社会で役に立たない日本の作文教育をどうしたらいいか | MATTのブログ ~ 政治・経済・国際ニュース評論、古代史、言語史など ~

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元新聞記者。 アメリカと日本を中心にニュース分析などを執筆します。




文章力は、どんな職業についても社会で必要となる基本的スキルだ。人に文章で何かを分かりやすく伝えられることは、以前からきわめて重要な能力ではあったが、世はインターネット時代となり、会社のウェブサイトやブログ等でだれでもが情報を発信する機会に恵まれ、あるいはマーケティング上の職務として情報を発信しなければならないようになり、ますます文章力の重要性が増している。



しかしながら、学校を卒業して社会に出てくる若い人たちが、言いたいことが要領よく相手に伝えられるちゃんとした文章が書けるかというと、ほとんどの人はまったく書けないといっても過言ではない。私は大学卒業後、新聞社に就職したため、職場で文章(記事)の書き方を上司や先輩たちからぎゅうぎゅうしごかれて教え込まれたため、56年ぐらいで自分の文章にある程度自信が持てるほどになったが、ほとんどの職場では文章の書き方を教える暇などないから、キャリアを積んでも文章は下手なまま、という人が少なくない。



文章は、いったいどこで学ぶべきものだろうか。まあ普通の考えでは学校であろう。実際に小学校でも中学校でも作文を教えられる。高校では受験のための小論文の書き方を学ばねばならない。それでも、多くの日本人が文章下手なのはどうしてなのだろうか。



日本の小中学校の作文教育とは、大きく言って①行事作文と、②読書感想文であろう。「家族」について書けとか、「いじめ」について書け、という論題もあるかもしれない。いずれにしても共通しているのは、「思ったことや感じたことを素直に書く」「情緒的な文章を書く」という点である。つまり、子供の情操教育を目的とした作文教育を意図していることが分かる。まあ、ある意味、小説家になる勉強、しかも流行りの小説家ではなく、小学校の国語の教科書に載せられるような道徳的な短編小説の書き手を目指させているようなものである。



けれども、社会に出てから求められる文章は、それとはまったく違っている。求められる文章の種類は、大きく分けて2つある。①観察した事実や蓄えた知識を分かりやすく相手に理解させる文章(情報伝達型)と、②人を説得し、ある行動をとってもらうための文章(説得型)――である。たとえば、商品の取扱説明書などは情報伝達型だし、売り込みのプレゼンテーションや企画書などは説得型である。


新聞記事で言えば、普通の記事は情報伝達型で、社説などは説得型だ。長いマニュアルのようなものから、短いキャッチコピーまで、ビジネス界では文章はきわめて重要だ。文章が上手ければ、商品自体がほかのライバルと同じであっても、売り上げを伸ばし、収入を増やせる可能性もある。



どちらも共通しているのは、自分の情緒・感情は極力排し、きわめて客観的に書く努力をしないと、伝わるものも伝わらないということだ。学校の作文教育で習う文章とは根本的に異なっていると言ってよい。小学校6年間、中学校3年間も作文を教わってきていながら、社会に出て役立つ文章の書き方は教わっていないというのが実情なのだ。このような無駄があるだろうか。



新聞社も含め、社会に出てくる若い人たちが書く文章の特徴は、主観的で情緒的な表現ばかりが多く、客観性や人を説得するための論法に欠けることである。だから教えるほうがその点にいつも苦労させられる。これも、学校における作文教育の害なのである。



しかも、私の体験を振り返ってみても、日本の学校の作文の授業は、「作文を書きあげる」ことが目的になってしまっていて、「書く技術」や「人に読まれる文章を書くための考え方(戦略)」はまるで教えられていない。書いたら終わり、書かせたら終わり、である。先生が後から赤字でコメントをくれるかもしれないが、「本当にその通りですね」とか「高橋君はよくその点に気づきましたね」とか、どう見ても情操教育の一環としての指導(というか感想)であった。



日本の作文教育のもう一つの問題点は、作文の時間を通じて、多くの作文嫌いの生徒をつくり出しているということだ。日本の学校の生徒たち(卒業生もだが)で作文が嫌いだという者は半分どころかもっといるだろう。これはなぜなのか。「思ったことを素直に書けばいい」と指導しているにもかかわらずだ。


それはやはり、スキルとしての作文作法がまったく教えられていないため、いつまで経っても生徒たちは我流で考えねばならず、技術も上達することもなく、作文の時間には常に苦労させられるからであろう。



しかも、よくよく考えてみると、「思ったことを素直に書けばいい」と言っているが、読んだ本のことを猛批判したり「まったく理解できない」などと書いたりすれば、点数は低くなるのではないか。つまり、情操教育とは聞こえがいいが、ある意味、一種の思想教育と言えなくもない。



言葉がきついと聞こえるかもしれないが、これには個人的な体験としてちょっとしたわけがある。中学3年のとき、毎度の夏休みの読書感想文の宿題として、家にあった小説の中でいちばん短くてやさしそうなものを選び、感想文を書いて新学期に提出した。題材は、プロレタリア作家の林芙美子のなんとかと言うタイトルの短編である。別にプロレタリア小説だから選んだわけではない。たまたまである。


日本の学校の読書感想文を書くコツは、主人公(少女)の気持ちを推測し、「もし自分だったら」という気持ちで同情し、困難な状況や人生に驚嘆しておけば、大体良い点が取れるから、概ねそのような作文を書いた。すると、市のコンテストで上位入選し、表彰されてしまったから、これにはびっくりした。小学校、中学校の9年間を通して、自分の作文がどこかで入賞したのはそれっきりである。



もう私が言いたいことは分かっていただけたかと思うが、私の作文が本当に上手いから表彰されたわけではなく、主人公である少女の可哀想な境遇に素直に同情し(ここまでは読書感想文のお決まりの約束)、少女を取り巻く社会の歪みを指摘し、「現代の社会も決して理想の社会ではないだろう」と、実に組合系の教員の人たちが喜びそうな結論で締めくくったことが大きかったのではないかと思っている。



一方、大学受験の小論文は、学術的な論文の一種であるから、客観的であろうとする点は社会で使われる文章と同じだが、学術論文はある特定の文章のジャンル(しかも独自のルールがたくさんある)に過ぎないから、それが書ければ(製品のマニュアルや宣伝コピーやホームページ原稿や企画書や報告書など)世の中のすべての文章が書けるというわけではまったくない。



他方、欧米の学校の作文教育はどうであろうか。米国の作文教育は、小学校から大学に至るまでさまざまな形で続けられるが、一貫している点は、事実や意見を正確に、説得力をもって伝えることを主眼としていることである。この路線の始まりは、1874年にハーバード大学がラテン語の代わりに英語によるエッセイ(作文)を初めて入試に取り入れ、その中ではとくに「正確さ、明晰さ、簡潔さ」を重視したことだという。つまり高校卒業までに正確、明晰、簡潔な文章を書く訓練が要求されることとなり、それ以来、米国の学校の国語(英語)の授業では、「読む」ことよりむしろ「書く」ことに重点を置いているという。



しかも、米国の国語の授業が目指すところは、「さまざまな文章とその書き方を教え、それらを状況に応じて使い分けること」なのだという。たとえば、ある小学5年の教科書では物語、詩、手紙(ビジネスレター及び親密な手紙)、説明文、説得文、写真エッセイ、報告書、インタビュー記事、広告文、本の紹介文、自伝、戯曲など12の異なる種類の書き方が紹介されている。各ジャンルに特有の表現、例えば新聞記事では客観性をもたせるため受け身の形を多く使う。説得するための文章では受動態を能動態に書き換えるなどの練習が行われる。(廣松勝太郎「我が国における作文教育の問題点」)。



米国の高校や大学のレポートにしても、もっぱら導入、本文、結論の3段構造を持ち、正確性、客観性、説得性を重視する文章が要求され、細かいことまで先生やチューターから指摘される。たとえば、レポートやエッセイを書くときは、客観的な書き方にするため、「I」(私は)という主語は使わないように、などという指導を受ける。

さらに、文章力の巧拙は、話す能力(スピーキング)にも必ず影響してくる。論理的で分かりやすい文章が書けないのに、論理的で分かりやすい話ができるわけがない。欧米の文章作法の基本も、実は起源をたどると、古代ギリシャの弁論術にたどり着くのだという。



日本の情操教育的な作文教育のプラス効果が一つあるとすると、人の気持ちを推測し、寄り添い、同情でき、高齢者に座席を譲ることができ、道端のごみを拾うことができる心やさしい若い人々を世の中に送り出していることかもしれない。ただそのような情操教育・道徳教育がしたいのであれば、わざわざ作文の時間に行わなくても、素晴らしい人の思想や生き方に関する本を読ませたり、ディスカッションさせたりすれば、より効果的にできることだろう。



結論。日本の学校の作文教育は、社会に出てからの実用に供するための内容に早急に転換していただきたい。文章力は、今やすべての職業における基本的かつ必須のスキルなのだから。