされた訳ではないと思います。
この設定は中西役が有安杏果に決定してから、本広克行監督が後付した物だと言います。
単純に「強豪校のレベルについて行けなかった」とするよりも、
そういった具体的なコンプレックスを付随し、それが元でみんなに迷惑をかけたとすることで、
より彼女が辞めた理由にリアリティを出すことに、成功していると言って良いでしょう。
これらの設定変更は、映画の中で見事にハマり、印象的なシーンを作り出す事になりました。
原作小説では、2人は全国大会の旅の最中、演劇を通じて徐々に距離が縮まっていきます。
約350ページある小説のうち、30ページほど割いてるので結構じっくりとです。
2人きりの小旅行は面白いし、銀河鉄道の夜の台本を書くきっかけにもなるのですが、
そこに何か派手な仕掛けや展開はなく淡々としています。
120分の映画に、この過程を詰め込む事は、かなり難しい事だと思います。
しかし映画では、ショッピングモールでさおりが中西さんの手を握り、
「一緒に来て、全国」と力強く語るシーンから急激に距離が縮まります。
正直、最初見た時は少し唐突な展開かとも思いましたが、
台本を書くことに行き詰まったさおりにとって、
自分よりも演劇の知識も、経験も豊富な中西さんが偶然現れ、藁にもすがる思いだったでしょう。
そして演劇が好きなのにもかかわらず、その道を諦めてしまった中西さんにとっては、
なぜ演劇を続けているのかすらわからないのに、台本のことで悩みながらも楽しそうに見える、
さおりの姿はとても魅力的で、自分に足りない何かを感じたのかもしれません。
お互いの存在を求め合うのも必然だったのでしょう。
彼女達が全国大会の帰り、駅のホームでお互いの心の内をさらけ出し、打ち解けるシーンは、
この映画の最初の泣き所とまで言われる屈指の名シーンです。
「高橋さん、それでも…、人は1人だよ。宇宙で…、たった1人だよ…。」
「でも、ここにいるのは2人だよ。
中西さん…、やりませんか、演劇。私と一緒に。」
「銀河鉄道みたい…。」
これら心に残る名ゼリフは、さおりが自らの演劇を続ける理由と決意を表明し、
中西さんが自らの挫折と孤独を、告白しなければ成り立たない。
映画版のキャラクターだからこそ、感動的なシーンと成り得たと言えます。
という訳で、私はこの映画版中西悦子のキャラクター改変を全肯定しますし、
そしてこのキャラクターを有安杏果が演じた事は、
この映画を名作たらしめる大切な1ピースとなっていると断言します。
また、中西さんとユッコとの和解は映画版のほうが、
お互いが持っている、無い物ねだりの嫉妬心を認めさせる事によって、丁寧に描かれています。
そして、地区大会が失敗に終わって消沈するさおりの手を親友のユッコではなく、
中西さんがショッピングモールのシーンとは逆に「行こう」と力強く引く姿は、
お互いの関係性が対等になっている事を象徴している、印象的なシーンだと思います。
これら映画にしかない無いシーンは、
それぞれのキャラクターの関係性を、小説とは違った形で見事に補完している。
それらを比較してみるのも、「幕が上がる」という作品の楽しみ方の1つかもしれませんね。
5月にはメディアミックスとして、舞台版の公演も控えていますし、
また新たなる「幕が上がる」の世界が広がる事を、楽しみにしたいと思います。