6月7日は「穴穂部皇子が蘇我馬子によって殺された日」です。
それが今回の題目とどう関係するのか・・・それは、以下の談義を御覧頂ければと。
-----(以下は事実に基づいたフィクションです)----
~飛鳥の地にて~
Eさん(以下、E)「今日は天武・持統天皇陵に行ってきました。」
Prof. H(以下、H)「そうですか!あのあたりから被葬者が明らかになってくるのですよね。」
E「そして、墳墓が小さくなってくる・・・と!」
H「その話も機会が有ればしてみたいのですが、両天皇はどのような御関係かは御存じですか?」
E「もちろん。持統天皇は天武天皇の皇后『鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)』でしたから、御夫婦ですよね。」
H「そうです。余談ですが、神田うのさんの「うの」は、この天皇の実名『うののさらら』に由来するそうです(テレビ談)。で、それから他には?」
E「持統天皇は天武天皇の兄・天智天皇の娘ですから、叔父と姪という関係になりますね。でも、これって今では禁止ですよね?」
H「現在は最も近親で『いとこ夫婦』までですから、禁じられた関係になってしまいます。でも、以前の皇室は兄弟姉妹で夫婦になったりしているのですよ。」
E「それでは遺伝的にまずいのでは?」
H「そうかもしれませんし、そういった兆候の読み取れそうな方もいます。でも、聖徳太子(厩戸皇子)の父・用明天皇と母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后とは兄妹だったりします。」
E「それは賢い方が出てしまいましたね!でも、その結婚が許されるのでしたら、何でも有りなのでは?」
H「そうでも無いらしいのです。先程の例は異母兄妹。両親が同じだと許されず、古くは同母妹に恋仲になったために皇位継承から外されたという木梨軽皇子がいましたし、天智天皇がなかなか皇后を得なかったのも、同母妹と恋仲になっていたためという説もあります。」
E「そうですか。でも、いくら異母兄妹が認められていても、その婚儀には何か特別な意味が有るのですよね?」
H「有るでしょう。例えば聖徳太子の御両親の場合はこうです:欽明天皇(記紀29代)の皇子女は母親の違いによって2つのグループに分かれて揉めていました。もちろん長兄の敏達天皇(記紀30代)などは除きますが。」
E「その母親とは?」
H「一人は堅塩媛(きたしひめ)、もう一人は小姉君。ともに蘇我稲目の娘で、蘇我馬子の姉・妹に当たります。
堅塩媛の子女は推古天皇・用明天皇など。小姉君の子女は穴穂部皇子・穴穂部間人皇女・崇峻天皇などです。」
E「という事は何ですか?聖徳太子の両親は異母兄妹だけれども母親同士も姉妹なんですか?これってほぼアウトなのではないのでしょうか?」
H「そこを黙らせてでもの婚姻です。このメンバーを聞いて他に気付かれた事は?」
E「小姉君の皇子は崇峻天皇が蘇我馬子に殺され、その後で推古天皇が蘇我馬子らに立てられた・・・あ、なるほど。馬子の敵か味方かという見方が可能な訳ですね。」
H「さらに情報を申しますと、崇峻の兄の穴穂部皇子は敏達天皇未亡人の推古(額田部皇女)を犯し、その既成事実を利用して夫となって皇位を継承しようとして危険視された人物。最後には蘇我馬子によって殺されています。」
E「皇族を殺すなんて蘇我氏は横暴だとは思っていましたが、それだと推古にとっては穴穂部は兄弟というよりも本当に敵ですよね。そして、推古にとっては馬子は味方と。」
H「そう単純なものではないのかもしれませんが、味方も何も母系では馬子は推古の叔父ですから・・・でも、穴穂部から見ても馬子は伯父なんですよね。とにかく、推古・聖徳・馬子のトロイカ体制は馬子が後世に言われるように『皇族の敵』だと考えるから『馬子が推古を脅した』とか不自然な解釈が出てくるだけで、当時は長兄である敏達天皇亡き後の『堅塩媛系』と『小姉君系』皇子女間の揉め事の方が余程問題だったはずですので。」
E「そして、両系統の『統合の象徴』が両系統を父母に持つ聖徳太子だったと。」
H「御名答です。推古天皇は本当は自分と兄・敏達天皇との間に出来た竹田皇子を溺愛しており、その皇子を皇位に就けたかった筈で、死に際しても竹田皇子の墓に葬ってくれと頼んでいます。その竹田皇子が『暫くは』存命だったにも関わらず、なぜ厩戸皇子(聖徳太子)が『かなり早い時期に』有力皇位継承候補に台頭出来たのかという事はこれで説明は出来ると思います。」
E「旧小姉君系の人達も、厩戸が将来即位という事ならばと一応納得させられたかもしれませんからね。そうでもなければ、厩戸の父用明天皇の兄・しかも嫡子(正妻の子)の敏達天皇の皇子よりも優先して台頭するのは『血統上は』難しいですものね!厩戸皇子がとても優秀だったからという事は有ったにしても、昔は特にそれだけではねえ・・・。それから、皇太子というのは虚構だと聞いては居ますが。」
H「皇太子という語はなかったでしょう。ただ、日本書紀の聖徳太子伝は大袈裟に過ぎるとしても、古事記の書かれ方はシンプルながら即位した方に準じた書かれ方。そして息子の山背大兄王子が皇位継承に名乗りを挙げられる事も、厩戸皇子が次の天皇と目されていた事の傍証となっています。」
E「でも、推古天皇はいやいやだったのでしょうね。」
H「皇后になって、即位して、それでも自分の子供を皇位に就けられませんでしたからね。でも、先程名前の出てきた持統天皇とは大違い。彼女は余りにも強引でしたからね。」
(第9話http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10557498926.html へつづく)