MATTのブログ ~ ニュース分析・政策・危機管理など ~

ジャーナリスト、パブリックアフェアーズ/危機管理コンサルタント、プレゼンコーチ、スピーチライター MATTのブログ。アメリカと日本を中心にニュース分析などを執筆します。元新聞記者。


テーマ:

英語の授業

日本の小中学校の英語の授業では、だれかが良い発音で英語をしゃべると、クラスメートたちからからかわれるか、ひどい場合にはいじめられるのだという。皆、それが嫌だから、できる者もわざと下手なカタカナ発音で読む。「そんなこと気にしないで堂々と読めばいいじゃない」と言っても、「とてもそんなことできる環境じゃなかった」と、公立中学に行った現在高校生の息子が述懐する。

 

日本人の英語下手、つまり伝わらない英語の元凶は、意外とこんなところにあるのかもしれない。私立進学校や、都心の一部の教育熱心な親たちが住む地域では違うのかもしれないが、おそらく日本のほとんどの地域ではこのような現状なのではないか。

 

生徒たちが自ら嫉妬による優等生いじめの環境を作り上げ、できる人の足を引っ張っているなんて、そしてそのために多くの真面目な生徒たちがわざわざ英語の発音を下手にしているなんて、実に嘆かわしい、また愚かなことだ。

 

といっても、嫉妬による行き過ぎた批判の連打や、人の足を引っ張ってまでもの横並び意識、視野の狭さは悲しいかな、小中学校に限らず日本社会の至るところにはびこる病弊である。伝統に原因を求めれば、閉鎖的で単一的な日本のムラ社会の文化が関係しているのだろう。子供たちが発音の良い仲間を揶揄するのは、その一つの表れでもある。子供たちや英語教師だけを責めても仕方ないのかもしれない。

 

私の息子は「英語を勉強したいと思う生徒と、そうでない生徒とを分けない限り、あの状況は変わらない」とまで主張する。英語を学びたい生徒にとって、状況はそれくらい切実なのだ。

 

この問題は実に解決が厄介そうに思えるが、一つの解決策は「進度別クラス編成」ではなかろうか。英語の一部を選択科目にして、取りたい子供だけ履修するというようにしてもよい。学問というものは何でもそうだが、やる気があってどんどん先に先に勉強していく子供と、モチベーションが低く、できるだけやらないようにしようと考える子供とでは、その学習進度に天地ほどの差があっと言う間にできていく。それをいつまでも固定化されたクラスで同列に教えていくのは、とくに英語のような科目では無理がある気がする。

 

子供たちが実用的な英語を使えるようになりたいと切実に思わないもう一つの原因は、このままいつまでも英語が話せなくても、仕事に就いて一生を問題なく送っていけるだろうという甘い観測にある。たしかにこれまでの両親の世代まではそれでも良かった。だが、このグローバル化と情報技術が電光のスピードで進みつつある現代では、これからとてもそれでやっていけるとは思えない。おそらく20年後には、移入労働者が激増し、海外のベンダーや取引先やパートナーとのやり取りも増えることにより、日本で働く大卒のホワイトカラーが使う言語の半分は英語になるのではないか。脅しではない。そのことが今の子供たちにまったく伝わっていないように思える。

 

教師ばかり批判してもよくないが、教師こそ閉ざされた空間でしか仕事をしていない、超ドメスティックな職業だ。失業の危険もない。けれども、現在の教師でもいいし、校外から招いた人物でもよいが、だれかが英語の本当の意味での重要性を子供たちに真剣に説いてほしいものだ。

いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:

大和政権樹立

北九州から上陸したユダ族は、東方の国土が広く開けているにもかかわらず、なぜ東進せず、南進して日向に向かったのか。これは歴史上の謎であるが、おそらくほかのユダヤ部族も後に日本に移動してくることを想定して、敢えてユダ族の定位置である南に拠点を構え、ほかの国土をほかの部族のために空けておいたと考えられる。なぜ南が定位置かと言えば、古代イスラエルにおけるユダ族の領地は南ユダ王国、つまり南に位置していたためだ。


古代イスラエル 
古代イスラエル各部族の領地

本州

ユダヤ各部族の初期の定住地(かなり見にくくて済みません)


「日向」とは「ユダ」であり、宮崎県には「八重(やえ)」という地名がとくに多いが、これはユダ族の守護神である「ヤハウェ」のことであると考えられる。ユダ族は大王の家柄だが、宮崎県には「大王町」もある。

 

これと同様に、南進したのは同じ南ユダ王国のシメオン族。最南端の鹿児島周辺を拠点にしたとされる。鹿児島県大島郡には「住用(すみよう)村」「住吉(すみよし)町」という地名もあるが、これらは「シメオン」から来たと考えられる。「大隅半島」「大隅郡」の「オオスミ」も「シメオン」が倒置したものではないか。いずれの部族の定住地も、古代イスラエルの領地割りとぴったりの配置となっている。

 

このユダ族とシメオン族の二部族と祭司一族であるレビ族が南ユダ王国系であるが、レビ族は分散して各部族と一緒に住んでいたため、とくに決まった定住地というものがない。しかし、千葉県の「我孫子(あびこ)」、岐阜県の「揖斐(いび)」、北海道の「帯広」などは「レビ」から来ていると思われる。

 

「北の王国」系であるベニヤミン族は古来、ユダ族の北に住んでいたが、日本では大分県と福岡県東部に最初に住み付いたとされる。「豊前」「豊後」の「豊(ぶん)」は「ベニヤミン」の「ベニ」がなまったものではないかと言われる。同様に、山陽地方にも足を延ばし、「備前」「備後」の「ビン」という音にも残っている。

 

古代イスラエルでベニヤミン族の東に住んでいたのがルベン族。ルベン族が拠点としたのは山口県宇部市付近と言われている。「ルベン」が「ウベ」になった。そこから苗字の「アベ(安倍)」にもつながったとされる。となると、安倍首相はルベン族の末裔である可能性がある。

 

古くはベニヤミン族の北に住んでいたのがエフライム族。兵庫県神戸市周辺の「播磨(はりま)」が「エフライム」に相当する。播磨には古くから「室(むろ)」という地名があり、これはベニヤミン族の領地にあった「北の王国」の首都「ソムロン」から抜き出した音と考えられている。

 

古代イスラエルでエフライム族の東に位置していたのがガド族である。ガド族は関東一帯を拠点としたと考えられている。とくに千葉県館山市に「那古(なこ)」という地名が残っているが、那古というのは卑弥呼時代のガド族の長の名前であり、ガド族はこの地に拠点を置いたのではないか。神奈川県の秦野市や相模原市に多く見られる「門倉」という苗字も「ガド」の流れではないか。

 

古代イスラエルのエフライムやガドの北に位置していたマナセ族は、東と西の二部族に分けられる。西マナセ族は石見(島根県西部)や因幡(鳥取県東部)を拠点とし、東マナセ族は長野県の美濃から伊那地方にかけて住み付いたと言われている。長野県西部や島根県西部にある「美濃(みの)」という地名は「マナセ」から来ていると考えられる。安土桃山時代・京都の有名な医学者、曲直瀬(まなせ)道山もマナセ族の末裔と思われる。

 

イサカル族は古来、マナセ族の北に位置していたが、日本では青森県の津軽半島を拠点としたとされる。「津軽(つがる)」は「イサカル」の「イ」が抜けてなまったものとされる。そこから北海道に進出した支族は「石狩(いしかり)」であり、北海道に多い苗字の「井坂」であろう。

 

古代イスラエルの最北に住んでいたのが、ナフタリ、ゼブルン、アシェル族である。ナフタリ族は青森県東部に拠点を構えた。「ナフタリ」→「ナンブ」である。本州の最北端の青森地方を日本の最北端と捉え、それで良しとしたようだ。下北半島の最北端に「新田(にふた)」という古い地名があるが、これも「ナフタリ」から来たと考えられる。「一戸(いちのへ)」「三戸(さんのへ)」「八戸(はちのへ)」の「のへ」も「ナフタリ」から来たようだ。「南部(なんぶ)」も「ナフタリ」を込めた地名と考えられる。八戸に多い「名久井(なくい)」という苗字も同じ流れではないか。

 

ゼブルン族とアシェル族は日本列島の最北を目指すため、その先の北海道まで足を延ばしたようだ。



北海道
                各部族の初期定住地 〔北海道)

ゼブルンの「ゼブ」がなまって「しぶ」「しべ」となり、北海道根室の「標津(しべつ)」「標茶(しべちゃ)」「留辺蘂(るべしべ)」、帯広の「渋山」、中富良野町の「渋毛牛」になったと考えられる。

 

古代イスラエルではゼブルンの北西に住んでいたアシェル族は、北海道の網走付近に定住したらしい。「網走(あばしり)」も「足寄(あしょろ)」も「アシェル」から来たと考えられる。小樽にも「忍路(おしょろ)」、樺太(サハリン)にも「鵜城(うしょろ)」という地名が残っている。

 

日向族(ユダ族)を中心とする九州勢力、つまり南ユダ王国系統は東進して、各部族を掌握しつつ、出雲族を北東日本へと追い払い、近畿の大和(奈良県)に拠点を移し、3世紀に全国を統一して大和政権を樹立した。つまりこの日向族の東進は、ダビデ王を起点とした王族であるユダ族を中心に、全国各地に散らばるユダヤ部族(やほかの民族や先住民)を統括支配するためだったと考えられる。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

出雲大社1

古代日本では、宮崎に本拠地を置いた日向族(後の大和政権)と、島根に拠点を置いた出雲族という二大勢力の間で抗争があった。日向族の族長がイザナギ、イザナミ。出雲族の族長がスサノオの父フツであった。

 

二つの勢力は、当初は協力して国を治めるはずだったが、抗争が深刻化し、イザナギの娘アマテラスとフツの息子スサノオとを結婚させていったんは和議を結んだ。

スサノオ アマテラス
          スサノオ                  アマテラス

ところが結局、日向族が協力を拒み、日向族が大陸から大勢の仲間をかき集めてきたため、出雲族が次第に劣勢となり、東北日本へと追いやられていった。日向族は出雲族を追い出して大和政権を樹立。神話の国譲りである。さらに追討の手を緩めず、桓武天皇の時代には坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣し、出雲族を「蝦夷」と呼んで征討した。

 

ちなみに、アマテラスのヘブライ語別名を「ヘフジバ」と言ったが、ここから日本一の山「富士山」や「富士宮」「富士見」などの地名が名付けられたと言われている。また、ユダ族の流れをくむ秦氏の日本列島での始祖とされる「弓月の君」の「ゆづき」はヘブライ語で「神は召集した」と意。さらに、弓月の君は、大陸各地にいるユダヤ人を集め、日本に呼び寄せる役割を担っていた可能性がある。八幡神社の「八幡(やはた)」はヘブライ語で「神はかき集めた」との意味で、日本の兵力を増強するためにアジア各地からかき集められたユダヤ人全体を指すという説もある。

日向族は古代イスラエルのユダ族(「日向」も「ユダ(イェフダ)」が語源とされる)を中心とするユダヤ人であり、朝鮮半島または中国南部から船で渡来して博多付近に上陸し、原住民を征討しつつ南進して宮崎県に拠点を築いたとされる。

鵜戸神宮
宮崎県日南市の鵜戸神宮

出雲族は、姓名としては賀茂氏、因幡氏、富(とみ)氏(エドムが転訛したものか)などが中心だったらしい。
 
 

出雲大社2
出雲大社

では、出雲族はいったい何者だったのか。これにはいくつかの説がある。

 

一つ目の説は、出雲族はイスラエルの南方に住むユダヤ人の兄弟民族、エドム人だったというもの。「エドム」がなまって「イヅモ」になったとされる。創世記によると、兄がエドムで、弟がヤコブという双子の兄弟がおり、互いに相争い、エドムがエドム人の祖に、ヤコブがイスラエル人(ユダヤ人)の祖となった。ユダヤ人とエドム人は元をたどれば血縁同士だが、古くから憎しみ合っていた。つまり日向族と出雲族の抗争は、ユダヤ人とエドム人の争いの再来だというものだ。ちなみに、日本の「八雲」は「ヤコブ」のことで、「出雲」は「エドム」であるとされる。

 

エドムの地は紀元前4世紀にナバテア人に奪われたため、エドム人は放浪し、紀元前3世紀~前2世紀に日本に渡来した可能性があるという。エドム人は航海技術に長けていたことから、ポリネシアを経由して、海路で日本列島にたどりついたと考えられている。また高層神殿建築技術に優れ、古代出雲の神殿を築いたのはエドム人ではないかという。西暦1世紀頃には山陰地方は出雲を中心に繁栄していたとされる。「エドム」は「エサウ」とも呼ばれ、「エサウ」とは「赤い」「毛深い」という意味であることから、赤い顔の毛深い人種であった可能性があるが、その後、東北方面の「蝦夷」になったとすれば納得がいく。

  

出雲から派生したのが「いずみ(泉、和泉、出水、伊豆見)」という地名・苗字。また、「井詰(いづめ)」「当間」「苫前」「苫小牧」「苫米地(とまべち)」もエドム人が住み付いた土地であると考えられている。さらに、出雲系の賀茂氏の子孫に戦国時代の松平氏がおり、そこから出た徳川家康が日本を統一し、祖先の「エドム」に敬意を表して首都を「江戸」と命名したのではないかと言われる。

家康
徳川家康

二つ目の説は、紀元前15世紀頃、メソポタミアを統一し、大帝国を築いたヒッタイト人が出雲族になったというもの。最初の鉄器文化を築いたとされる。紀元前12世紀頃、「海の民」と呼ばれる民族に滅ぼされ、その後はちりぢりになったとされる。その後のユダヤ人たちからは尊敬され、またユダヤ人と結婚して混血した者もいた。

 

秋田県の大湯ストーンサークルで出土した土器が、ヒッタイトで発掘された土器と酷似しており、ヒッタイト人が古代日本に渡来したことを証明している。オックスフォード大学の考古学者セイヌ博士は「日本人の中に確かにヒッタイト人の血が入っている」と断言している。さらに、島根県ではタタラ製鉄の高い技術を受け継いで特殊な鋼を生産してきたが、タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われ、タタラの語源はタタールである可能性が高い。ヒッタイト人は放浪後、モンゴル高原の遊牧民タタールになったとの有力な説があり、そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。

 

三つ目の説は、日向族も出雲族も同じユダヤ民族であったが、日向族が分裂した「南のユダ王国」(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族)の出身、出雲族が北の王国」の出身(エフライム、ダン、ガドなどの十部族)であったというもの。

つまり南北分裂の対立が日本でも引き継がれたという考え方である。天皇家は初代神武から9代開化天皇までエフライム族だったが、10代崇神天皇からは系統が代わりユダ族になったとの説があるが、そうだとすると日向族による出雲族の征討、皇位奪還の史実と符号する。

いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:

日枝神社

古代イスラエルのユダ族(またはエフライム族)を祖とする日本最大の豪族であった秦氏、そしてその子孫と思われる秦、旗、波田、羽田、畑、端、幡多、波多、畠、幡、旛、波多野、秦野、畑野、幡野、籏野、旗野、畑中、畑山、木幡、小畑、古畑、降旗、古旗、津秦、中畑、大畑、高畑、高畠などの苗字についてはすでに紹介した。ユダ族は、ダビデ王を起点としたユダヤの王族である。今日はそれら以外の苗字、地名をご紹介したい。

 

「ひえだ(稗田、日枝、冷田、日江田)」「ひゅうが(日向)」「八重(やえ)」もユダ(族)から来ているとされる。日枝神社もユダ族の神社ということになる。

日枝神社2
日枝神社


英語でユダヤ人を指す「ジュー(Jew)」も「ユダ」から来ている。さらに「ひえだ」から派生したのが「飯田」「用田」「夕田」「大田」「岩田」「岩手」「岩戸」ではなかったか。

 

古代イスラエルから司祭の役目を司るレビ族であるが、「良比(らび)」「日比(ひび)」はその末裔であるとされる。「賀茂」もレビ族と言われる。鰐、和仁、和邇、鰐川、鰐口、鰐洲、鰐石、鰐田、鰐部など「わに」のつく苗字は、北九州八幡付近に存在したとみられる伊都国の鰐(バニ)族の子孫と言われるが、鰐族はレビ族の末裔と考えられている。鰐というが、日本列島に実際にワニがいたわけではない。どこか南方から輸入した言葉ではなかったか。

 

卑弥呼時代の日本のガド族の長は「那古(なこ)」と言ったが、千葉県館山市に「那古」という地名が残っている。「なごや(那古屋、名古屋)」も同じ由来。千葉県の「上総(かずさ)国」、千葉県銚子市の「三門町」、東金市の「御門(みかど)」、北海道の「門別(かどべつ)」、山口県の「長門(ながと)」、富山県の「久戸(ぐと)」もガド族から来ているのではないか。天皇家の出自については諸説あり、エフライム族であるという説と、初代神武天皇はエフライム族だったが、日本に渡来した10代崇神天皇以降は系統が入れ替わりガド族になったという説がある。天皇のことを「ミカド」というが、これはヘブライ語で「ガド族の出自」という意味であるというのがその論拠である。

 

なお、旧約聖書によれば、ガド族の子孫からゼポン人の氏族が出たとされる。そしてこの「ゼポン」がなまって中国語の「日本(ジーベン)」となり、それが日本語の「ニッポン」や英語の「ジャパン」になったのではないか。

 

そしてダン族。「だん(弾、団、壇、弾、談、旦)」「たん(谷)→たに」という名字は、ダン族の末裔である可能性が高い。レビとダンを一緒にして「日比谷(ヒビタン→ヒビヤ)」。

 

次にイサカル族。「飯盛(いさかり)」「井坂」「坂」「石狩」「然別(しかりべつ)」はイサカル族に由来すると考えられる。青森の地名や苗字である「津軽(つがる)」もイサカルの「サカル」を取ったらしい。長野県の「軽井沢(かるいざわ)」も「イサ」と「カル」が倒置したものと考えられる。

 

ナフタリ族であるが、「田利(たり)」「ひなた(日向、日名田)」がその影響。「南部(なんぶ)」もナフタリ族の「ナフ」を取ったものと思われる。「新田(にった)」は古くは「にふた」と読まれており、「名久田(なくた)」と合わせて、ナフタリ族の流れと思われる。「ナフタリ」とはもともとヘブライ語で「イノシシ」の意味である。青森の「ねぶた」も「ナフタリ」から来ているらしい。

ねぶた
ねぶた祭り


次にマナセ族だが、「まなせ(曲直瀬、真瀬、間名瀬)」「まの(真野、間野、目野)」はマナセ族とされる。福岡の「宗像(むなかた)神社」であるが、これは「マナセ」と「カド」と一緒に祭った神社ではないか。

宗像神社
宗像神社

また古代、朝鮮半島南部の任那(みまな)に日本府(大和朝廷の出張所)があったというが、この「みまな」は「マナセ族の出自」という意味である。マナセ族は北東インドを経て渡来した可能性が高い。

 

薩摩島津家の家紋の十文字は、ルベン族の紋章と同じである。源頼朝とルベン族との間にもうけられた男子が島津氏となったのではないかと言われている。「阪(べん、さか)」もルベン族の末裔と言われる。

 島津家紋


次にエフライム族。「良井(らい)」はエフライムの「ライ」を取ったとみられる。ユニコーンはエフライム族のシンボルである。「足利」「足尾」「足柄」「足寄(あしょろ)」「芦別」「尻別」「網走」「奥尻」「橋(はし)」などの地名・姓名はアシェル族から来ていると言われる。

 

また、「紅谷」「紅屋」「紅山」「屋見(やみ)」はベニヤミン族の末裔と言われ、「島(しま)」「住吉(すみよし)」「清水(しみず)」はシメオン族。住吉神社もこの系列である。また、「掘(ぼり)」「巽(すぶる)」はゼブルン族の子孫であると言われる。ゼブルン族はインド東部から航海して鹿児島に上陸したと言われている。

 

北海道の胆振(いぶり)国はヘブライ(人)、「渡島(おしま)国」はシメオン族、石狩国はイサカル族、釧路国はアシェル族、日高国はユダ族、十勝国はガド族、根室国はエフライム族、留萌(るもい)支庁はルベン族、と見事に古代イスラエルの部族ごとに配置されている。

 

アブラハムとはすべてのユダヤ人の祖である。

Abraham

アブラハム


日本神道に古くから伝わる「神道五部書」中に「阿波羅波命(アハラハノミコト)」が出てくるが、これは「アブラハムのみこと」「アブラハム王」のことだと思われる。また、宮崎県の油津(あぶらつ)」、山形の油戸(あぶらと)、青森の油川(あぶらかわ)、福岡県の油山(あぶらやま)などはすべて「アブラハム」に由来するのではなかろうか。日本全国に「油」のつく地名は84か所あるという。「油(あぶら)」という言葉自体もここから出ているとも考えられる。いずれにしても、「油」のつく姓名・地名はこの由来である可能性が高い。

 

アブラハムの息子は「イサク」といい、その子孫がイサク族となった。鹿児島県の伊作(いさく)や全国各地にある「一色(いっしき)」はそこから来ていると考えられる。ヨセフはユダヤ人の祖であるヤコブの子であるが、「良須(よす)」「ひよし(日吉、日義)」はヨセフにちなんだと言われる。

 

「室(むろ)」「御室(おむろ)」はイスラエル北王国の首都ソムロンから来ていると言われている。「袋(だい、ふくろ)」はザブダイ族(ユダの支族)の由来と思われる。

 

それから以下の苗字はすべてそのままユダヤの苗字から来ていると思われる。「やない(柳井、箭内、矢内、梁井、谷内)」「いたい(板井)」「たや(田谷、田屋、多谷)」「さぎい(鷺井)」「しま(島)」「勝」(カッツ)「もりや(守屋、守谷、森谷、森屋)」「つりや(釣屋、釣谷)」、「宇治」、「秋葉」「吉屋」「三木」「菅(かん)」「古田(ふるた)」(フルダ)「子門(しもん)」「うるま(閏間、宇留間、漆間)」(ウルマン)。

 

以下の苗字はヘブライ語の意味を持つ。「山井」は「水夫」、「野井」は「庭」、「田丸」は「ナツメヤシ」、「砂井」は「リス」、「阿南(あなん)」は「雲」、「有江(ありえ)」は「ライオン」、「作内(さくない)」は「ペリカン」、「野賀」は「金星」、「あまみ(奄美、天海、天見)」は「大衆的な」、「渥美」は「自分自身」、「きた(北、喜多、喜田、木田)」は「教室」、「三田」は「ベッド」、「三井」は「抽出」、「あらい(荒井、新井)」は「一時的」、「とだ(戸田)」は「ありがとう」、「いかり(碇、猪狩、伊刈)」は「主要の」、「かいつ(海津)」は「夏」、「しば(芝、柴)」は「理由」、「松井」は「ありふれた」、「いとう(伊藤、伊東、井藤)」は「彼と」、「棚井」は「条件」という意味がある。さらに「羽村」「小野」「ささ(佐々、笹)」といった苗字は、どうやらヘブライ語の地名から来ているらしい。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

ニシン漁

北海道の日本海岸に伝わる「ソーラン節」は、日本人ならだれでも知っているほど有名な民謡だ。ニシン漁の歌として知られている。

ソーラン

「ヤーレン・ソーラン・・・」という掛け声は、日本語としては何の意味もなさないが、ヘブライ語で読めばちゃんとした意味がある。「ヤーレン」は「喜び歌う」、「ソーラン」は「一人で」、「チョイ・ヤサエ・エンヤン・サー」は「たとえ嵐が来ようとも、真っ直ぐに進め」、「ノ・ドッコイショ」は「神の助けによって、押し進んでいく」という意味である。つまりソーラン節は、古代ユダヤ人たちが荒波を乗り越えて約束の地に向かう際に歌った行進曲であったと考えられる。おそらくは紀元前7世紀以降、イザヤの預言にしたがって約束の地、つまり東の海の島々を目指し、立ちはだかるさまざまな大自然の困難にめげずに航海を続けようとする鼓舞の歌だったのではないか。

 

美輪明宏さんの歌で有名になった「ヨイトマケの唄」(作詞・作曲 美輪明宏)であるが、「エンヤコラ」や「ヨイトマケ」も実はヘブライ語の意味がある。

美輪明宏

「父ちゃんのためならエンヤコラ・・・子供のためならエンヤコラ」の「エンヤコラ」は「私は告げる」の意味。「今も聞こえるヨイトマケの唄・・・働く土方のあの唄が」「ヨイトマケの子供、きたない子供といじめぬかれて」の「ヨイトマケ」とはヘブライ語で「ことごとく負ける」の意味である。

 

一方、富山県に伝わる古代民謡の「こきりこ節(筑子節)」であるが、日本の民謡の中でもっとも古いとされ、古くから白山宮の祭礼で唄い継がれてきた。

白山宮

こきりこ

これをヘブライ語で解読するとどうなるか。「コキリコ」とは日本では竹でつくった楽器のことだが、ヘブライ語だと「律法の本」、「デデレコデン」とは「ダン族が(新天地へ向けて)移動する」、「マドノサンサ」は「祭りだ!祈れ!喜べ!」という歓喜の叫び。「ハレノサンサ」は「祭日に神を誉めよ!祈れ!喜べ!」。したがって、「こきりこ節」はユダヤ民族の「失われた十部族」の一つであるダン族が新天地を求めて民族移動を続けた際の喜びの歌であったと考えられる。なお、団、、檀、旦などの苗字を持つ日本人はダン族の子孫である可能性が高いと言われている。

 

さらに日本の祇園祭りでは「エンヤラヤー」という掛け声が使われる。

 

エンヤラヤ

 


これは「私は神(ヤー、ヤハウェ)を讃える」という意味のヘブライ語「ァンィ・ァハレル・ヤー」が変化したものと考えられる。伊勢神宮では二十年に一度の式年遷宮のため長野、岐阜の木曽山中から切り出されたご神木のヒノキ三本がはるばる三百キロ、伊勢神宮まで運ばれる(奉曳)が、重い木材を引き上げるときに「エンヤー、エンヤー」という独特の掛け声がかけられる。


奉曳


この「エンヤー」も「神とともに」の意味だ。ちなみに、キリスト教の讃美歌などで頻繁に使われる「ハレルヤー」「アレルヤー」という言葉も、もとはと言えば、ヘブライ語で「神を讃えよ」というユダヤ教の賛美の言葉である。

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

鳥居_

伊勢神宮は天皇家の氏神であり、日本人の総氏神でもある、最高位の神社だ。内宮から外宮に至る道路の両側に並ぶ計約700基の石灯籠には、籠目(かごめ)紋(六芒星=ろくぼうせい)が刻まれている。

石灯籠 Flag 
    伊勢神宮の石灯籠          イスラエル国旗(ダビデの星)

 

この紋章は古代イスラエルの「ダビデの紋章」として知られ、ユダヤ人のシンボルでもある。現在のイスラエル共和国の国旗にもなっている。また伊勢神宮暦はほかの神社と異なり、「ヘブライ暦」と一致している。

 

伊勢神宮の前身は籠(この)神社(京都府宮津市)だが、籠神社の宮司を務めてきたのが海部一族(海部元首相の遠い親戚)である。82代目当主を務める海部光彦氏は最近になってそれまで極秘だった裏家紋(奥の院である真名井神社の石碑にある)を公開したが、なんと驚くべきことにダビデ王の紋章(六芒星)であった。しかし有名になり過ぎたため、削ってしまったという。

神社
真名井神社の石碑

ユダヤ系の渡来人とされる秦氏が建造した平安京のマークもダビデの紋章である「ダビデの星(六芒星)」と同じものだったという指摘もある。現在の京都市の紋章はこれを図案化したものだともいわれている。また、聖地エルサレムの 「城塞」 は 十二の門を持つなど、構造が平安京とよく似ていると指摘されている。

京都市章 Flag
         京都市の市章            イスラエル国旗(ダビデの星)


皇室に古来伝わる三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)が伊勢神宮に安置されており、その写しである皇室の神鏡にはヘブライ語が書かれていると伝えられているが、本物は現在の天皇や一族を含め、なかなか見ることができないとされる。

鏡


八咫鏡(やたのかがみ)=イメージ

三笠宮がことの真偽に関心を持ち、夜中にこっそり見たという噂もある。また、かつてヘブライ語学者の左近義弼博士がそのヘブライ語の解読のために宮中に呼ばれ、鏡の文字は「わたしは『わたしはある』という者である」と読めたという。このフレーズは旧約聖書の中で、モーセが神にその名を問うたときの神の言葉でもある。

 

日本の神社に必ずある「鳥居」であるが、なぜ「とりい」と言われるのか、なぜあのような形をしているのかについては分かっていない。

鳥居
伊勢神宮の鳥居

けれども、「トリイ」とはヘブライ語のアラム方言で「門」を意味し、古代イスラエルの建物の玄関口とそっくりの色と形であり、ユダヤ人が見れば即座に意味が理解できるという。

 

日本の神社に置かれている狛犬(こまいぬ)は犬よりライオンに似ているが、古代ソロモン神殿の前にもライオンの像が置いてあった。ライオンはダビデ王統を担うユダ族のシンボルであった。

狛犬 Lion
     日本の神社の狛犬(こまいぬ)    イスラエルの神殿のライオン

日本の神社は聖所、至聖所、拝殿に分かれ、祭壇には明かりを灯す常備灯があり、脇には手を洗う水盤がある。拝殿の前にはお賽銭箱が置かれている。これらすべてが古代イスラエルの神殿と共通しているという。

神社の配置
神社の配置

 日本の神社の神主は白い服装をしているが、古代イスラエルの祭司レビ族

も非常によく似た、ゆったりとした和服のような白い服装をしていた。袖口にはリンネと呼ばれる白い房がついていた。

神主 rabbi
         日本の神主           古代イスラエルの司祭

日本の山伏が頭につける兜巾(ときん)は、ユダヤ人が現在でも祈りのときに額につけるヒラクティリーと呼ばれる小箱(旧約聖書の言葉を収めてある)に酷似している。

ヒラクティリー 山伏
   イスラエルのヒラクティリー     山伏の兜巾(ときん)

また、山伏が吹くほら貝の音は、ユダヤ人の祭りで使われる「ショーファー」と呼ばれる羊の角で作った吹奏楽器とそっくりである。

映画『レイダース/失われたアーク』に登場した古代イスラエルの秘宝「契約の聖櫃(せいひつ=アーク)」は、現実でも現在に至るまで行方が分かっていない。

 ark

「レイダース/失われたアーク」                      契約の聖櫃(アーク)

神輿
     日本の神輿

アーク(聖櫃)とは、預言者モーセが神から授かった十戒石板を保管する箱のことで、全体に黄金が貼られ、旧約聖書の出エジプト記にその作り方が克明に記されている。その記載を見ると、日本の神輿(みこし)にそっくりなものだ。アークの上には二体の天使(ケルビム)の像が羽を広げて向かい合っているが、日本の神輿の上にも鳳凰(ほうおう)と呼ばれる鳥が乗り、大きく羽を広げている。アークの下部には二本の棒が貫通しており、移動するときはレビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓を鳴らして騒ぎ立てた。担ぐための棒は絶対にアークから抜いてはならなかった。神輿の棒も抜かれることはなく、差したまま保管される。

 

かつてイスラエルの北の王国を滅ぼしたアッシリア帝国は「契約の聖櫃」と「ソロモンの財宝」をもっとも欲しがったが、それらを見つけることはできず、そのまま行方不明となった。そのため、西欧の考古学者たちは映画のインディ・ジョーンズのように「失われたアーク」の行方を追って世界各地を探し続けている。あるとき、徳島県の修験道の聖地で霊山である剣山にソロモンの秘宝が隠されているという噂があり、発掘隊が組織されたこともあった。この剣山では毎年、神輿祭りが行われるが、その日は祇園祭りと同じ717日である。

 

日本の三大祭りの一つ「祇園祭り」はユダヤのシオン祭りと同じ717日に行われる。「ギオン」は「シオン」が転訛したものだとの指摘がある。ユダヤのシオン祭りは、ノア一家が大洪水を乗り越えたことを祝う祭りで、717日は旧約聖書でノアの大洪水が終了した日とされている。日本の祇園祭りを象徴する山車(だし)は、「ノアの箱舟」を象徴しているのではないかと推測する研究家もいる。

祇園祭りの山車
祇園祭りの山車

実際に、祇園祭りに登場する山車の中には、古代イスラエルで使われた織様と同じ文様を付けたものが多数ある。祇園祭山鉾連合会の理事長までもが「祇園祭というお祭りのしきたり、あるいはその縁起は、間違いなく ユダヤの文明と同じ形態と経過と結果をもったお祭り」であると明言しているという。となると、失われた「契約の聖櫃(アーク)」は、古代ユダヤ人がはるばる日本列島まで担いで持ってきたのだろうか。

 

エルサレム神殿の門には、天皇家の「十六弁の菊家紋」と同じような紋章が刻み込まれている。この紋章はイスラエル民族の紋章であり、現在のユダヤ教のシナゴーグ(教会堂)には必ずこの菊の紋章がデザインされている。

エルサレム神殿菊の家紋
  エルサレム神殿の菊の紋章        天皇家の菊の家紋

 

日本人もユダヤ人も、水や塩で身を清める「みそぎ」の習慣がある。また、ユダヤ人は食事の前、トイレの後、教会堂に入るとき、手を洗う習慣がある。日本人も神社を詣でる前に入口で手を洗う習慣がある。またユダヤ人は日本人と同じように、まず体を洗ってから風呂に入る。ユダヤ人以外の西欧人はそれとは異なり、バスタブの中で体を洗う。

 

ユダヤ人は現在も13歳の男子に成人を迎える儀式「バル・ミツバ」を行うが、日本人もかつて、13歳男子に元服式を行っていた。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

乙巳の変

仏教は古墳時代の552年、欽明天皇の在位中に日本に入ってきた。受け入れるかどうかで臣下の意見は分かれたが、天皇は仏教信仰を許可し、仏教は次第に広まり、大きな勢力となっていった。その一方で、日本人の真のルーツは忘れられるようになり、神道は次第に押しやられるようになっていった。


ところが、次々と日本に災難が降りかかり、多くの人命が失われた。当時、中央には二つの大きな政治勢力、二大氏族があり、一つは仏教推進派の蘇我氏で、もう一つは仏教受け入れに反対した物部氏であった。祭司一族であった中臣氏も物部氏とともに仏教に反対した。物部氏らは「外国の宗教を受け入れると、日本古来の神道の神々の怒りを買い、国全体に災難がふりかかる」と仏教の拒否を天皇に懇願した。


中央政界では次第に蘇我氏の勢力が大きくなり、蘇我入鹿が政治を専横するようになった。これを阻止しようと、643年、中臣鎌子(藤原鎌足)らが決起し、蘇我入鹿を斬り、蘇我氏の野望に終止符を打った(乙巳の変)。そして中臣鎌子を中心として大化の改新と呼ばれる大改革が断行された。中臣鎌子は仏教を推進した蘇我氏に対立した神道の祭司長。大化の改新の主要な目的は、神道を日本の国家宗教の座に回復させることにあったのではないだろうか。

藤原鎌足 蘇我入鹿

      藤原鎌足            蘇我入鹿


しかも、大化の改新で制定された新しい法律の多くは、古代イスラエルの伝統にきわめてよく則っていた。大化の時代は71日に始まったが、7月1日はユダヤ歴では新年にあたる。大化の新政府は714日に神道の神々に捧げる捧げ物を集めたと日本書紀に記されているが、聖書によると、ユダヤ歴714日の夕方から「仮庵の祭」が始まり、神殿で捧げ物が捧げられる。


大化の土地分配は戸籍に基づき家族の人数に応じて行われた。一方、聖書にも「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの土地を与えよ」と書かれている。


大化の改新の詔(みことのり)は「死者のために生きている者が断髪したり腿を刺したりしてしのびこと(死者の徳行功績をほめること)を述べたりする旧俗はことごとくやめよ」と命じている。同様に聖書でも、親族が死んだとき、「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」とされている。


大化の改新の詔は「不当に自分の身に取り入れたものは倍にして徴収せよ」と述べており、聖書も「紛失物について言い争いが生じ、一方が自分のものだと言うとき、両者の言い分は神の御もとに出され、神が有罪とした者が二倍の償いをせねばならない」と言っている。ほかにも類似点は多くある。


この問題を長く研究してきたヨセフ・アイデルバーグ氏は「これらの新法をつくった神道指導者たちは、実はヘブライ文字で書かれた聖書を持っていたのではないか。大化の改新とは、実は古代イスラエルの神道をルーツに持つ日本の神道を復活させる動きではなかったのか」と推測する。


日本は9世紀中頃に至るまで、中国文化と仏教の受容にほとんど耽溺していた。しかし次第に中国文化から独立し、固有の文化を持って発展させようとする動きが起こってきた。その結果、894年には遣唐使が廃止され、9世紀末までには日本固有の片仮名と平仮名がつくられた。本連載の2回目で述べたように、日本の片仮名と平仮名はヘブライ文字に酷似している。あまりにヘブライ文字に似ているため、単に漢字を崩してつくったとは考えにくい。当時の日本人の教養階級にヘブライ語の知識があり、ヘブライ文字と漢字の両方を参考にしてつくったのが片仮名と平仮名だったのではなかろうか。


日本では、対立や摩擦を繰り返しながらも、神道と仏教とが共存してきた。その対立の大元は、古代イスラエルの神道にルーツを持つ日本の伝統と、仏教を含む中国文化の影響との間の葛藤であったとは考えられないだろうか。ただし、伝統のルーツがイスラエルにあることは年月とともに忘れ去られ、あるいは故意に隠されてきた。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

ship

日本に古代ユダヤ人が渡来したのはいつで、どの程度の人数だったのであろうか。現代日本人のミトコンドリアDNAを分析したところ、先住民(縄文人)は東アジア系であり、渡来人(弥生人)の大部分も東アジア系だが、それとはまったく出自が異なるアフリカ・中東系のグループが10数%いる。これらの中東グループの渡来時期は、大きく分けると次の3通りが推測されている。

まず、紀元前7世紀頃、イスラエルから移住してきた初代の難民である。日本列島に大昔から居住していた古代人と合わせ、おぼろげながらも国家らしきものが日本のどこかに存在していたようだ。


集落


中国の最古の地理書「山海経」(紀元前43世紀)には中国の琅邪(山東省臨沂市付近)から東方3万里にある「君子の国」の記述が見られる。山東省から3万里というと約21,000Kmだから、概ね東日本のどこかではないか。たとえば、諏訪湖の南にある守屋山と今日の諏訪大社周辺には、初代の「君子の国」が存在していた可能性が高いといわれている。縄文時代の遺跡が多く発掘され、古代から守屋山を御神体とする祭祀が執り行われているほか、動物犠牲の伝承も引き継がれている。今日でもイスラエルからの駐日大使やユダヤ系ラビ(ユダヤ教宗教指導者)らが多数、諏訪大社を訪れて参拝しているが、このことは推測を裏付けるものだ。山海経が言う「君子の国」とは諏訪湖周辺に集落を形成していたイスラエルからの移住者集団を指していた可能性がある。

諏訪大社


山海経によると、君子の国は「衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、二体の飾りの虎をいつも傍らにおいている」「その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国もともに東方にある」とある。「二体の飾りの虎」とは日本の神社にある狛犬(こまいぬ)のようでもあり、「長寿でなかなか死なない」も日本人のことを指しているようにも思える。つまり、邪馬台国(西暦23世紀)が台頭する以前に、中国の歴史書に載るような「君子の国」が日本に存在していたということだ。

 

次に、紀元前1世紀~後3世紀(縄文時代中期~弥生時代)に大陸から渡来してきた集団。10代崇神天皇を中心とした征服者グループであったと考えられる。初代~9代の天皇は、実際には日本渡来の前の話であるというのが通説である。その後、崇神天皇一族が支配者階級になると、一夫多妻制により急速にその数が増えていき、九州から北海道南部まで広い範囲にわたって住みついた。天皇家一族は、イスラエル北の王国の出自であるエフライム族の末裔である可能性が高いといわれている。


三つ目として、西暦45世紀(古墳時代)に朝鮮半島から渡来してきた秦氏一族。日本書紀には弓月の君が3世紀末に朝鮮より渡来したのが秦氏の始まりと記されている。中央アジアには元来、弓月部族が居住する弓月国が存在し、景教(古代キリスト教の宗派の一つ)の一大拠点であったが、秦氏も景教の信奉者だったことから、弓月国の出身だったのではないか。秦氏は渡来人の中でも最大の豪族で、経済力があり、治水、土木、建築、養蚕、機械など多くの大陸の技術を日本に伝えた。


秦氏は大和朝廷に協力し、平安京の建設に大いに貢献した。

平安京

記録によると、秦氏は15代応神天皇のときに数千人、29代欽明天皇のときに7053戸、家族も含めると34万人いたとされ、当時の人口の10%前後に達していたという。当時の日本における秦氏の巨大な影響力が分かるというものだ。


秦氏は自らの氏寺の広隆寺だけでなく、全国各地に数多くの神社を建立した。とくに八幡神社は八幡様や八幡宮等を含めると全国に1万社以上存在する。広隆寺の境内近くには「伊佐良井」「いさら井」と石に彫られた古い井戸がある。この伊佐良井とは遠い故郷のイスラエルのことではなかったか。

いさらい


イスラエルの先祖のルーツを調査している国家組織「アミシャーブ」によると、秦氏は古代イスラエル・北の王国のマナセ族の末裔だという。マナセ族の子孫は中央アジアを経てチベットの姜族となり、その姜族の族長text-underline:none">姚萇384年、中国の後秦を建てたとされる。朝鮮半島を経て日本へ渡来した秦氏も、同じチベット系の姜族だった可能性が高いといわれている。秦氏の「はた」はヘブライ語でユダ族を意味する「イェフダ」のことだから、秦氏はユダ族であったと推論する人もいる。また、秦氏は秦の始皇帝の末裔であり(「新撰姓氏録」)、「目は青く西洋人のようであった」とされる秦の始皇帝も、イスラエルのルーツであったとの説もあるが、この辺りは定かではない。


秦氏の支族は主に苗字で見分けられる。秦、畑、畠、波田、波田、羽田、八田、半田、矢田、秦野、畠山、波多野、畑中、廣幡、八幡、服部、林、神保、宗、田村、島津、長田、小松、大蔵、高尾、高橋、原、井出、長曾我部、朝原、川勝、赤松、東儀、松下などの苗字は、秦氏の末裔である可能性が高い。


ちなみに、宮内庁は天皇家のDNA調査及び伊勢神宮や天皇家の墓などの証拠品調査の要請を拒絶しているという。この理由は、もしも天皇家がイスラエルにルーツを持つことが明らかになれば、イスラム圏であるアラブ地域などからの敵視など国際問題が起きるためではないかとも噂されている。


いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

sailing

琉球諸島にも、古代ユダヤ人たちが船による航海で上陸していた可能性が高いと言われている。少なくとも中国大陸と台湾と琉球諸島の間では、紀元前20世紀~紀元前10世紀にはすでに船の行き来が盛んに行われていた。ユダヤ人たちはなぜ東の島を目指したのか。それは旧約聖書にイザヤの預言として「海を渡った東方の島々にある、水があふれる山の上に、新しい神の都、エルサレムが造られ、民が喜び楽しむ長寿の国となる」とあったためだと考えられる。



アジア各地で立ち止まらず、中東から一目散に航海してきたとすると、琉球諸島に到着したのは、朝鮮半島を経由して来た集団が本土に到着した西暦1~3世紀よりもずっと早く、実に紀元前7世紀頃までさかのぼる可能性があるという。

 

まず台湾に一番近いのが与那国島。この名前は旧約聖書のヨナ書に由来している可能性がある。ヨナ書には、魚にのまれたヨナが一命を取りとめ、その後魚から吐き出されて陸地にたどり着いた話が記されている。

 

次にたどり着くのが八重山諸島だが、「ヤーエー(ヤハウェ)」はヘブライ語で神を意味する。そうなると八重山は「神の山」という意味だ。この「八重」という言葉は、日本語的には「八つ重なる」という意味しかないが、沖縄本島の八重岳や、那覇近郊の八重瀬町、八重島など、あちらこち

らに付けられている。沖縄県の最北端にある伊平屋(いへや)島もやはり「神(ヤハウェ)の島」と解釈できる。

 

さらに沖縄本島の那覇であるが、「ナハ」はヘブライ語で「安息、安住」を意味する。まさに「安住の地」と見込まれて名付けられた可能性がある。


また、沖縄とイスラエルの文化・風習は驚くほど似ている。沖縄には「看過(カンカー)」と呼ばれる厄払いの風習がある。生贄(いけにえ)として牛を屠ってその血をススキの穂や、桑の葉等の植物に浸して家の門口や四隅、村の入り口等に塗るというものだ。その牛はその日、焼いて皆で食された。「(災いを)見過ごす」という意味である。この風習はイスラエルの過越(すぎこし)の祭りとよく似ている。「過越」も「見過ごす」の意味だ。



過越の祭りは3千年以上も前から存在し、エジプトで奴隷にされたイスラエル民族が神によって選びだされた指導者モーセによってエジプトから脱出した出来事、つまり「出エジプト」を記念し喜び、神を礼拝する祭りである。過ぎ越祭の日の夕食には発酵していないパン、生贄を象徴する焼いた羊肉
、ゆで卵、緑の野菜、苦菜(エジプトで奴隷の境遇に落ちたユダヤ人が流した涙を表す)、果汁の練り物を食す。

過越祭


沖縄には羊がいないので、牛の生贄になったのではないだろうか。このような血なまぐさい生贄の儀式は、当初は本土の大和朝廷でも執り行われていたらしいが、次第に消えていったようだ。


沖縄では伝統的な行事がほとんど旧暦で行われ、イスラエルの暦と共通点が多い。114日は旧暦の大晦日、トゥシヌユル(年の夜)と呼ばれ、その日は夜に豚の血を切り干し大根に混ぜた血イリチー(山羊の血と肉や内臓などを一緒に炒めて煮たもの)を祭壇にお供えしてから食べ、夜明けまで起きていないと災いに合うと伝えられている。



血イリチー

そして翌15日に正月を迎え、ご馳走を供えて餅を食べ、祝日は七日間続く。イスラエルでもニサンの月(1月)の14日の夕方に生贄として動物を屠り、その血を家の二本の門柱につける。そして15日から種なしパンの祭りが始まり、餅に似ている発酵していないパンを七日間食べ続ける。古代イスラエルの過越祭りも七日間続いた。



そのほかにも、イスラエルの旧暦1月16日の初穂の祭り、33日の七週の祭り、625日のカシチー(復活祭)、715日の仮庵の祭り(沖縄では十五夜)と類似点が多い。豊穣祭など様々な祭礼や宗教儀式についても共通点が多い。



聖書の創世記と沖縄の人類発祥神話にも共通点がある。聖書には人類の祖先としてアダムとイブの話が記されているが、沖縄の離島、古宇離島でも裸の男女の子供が餅を食べて生活をし、その子孫から沖縄の人々が誕生したという言い伝えがある。



沖縄のニライカナイ信仰は、はるか遠い東の海の彼方に楽園があり、そこから沖縄の神はやってきたというものだ。「ニライカナイ」をヘブライ語で読むと「耕された畑の島を得て、長く住む」という意味になる。イスラエルの民も東の島々に約束の地があると信じて、東への旅を続けた。




いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:



紀元前8世紀、イスラエル北の王国からアッシリア(現・イラク)に連れ去られ、逃れて東方への旅に出た十部族の古代ユダヤ人たち。北の王国の首都がサマリアにあったことから、彼らはサマリア人とも呼ばれる。記録によると、その数は27,290人とされる。彼らの行方はあまりはっきりしていない。彼らは長い年月を経て、また現地の住民と雑婚し、次第にそのアイデンティティを失っていったのではないかと言われている。けれども、アジア各地にその痕跡が残っており、その中にはかなり確度の高い証拠が存在している。

 

まずアッシリア東方のアフガニスタンに定住した者がいたと考えられる。現在のパシュトゥーン人の中には、「失われた十部族」のうちエフライム族とマナセ族の末裔であるという伝承を持つ部族が今でもいる。

 

一部はイエメンを経由してアフリカのエチオピアに入ったとされる。なぜなら1948年のイスラエル建国後、エチオピアに住んでいたユダヤ人たちが相当数、イスラエルに移住した事実があるからだ。

 

一部は紀元前2世紀~西暦1世紀頃、アフガニスタンからさらに東に進み、インドのカシミール地方やインド東部に住み付いた可能性がある。カシミール地方にはモーセの墓と言われるものがある。またインド東部にはマナセ族の末裔と称する人々が住んでいる。




さらに北上して中国に定着したとみられる人々がいた。これにはかなり確たる証拠がある。中国南部(現・河南省)の開封には、数十年前までユダヤ人街が存在していた証拠があり、現在もその末裔と名乗る人々が6001000人程度暮らしている。また、中国の回族のうちかなりの部分は古代ユダヤ人の末裔がイスラム教に改宗したものではないかという説もある。中国の史書によると、前漢時代に訪れたユダヤ人は、割礼と呼ばれる宗教的な儀式を行うことから、「刀筋教民」と呼ばれていた。開封のほかにも、イスラエルにルーツを持つ集落が寧夏(現・甘粛省)など複数存在したことも知られている。



中国政府が1955年、開封のユダヤ系住民を調査した結果、彼らの「艾(アイ)」「石(シー)「高(ガオ、コウ)」「金(ジン)」「李(リー)」「張(チャン)」「趙(チャオ)」という名字は、明代(1417世紀)に皇帝から授けられたものであり、それらの名字はユダヤ人の氏族の名前である「エズラ」「シモン」「コヘン」「ジルベルト」「レヴィ」「ジョシュア」「ジョナサン」の発音に準じた漢語名であることが分かった。中国ではユダヤ人の存在が公に認知されているわけだ。

 

古代ユダヤ人の「失われた十部族」の行方を調査しているイスラエルの国家機関「アミシャーブ」によると、離散したイスラエルの末裔は、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー等に今も住んでいるという。

 

中国に入った古代ユダヤ人の末裔の一部は、さらに北上して朝鮮に達したらしい。続きは次回。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)