減農薬のりんご栽培

(木村秋則氏の自然栽培に近づくために)


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日本の切り札、原子力発電を操るアメリカ

SNSI研究員 相田英男(あいだひでお)

(編集注記:相田英男氏は、日本や海外の原子力業界の専門的な分野に明るい在野の研究者です。今回、SNSIの環境論文プロジェクトに特別に参加頂きました。ありがとうございます。相田論文は、地球温暖化問題の広がりと共に浮かび上がった原子力業界の利権を作ろうとする思惑を考える上で、その前提となる日本の原子力業界の出生の秘密を扱っています。本文中に加えた写真と図表は、相田氏ではなく載せる際の私(中田安彦)の判断で追加したものです。これまでの論文に引き続き、読者の皆さんの感想を、「会員専用掲示板、左側の記事一覧の上にリンクしてあります」にお寄せせください)

〔はじめに〕

 原子力発電は環境保護団体から、長いこと諸悪の根源として叩かれて続けて来た。しかし近年の地球温暖化問題の高まりにつれて、あろうことかCO2を排出しない環境に優しいエネルギー源として原発が見直されているらしい。また天然ガスや重油等の化石燃料の高騰もあり、米国や中国では将来の大規模電源として数十基の原発の新設が計画されている。スリーマイル島発電所やチェルノブイリ発電所での大事故の影響から、欧米では80年代以降の原発の新設がほとんど無く、プラントメーカーでは原発の製造技術が相当失われてしまっている。

 一方の日本では、国内外から様々な批判を浴びつつも、今に至るまで国内で原発の建設を一貫して継続してきたことから、原発製造技術を有するメーカーが複数存在している。このような状況から「日本の原発メーカーに絶好の商機が到来した」といった報道もなされるようになった。折しも2005年末の、原発メーカーの老舗であるウェスティングハウス(WH)社の入札において、東芝が6000億円を越える高額で落札したニュースは、日本の原子力産業界の攻勢開始との印象を強く与える結果となった。

 しかし私のような製造メーカーの一技術者から見ると、それほど手放しで喜べる状況では無さそうである。日本の原発産業はアメリカの指導の下で、手取り足とり育てられて来たため、日本人自らが考えて困難な状況を打開できる技術レベルには到底無いように思える。さらに言うと、日本の製造メーカーと電力会社は未だにアメリカの従属下にあり、日本の原発技術の方向はアメリカの意に沿う形で進められていることは明白である。

 日本国内での原発に関する議論では、賛成派と反対派の間で折合いの付かない不毛論争が延々と繰り返されるだけで、原発産業全体がアメリカによりがっちりと枠をはめられている現実には、何故か誰も全く触れない。業界関係者もこの状況については、最早どうしようもないと敢えて発言しないかのようである。

 本報告ではまず、アメリカでの軽水炉(けいすいろ)型原発の開発の始まりと日本に導入された経緯をグローバルな立場から振り返ることで、日本の原子力産業の抱えた問題について明確化する。また70年代以降のアメリカにおける原子力産業の変遷と日本への影響、さらには東芝のWH買収の裏側にある真実を暴くことで、今なおアメリカの支配下にある国内原発メーカーの実情と今後の可能性について述べる。

[原子力発電の概要]

 原発とは何かと端的に答えると、ボイラーの一種といえる。通常の火力発電では石炭、天然ガス等の燃料をボイラーで燃やしてお湯を沸かし、蒸気を発生して蒸気タービンを駆動して電気を作る。一方の原発では、核分裂反応の熱により蒸気を発生して、タービンを動かして発電する。それだけの違いである。発電用の原子炉には、中性子の減速材と冷却材が必要であり、その種類により様々な形式に分類される。減速材とは、ウランの核分裂反応で発生した中性子の速度(運動エネルギー)を低下して、連鎖反応を起こしやすくする部材であり、黒鉛や水(軽水、又は重水)が使われる。冷却材とは核分裂反応で生じた熱を取出して蒸気に変える役割を持ち、炭酸ガス、ヘリウム、水等のガスや液体が使われている。

 現在最もポピュラーな発電炉である軽水炉は、減速材と冷却材の両方に軽水を使う。しかし軽水炉がアメリカで登場する以前に、イギリスでは黒鉛の減速材と炭酸ガスの冷却材の組合せによる炉型や、旧ソビエトでは黒鉛の減速材と軽水の冷却材による炉型(チェルノブイリ型)が開発され、発電を開始している。発電炉としての軽水炉は世界初の炉型でなく、登場は比較的新しい。

 原発は使用する核燃料の違いでも分類される。核分裂反応に用いられる物質にはウラン235とプルトニウム239があるが、プルトニウムは天然では存在しないため、現状は専らウラン235が使われている。天然ウラン自体も燃料として用いることが出来るが、ウラン235は天然ウラン中にわずか0.7%しか含まれておらず、効率が良くない。このため原発の燃料には、ウラン235の割合を数%程度に高めた濃縮ウランを用いる場合が多い。軽水炉も燃料に濃縮ウランを使用する一方で天然ウランの残り99.3%は、核分裂を起こさないウラン238で出来ている。

 このウラン238に高い運動エネルギーの中性子(高速中性子)をぶつけると、核変換により核分裂が可能なプルトニウム239に変わる性質がある。この反応を発電炉内で起こして、ウラン燃料を効率よく利用する目的で開発されたのが高速増殖炉(FBR, Fast Breeder Reactor)である。FBRでプルトニウム239を作る(増殖する)には中性子を減速させてはいけないため、FBRは減速材を持たず、冷却材には中性子減速作用が無く且つ熱交換に優れる液体ナトリウムが用いられる。

 FBRが有効に稼動すると、天然ウランの60%を燃料として使うことが可能となり、人類は数千年にわたってエネルギー問題から開放されるとも言われている。しかしこのシステムは、液体ナトリウムが漏れた場合に、即火災につながり大変危険である。日本の「もんじゅ」で起きた火災事故は有名である。なお核燃料サイクルとは、FBR等を運転して出来た核廃棄物を再処理して、プルトニウム239を回収して再利用するプロセスを指す。



[軽水炉の開発の歴史]

 よく知られるように軽水炉には、加圧水型(PWR, Pressurized Water Reactor)と沸騰水型(BWR, Boiled Water Reactor)の2つのタイプがある。水は通常の1気圧では100℃で沸騰し水蒸気に変化するが、PWRでは炉心を循環する1次冷却水を157気圧に加圧することで、320℃の高温水として熱を外部に取出す。PWRの1次冷却水は熱交換器を介して2次冷却水に熱を与えて蒸気とし、タービンを駆動する。一方のBWRでは、炉心内部の冷却水を70気圧、285℃とPWRより若干低圧、低温とすることで、炉心内部で冷却水を沸騰して蒸気を発生し、そのまま蒸気タービンに送って発電する。PWRの特徴として冷却水のループが2系統となり、蒸気を発生するための熱交換器(細いパイプの集合体)が必要となるなど、構造が複雑になるものの、放射線を発生する部分を炉心と1次冷却水系にコンパクトにまとめることが可能となる。BWRの場合は炉心で蒸気を作るため、PWRのような熱交換器が不要で構造が単純であるが、放射線を含む水がタービンまで直接送られるため、放射線の遮蔽に気を使う必要がある。

 軽水炉の開発は第2次大戦後のアメリカで始まった。1947年にアメリカ海軍は、有能な技術将校であったリコーバー大佐の提案により、潜水艦用動力として原子力の検討を開始した。この海軍の提案を受けて、当初は総合電機メーカーのゼネラル・エレクトリック社(GE)が開発を担当したが、GEの提案は何と冷却材に液体ナトリウムを使った増殖型エンジンであった。当時の原子力は技術的に未知の分野であり、燃料を増殖しながら長時間稼動するナトリウム炉には、大きな可能性があると思えたのだろう。しかし現在に至るまで陸上でもまともに動かないシステムを、潜水艦に搭載することは流石に無理があった。GEの増殖型エンジンはナトリウム配管のシールに問題が多発し、なかなか上手くいかない状況が続いた。

 一方で国立オークリッジ研究所では、冷却材に取扱いの難しい液体ナトリウムでなく、通常の水(軽水)を用いる軽水炉の研究を進めていた。軽水炉の方式には当初から、PWRとBWRの両方のアイデアがあったが、潜水艦用動力としては、放射能を含む水を一次冷却側にコンパクトに収納するPWR方式が有望視されていた。当時GEのライバル企業であったWHは、海軍の依頼を受けて原子力開発に参画する際にこのPWR方式に目を付けて、オークリッジ研究所との共同開発を開始した。進展の遅いGEの増殖炉に対して、WHの担当したPWRの開発は順調に進み、55年には潜水艦ノーチラス号のエンジンとして見事に完成した。

 GEとWHは、米国における発電プラントから家電品まで電気機器全般を生産する総合電機メーカーの双璧として、19世紀の終わりから100年もの間、競争を続けて来た。GEは有名な発明家のエジソンが興した工場に、JPモルガン銀行が出資したのが始まりである。

 一方のWHは、エジソンと同時代の技術者であるジョージ・ウェスティングハウスの興した会社に、ロックフェラー財閥が出資することで成長した。両社の競争は、モルガン対ロックフェラーのアメリカの2大財閥の対立を反映したものである。

 19世紀末の電力の送電方式を巡るGE(直流送電)とWH(交流送電)の争いは有名であり、WHは元GE社員であった天才技術者のニコラ・テスラをスカウトするなどして、この争いに勝利して電力事業の基盤を確立している。

 GEとWHは技術開発に対する基本姿勢が異なり、リスクを取りつつも時代の先端技術を追う野心的なGEに対し、WHの技術開発はより安全・慎重志向であり、先端技術を使わずとも安定に作動するシステムを目指す傾向がある。原子力以外の分野でも、両社のこの姿勢の違いは現れている。

 GEとWHは日本のメーカーにも大きな影響を与えている。東芝、日立製作所、石川島播磨重工業(IHI)等は、創業時よりGEの技術移転を受けて成長した会社である。またWHの技術は、三菱グループの三菱重工と三菱電機に伝えられている。実はグローバルな見地では、上記の日本の大手電機、重工メーカーはGE、WHの下請企業として、アメリカ製造業界の極東組立工場の役割を長年にわたり果たしてきた。

 後に説明するように90年代になると、GEとの争いに敗れたWHが企業体として解体されたため、三菱重工と三菱電機はアメリカの束縛から逃れられたものの、GE系の国内3社は未だにGEの顔色を伺いながら事業を進めているのが実情である。

 話を原子力に戻す。海軍の潜水艦用エンジンの成功を見届けたアメリカ政府は、引き続きリコーバーの指揮の下でWHに、発電システム用のPWRの開発を依頼した。WHは潜水艦用PWRの発電システムへの転用を急ぎ、1957年にシッピングポート発電所に初めての発電用PWRプラント(出力6万kW )を完成した。その後の61年に、出力16.7万kWにスケールアップしたヤンキー・ロー発電所が完成し、本格的なPWRの商業発電を開始した。

 一方で潜水艦用動力炉の開発に失敗したGEは、発電炉の開発に取り掛かる際にWHへの対抗として、国立アルゴンヌ研究所で実験が進んでいたBWRを選択した。GEはアルゴンヌ研究所の持つデータを引継ぎつつ猛烈な巻き返しに転じ、57年に独自資金で小型の BWR実証炉(5千kW)を完成し、発電に成功する。その後の1960年には、18万kWのドレスデン1号炉を完成させ、WHのヤンキー・ローに先駆けて大型BWRによる商業発電を達成した。

 こうして60年代初頭にはアメリカで、PWRとBWRの2つの発電システムがほぼ完成した。PWRの開発には政府資金を投入したことから、WH以外のバブコック&ウィルコックス社、コンバッション・エンジニアリング社等のメーカーにも、米国政府の意向でPWRの設計仕様がある程度公開され、複数メーカーによるPWRの建設が進められた。一方でGEの単独資金で開発されたBWRは、GEと技術提携したメーカー(日立や東芝等)以外には、設計仕様がほとんど公開されなかったため、BWRの建設数はPWRに比べてなかなか伸びなかった。

 また1968年には原子力業界の「シーメンス事件」と呼ばれる事件が発生する。WH社とPWRの開発で技術提携していた独シーメンス社の技術員数名が、アメリカ滞在中にWHのPWRの図面を全て複写して、ドイツに持ち帰ってしまったのである。WHはシーメンスに猛抗議したものの、シーメンスは「このシステムはアメリカがヨーロッパから学んだ技術で作られている。元々は我々の物ではないか」と居直り、一方的にWHとの契約を解除してしまった。その後シーメンスは勝手にPWRの生産を開始し、これにより70年代以降はヨーロッパにもPWRが急速に普及することとなる。

 このような状況から世界中で作られた軽水炉の内訳は、2006年時でPWRが263基、BWRが93基となり、PWRがBWRの3倍とデファクトとなっている。GEにとっては最初の選択の過ちが、後々までの尾を引く禍根となってしまった。

[日本の原子力開発の始まり]

 日本の初期の原子力開発に大きな影響を与えた政治家として、中曽根康弘と正力松太郎の二人が挙げられる。

2次大戦後の日本は占領軍により原子力開発の一切を禁止されていたが、1951年9月のサンフランシスコ講和条約により開発禁止の条項が解除された。東京大学の茅誠二(後の60年安保闘争時の東大総長)と大阪大学の伏見康治の二人の物理学者は、早くから原子力エネルギーの可能性に着目し、数ヶ月の基礎調査を経た後に、1952年の日本学術会議の総会において、政府に原子力委員会を設置することを提案した〔茅・伏見提案〕。

 しかし出席していた左翼系の学者の多くから「原子力研究は即、原爆の開発につながるではないか。原爆で被災した日本が何故そのような危険な研究に踏み出すのか」と猛反対を受けたため、二人はやむなくこの提案を撤回した。

 翌53年9月に中曽根康弘はアメリカに渡っている。当時ハーバード大学の助教授であったキッシンジャーの主催により、世界中から若手の政治家、文化人、ジャーナリストを集めて開催された、かの有名なインターナショナル・サマー・セミナーに参加するためである。キッシンジャーの薫陶を受けながらハーバードで2ヶ月過ごした中曽根は、当時の最先端の原子力開発の情報に触れて、原子力の重要性を認識したと思われる。

帰国した中曽根は仲間の若手政治家数名と一緒に、原子力開発予算の獲得に向けて準備を開始した。当時の学会での原子力反対の風潮から、中曽根らの準備は極秘で進められ、年明け54年3月の衆議院予算審議の最後に、原子力開発に関する修正予算として抜打ち提案された。当時はバカヤロー解散後の吉田自由党の末期にあたり、与党自由党には審議の土壇場での修正提案を詳しく議論する余裕が無く、原子力修正予算はあっさりと衆議院を通過したという。原子力平和利用調査の費予算額(2億3500万円)の根拠を問われた際に、中曽根は「濃縮ウランに使うのはウラニウム235だから」と答弁し、笑いを誘って乗り切ったとも述べている。

 国会での原子力予算可決を新聞報道で知った茅等の学者グループは、当時中曽根が所属していた改進党の議員室まで急いで出向いた。茅は中曽根ら議員に、現在の日本の技術では原子力開発を本格的に取り掛かるレベルに無いこと、学会では反対派も多いこと、等を理由に、原子力予算の取り下げを要望したが、中曽根は断固拒否した。その時の中曽根は「あなたたち学者がぼやぼやしているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ」と発言したという。中曽根本人は「それを言ったのは別の代議士の方で、私はではない」と否定していが、当時はそれほど緊迫したやり取りがあったのだろう。

 この中曽根らの予算獲得を契機に、日本は公式に原子力開発向けての第1歩を踏み出すことになる。しかし同じ頃、その動きに大きく水を差す事件がおきる。54年3月1日にアメリカがビキニ環礁で行った水爆実験により、マグロ漁船「第5福竜丸」が死の灰を浴びて被爆してしまうのである。この事件より日本国内では、反米と核兵器反対運動が改めて盛んになるのだが、マスコミを使ってこの動きを沈静化し、国民の原子力への抵抗心を払拭しようと努めたのが、読売新聞の社主である正力松太郎であった。

 正力は54年の後半から読売新聞において、原子力の平和利用推進を訴えるキャンペーンを大々的に展開し、翌55年2月の衆議院選挙では正力自身が「原子力による産業革命」を公約として立候補して、初当選を果たした。議員となった正力は、原子力平和利用推進の国内PRを行い、アメリカからの技術導入推進の受け皿として「原子力平和利用懇談会」を結成して、財界、学会からの支援を取り付けた。56年1月に総理府に原子力委員会が発足すると、初代委員長には正力が就任し、「5年以内に採算の取れる原子力発電所を建設する」と発表して、商業用発電炉の早期導入を訴えた。正力の方針には学会の湯川秀樹らから、発電という実用分野に偏りすぎており基礎技術の育成を疎かにしている、との批判もあった。しかし政府は国産技術の育成よりも、海外発電プラントの導入による経済復興を優先して、イギリス製の発電炉の受入れを決定し、茨城県で東海発電所第1号炉の建設が開始された。

 このような原子力発電振興への多大な貢献から、後に正力は「原子力の父」と呼ばれることになる。しかし技術屋でも何でもない新聞社のオーナーの高齢の爺様が、なぜここまで原子力開発に執着するのかについては、理解に苦しむ処がある。

 これについての明快な説明が、早稲田大学教授の有馬哲夫氏によりなされた。有馬氏は近年公開されたアメリカ政府の機密報告書を詳細に調べた結果、正力はCIAから「ポダム」と呼ばれる協力員であり、一連の正力の活動はCIAとの連携である事実を明らかにした。有馬氏の著書である『原発・正力・CIA』(新潮社、2008年)によると、戦後当時のアメリカは日本国民に広がっていた共産主義や反米感情を、メディア操作により和らげて親米的な世論を形成する活動を行っていた。CIAはアメリカに有利なニュースを提供する組織として、正力の率いる読売グループに注目し、正力に接触して重要な協力者として取り込んだという。

 第5福竜丸事件により沸き上がった反米世論に悩んだCIAは、正力に沈静化を依頼した。正力は見返りとして日本の原子力開発への協力と、発電用動力炉の提供をCIAに要求した。これを受けてアメリカは「原子力平和利用使節団」を派遣するとともに、「原子力平和利用博覧会」を日本で開催し、読売新聞と日本テレビは大キャンペーンによりこれらのイベントを盛り上げた。しかしアメリカは、発電用炉の日本への提供には渋った。56年当時はWHのシッピングポート発電所の運開直前であり、アメリカも商業用軽水炉を積極的に海外に輸出する体制ではなかった。また有馬氏の研究では、正力の真の目的はアメリカからいち早く動力炉を導入することで商業発電を実現し、それを成果として総理の椅子を目指すことにあったという。正力は自ら総理となり、かねてからの念願であった「マイクロ波通信網」のインフラを日本に設置することを狙っていたようであるが、CIAは正力の政治的な目論見を見抜いて、協力を拒否したという。

 アメリカの対応に焦った正力は、当時イギリスから売り込みのあったコールダーホール型発電炉に飛びついたという。コールダーホールとはイギリスに最初に建設された商業用原発の地名であり、減速材に黒鉛、冷却材に炭酸ガスを使う反応炉である。天然ウランを燃料とするため、ウラン濃縮の技術は必要としないが、軽水炉に比べて発電効率が悪く、プラントが大型となり建設費がかさむ欠点があった。また減速材の黒鉛を固定する方法がないため、炉心は黒鉛ブロックをただ積み重ねただけであり、地震の多い日本に造るにはリスクが多い、との批判もあった。しかし、正力はこれらの批判を無視してイギリスからの導入を独断で決断する。

 以上が有馬氏の明らかにした正力の活動のあらましであり、これまでの正力像を大きく覆す内容である。

 これにより日本の初期の原子力開発は、中曽根康弘と正力松太郎という、片やキッシンジャーの愛弟子、片やCIA協力者という、強力な親米コンビで推進されていたことがわかる。その結果何が起こったかは推して知るべきである。当時二人は共に河野一郎の派閥に席を置いており、年下の中曽根が正力をフォローする立場にあったようである。

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