続き | 減農薬のりんご栽培

減農薬のりんご栽培

(木村秋則氏の自然栽培に近づくために)

イギリス製発電炉を茨城県の東海村に設置するにあたり、もう一つの事件が57年に起こった。東海村の発電所の運営を政府主体の国策会社で行うか、電力会社9社主体の民間会社で行うかどうかが、国会で論争となってしまった。財界や電力業界から支持を取り付けてきた正力は、「原子力発電は既に実用化段階にあり、民間に任せて大丈夫」と、民間主体による動力炉開発を主張したが、同じ派閥の長であった河野一郎が正力に反対した。岸内閣の経済企画庁長官に就任した河野は、「原子力発電は開発途上の技術であり、採算が取れるか明確でない。民間だけに任せるにはリスクが大きく、国と民間が共同で開発に当るのが適切だ」と強く主張した。

 これが有名な「正力-河野論争」となりマスコミも大きく取り上げる事態となった。最終的に河野が主張を収めることで論争は収拾したが、この対立が日本の原子力開発を歪ませる大きな要因の一つとなったと私は考える。

 神奈川大学教授の川上幸一氏の著作『原子力の光と影』(電力新報社、1993年)は、第2次大戦後のアメリカの原子力開発の概要をまとめた好著であり、その最終章に日本の初期の原子力開発について簡単にまとめてある。それによると、東海発電所発足時に産業界が「原子力発電は既に実用化段階にある」と強く主張したことにより、これ以降の大学や日本原子力研究所(原研、1956年発足)等の公的機関の研究者が、発電炉の開発に関与することが困難になってしまったという。

 軽水炉等の商用発電炉に関する研究を国に申請しても「それは民間の管轄だから国がやるべき分野でない」と、大蔵省が研究予算認可を渋るようになったのである。日本は原発の開発技術を全く持っていない段階で、いきなり政府の技術的なバックアップが困難となったことになる。原研は結局、軽水炉の開発を研究対象から切り離し、放射線の医療応用、加速器利用等の基礎テーマか、FBRと核燃料サイクル、核融合炉等の将来技術の開発を担当することとなる。

 一方で、電力会社は自らの判断でアメリカのメーカーと契約を結び、次々と軽水炉の導入を進めてゆく。東海発電所1号炉の不評からイギリス製の黒鉛ガス炉は最初の1機に留まり、それ以降の日本に導入された発電炉はすべてアメリカ製軽水炉となった。65年に関西電力が三菱重工のサポートによりWH製のPWRの導入を決定し、翌66年には東京電力がGE製のBWRの受入れを表明する(機器供給は日立、東芝がサポート)。ここにおいて、現在まで脈々と続くPWRとBWRの分裂状況が形成されることなる。東電では軽水炉導入にあたり、当初はPWRとBWRの競争入札の準備を進めていたが、上層部の突然の指示により、入札無しにBWRの受入れが決定されたという。東電は三井財閥系の会社であり、それまでGE製の火力設備を多く導入していた。やはりGEからの強い要望があったのであろう。

 これ以降日本の電力会社は、多くの軽水炉を建設してゆくものの、当然ながら独自で原子炉を開発して管理するノウハウなどは全く持ってはいない。運転管理の方法も安全基準も、アメリカが決めた内容を忠実に守る以外に全く術が無かった。一方で軽水炉が運転を開始して十年以上経過すると、アメリカではステンレス材の溶接割れ等の当初は想定しないトラブルが、炉内機器に多く発生することが明らかになる。これらのトラブルに対し、アメリカでは原因を十分に検証して、原発の運転や安全に関する基準を合理的な内容に順次改定してゆく。

 しかし日本の場合は、そう上手くはいかない事情がある。正力の主張により「発電用原子炉に関する技術は民間主体で開発する」という政府内の暗黙の規定があるため、安全基準の改定は電力会社とプラントメーカーの責任とされているのである。しかし万が一安全基準を改定した結果として、原発に深刻なトラブルが生じた場合は、民間会社だけで責任を負える保障などある筈が無い。結果として日本では、原発の安全基準の改定が困難となり、見直しがタブーとなってしまう。このため想定外の故障がプラントで起こった場合も、関係者は現象を十分に検証することなく、公表を避ける体質となってしまった、と私は考える。2002年に起こった東電のBWRのシュラウド割れ隠蔽事件はその典型である。

 河野一郎の主張に従って政府と民間が共同で発電炉の導入を進めていれば、おそらく原研で軽水炉の研究が継続されており、新たなトラブルが原発で起きた場合でも、政府がサポートして迅速に解決する体制が作られた筈である。その場合、アメリカからの軽水炉の導入は数年遅れたであろうが、発電プラント開発に関する基礎技術は、政府と民間の協力により、今以上に十分に蓄積されていたであろう。地道な技術開発を怠り、手っ取り早くお金でプラントを買おうとしても上手くいかないことを、河野は予期していたのだと思う。慧眼である。祖父の高い志を全く理解せずに、「日本の原発を即刻停止せよ」と騒ぎ立てる孫の河野太郎は大馬鹿者である。

 正力―中曽根ラインで推進されたのは、原発技術のアメリカへの隷属である。当初は学会関係者を中心に、国産の原発技術育成の必要性が強く提案されていたのだが、正力らの強引な主張により国産技術の芽は次々につぶされて、アメリカの決めた枠の中から抜け出せない状況が出来てしまった。政治学者の片岡鉄哉氏は大著『日本永久占領』の中で、マッカーサーによる押付けの平和憲法が様々な批判を浴びつつも、戦後に国民の意識として定着して行く過程と、その結果、日本国民が自らの立場について考える力を失ってしまった事実を明らかにしている。

 平和憲法が国民に浸透する過程と、アメリカ製原発の導入の過程が重なって見えるのは、私の偏見では無いと思う。

[70年代以降の原子力開発]

 60年代後半からアメリカでは空前の軽水炉の建設ラッシュとなり、100基を越える軽水炉が作られて発電を開始した。しかし70年代に入ると、環境保護団体から軽水炉の安全性についての疑問が投げかけられるようになり、新規の軽水炉の建設はスローダウンする。また当時の考えとして、軽水炉は過渡期的な技術であり、原子力発電の経済性を成立するには、高速増殖炉と使用済み燃料再処理によるプルトニウムのリサイクルが必須と考えられていた。

 しかし液体ナトリウムの取扱いの難しさから、高速増殖炉の早期実用化は困難との認識が広まり、原発の経済性についても疑問が出されるようになる。

 これに追討ちを掛けたのが、78年のスリーマイル島(TWI)発電所におけるPWRの炉心溶融事故である。運手員の操作ミスに起因する一次冷却水の喪失により、PWRの炉内燃料の大半がメルトダウンする深刻な事故に繋がってしまう。この事件により原子力発電に対する世論は一気に硬化し、これ以降のアメリカ国内での軽水炉の新規建設は完全に停止することとなる。

 しかし、既に完成した軽水炉100基については、即時に運転を止めることは無く発電をそのまま継続している。この70年代半ば以降の新規原発の建設中止が、90年代からの原子力の見直し(原子力ルネッサンス)に結果的に繋がることになるのだから。世の中はわからないものである。

 70年代以降は製造メーカーでも大きな動きが起こる。日本の製造業の成長により安価な工業製品が大量に輸入されるようになると、アメリカ国内の製造業全体の売上げが落ち始める。これに軽水炉の新規建設停止が加わることで、WH、GE等のプラントメーカーは一転して収益の悪化に直面することになった。WHは80年代以降に自社のエレベータ事業のシンドラー社への売却、放送局のCBS買収によるメディア業界への参画といった、リストラと経営多角化を進めるものの、収益が改善されることはなく、90年代には基幹事業である火力発電部門を独シーメンス社に、原子力部門を英国原子燃料会社(BNFL)に、それぞれ売却するに至る。これにより製造メーカーとしてのWHは実質解体されてしまう。

 一方のGEは80年代に入って、ジャック・ウェルチという新たなCEOの下で事業改革に乗り出した。GEの消費者セクターの責任者であったウェルチは、GEキャピタルというGE社内の金融会社をテコ入れすることで、収益を上げることを目論んだ。有名な『ジャック・ウェルチ わが経営』(日本経済新聞社、2001年)の中に、「多額な投資が必要な製造業と比べて、頭脳の力を活用して簡単に利益を上げられる金融事業は有望と思えた」という内容の記述がある。ウェルチはGE内の不採算部門の徹底したリストラを進める一方で、消費者金融部門の売上げを拡大してGEの中核事業として成長させた。

 「わが経営」に記載されたグラフによると、1980年には110億ドルであったGEキャピタルの資産は、2000年には3700億ドル(1ドル110円で40兆7000億円)と30倍以上に大きく増加している。例えば三井住友銀行の07年3月の総資産が91兆5000億円であることから、GEは自社の中に日本の旧都市銀行に匹敵する資産の銀行を抱えており、そこから得られる潤沢な資金を、航空宇宙関係やエネルギー機器の開発費として提供可能になった、といえる。こんな掟破りの会社に、普通の製造メーカーが勝負して勝てるわけが無い。

 ウェルチの製造業の枠にとらわれない大胆な経営により、WHとGEの立場は完全に逆転し、GEはライバル企業のWHを完全に駆逐することに成功する。