歴史用語の基礎(第14回:「親王」と「諸王」) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

今晩2回目の更新です。


本シリーズの前回は「親王任国と吉良上野介・織田上総介」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10673840984.html ですから、順序が前後している様な感じです。

ただ、ここを説明しないと次が続きません。そこで急遽この記事を更新する事といたしました。


(1)日本国の親王(内親王)の資格

皇族には、天皇・皇后・皇太后・太皇太后とは別に親王(女性の場合は内親王)と(女性の場合は女王~にょおう)と妃という分類が出来ます。


ここで言う「王」とは「親王」に対しては「諸王」。そして、今回は「親王」と「諸王」との区別についての話となります。


両者の現在の区別・・・これに関しては皇室典範に記載されている通りです:

<第六條  嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を內親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。>


現在のところ嫡出・非嫡出をめぐる問題は有りませんので、「天皇の孫(内孫)までは親王・内親王」という解釈で大丈夫でしょう。


ところが、本来はそうではないのです。


(2)そもそも親王制が成立する国とは?

親王制は中国発祥。些か強引な表現ではありますが、親王とは王の中でも皇帝に「親しい」王という訳ですから、その国の君主は「王」よりも格上の「皇帝級」でなくてはなりません。

従いまして、歴史的にも中国(君主は皇帝)・日本(天皇)、そして一時の大韓帝国(皇帝)のみが親王制を有していた訳です。

日本での適用は律令制が本格化した奈良時代から。天武天皇の子息(舎人親王676-735)が初例になります。


(3)それでは中国の親王制とはどう違うのか?

違いは色々有るでしょうが、最も大きな点は中国での親王は血統上で「皇子」級でなければならなかったという事です。

諸王が親王に格上げされるのは功績では難しく、次の事態が生じて血統上の格上げが起こった場合が通常でした。

a)父親が皇帝になった場合。

b)兄弟が皇帝になった場合。

このルールは現在の皇室典範でも生きています:

<第七條  王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び內親王とする。>


但し、日本では次に示す様に親王号が与えられる規準が変遷していきました。そのため、純粋な意味での適用がされたのは、

記紀47代淳仁天皇(天武天皇皇子・舎人親王の子 大炊王)即位

記紀49代光仁天皇(天智天皇の孫 白壁王)即位

しかありません。

※ただし、淳仁天皇が廃帝だったため、その兄弟は一旦親王となった(船王→船親王)はずなのですが書には親王として名前が残っていません。

※そして、光仁天皇の即位が高齢だったために男の兄弟は全て亡くなっており、女王から内親王への格上げばかりとなりました。(その代わり、すでに亡くなっていた兄弟の子供たちは三世王から二世王待遇へと昇格しました。)


お気づきかと思いますが、この時点では日本も中国に倣って孫以下は「王」だったはずなのです。

そして、淳仁即位からは親王・内親王に格上げになる際に儀礼とはいえ「親王宣下」という形式が取られた事には注目しなければならないでしょう。


(4)日本国内でのルールの変遷~世襲親王家

そして、例え皇子女であっても親王・内親王になるのに「親王宣下」という形式が取られ「なければ」ならなくなりました。

反平氏の旗頭となった以仁王などはある意味で被害を受けた例でしょう:後白河天皇の皇子なのに、宣下が受けられなかったので諸王のままだったという訳です。


逆に、皇子女でない皇族でも親王宣下さえ受けられれば「親王」になる事が出来る様になりました。これが世襲親王家の始まりです。


(5)経過措置をとるものの世襲親王をやめる方向に。

そして明治22年(1889年)に皇室典範が制定され、皇子(1世)から皇玄孫(4世)までを親王としました。

但し、世襲親王家ですでに親王宣下を受けていた皇族の親王号返上は無し。それにしても、親王が皇子女に限られていた時代に比べて何と緩やかな規則なのでしょうか!


(6)そして、戦後の「新」皇室典範で漸く「皇子女」と「皇孫」に限るというところにまで「戻った」という訳です。

新典範については(1)で示した通りです。

即位の高齢化も想定して「子」の他に「内孫」も親王・内親王になる様なのですが、実は「孫」にまで拡大適用されたのではなくて一旦親王の範囲が拡大した後で「孫」まで縮小されたというのが経緯だったのです。