至高の存在への祈念によって、サマーディは完成する。

【YS 2:45】


クリヤー・ヨーガの第3番目は

第4の勧戒でもある

「イーシュヴァラ」への祈念です。


英語では ”Surrender to God”

などと訳されます。



第1番目のタパス

練習・実践により身体を整えるもの。


第2番目の自身の学習が、

言葉(マントラや古典)を通じて心を鎮めるもの。


ここまでは身体と心という日常の範囲でした。



「ヨーガ・スートラ」の考え方によれば

人間の知覚で理解できる範囲であるがゆえに、

身体や心は

「ドゥッカ」(=苦痛・苦しみや煩悩) の原因を作り出すものとされます。



それに対して、

第3番目の「イーシュヴァラ」は、

通常の人間の知覚を超えた存在、

人間の常識の範囲を超えた存在です。


”永遠の”

”変化しない”

"至高の”存在とされ、

「スカ」 (=幸せ、幸福、)の源です。



このサンスクリット語 「イーシュヴァラ」は、

「神」と訳されることが多いのです。


しかし、ヨーガの哲学でいう「神」は

キリスト教やイスラム教などの一神教の「神」とは違って、

世界を作ったといわれる創造神ではありません。


一神教の神は他者であり、

祈ることでお願いをするという面があります。


それに対してインド古代の神は、

瞑想によって到達するものであり、

外に他者として存在するのではなく

自分の中にあるものです。



ですから、

「イーシュヴァラ」とは特定の宗教の神をさすのではなく、

誰でも感じられる普遍的なものだと、

私の師匠は言われます。


自分の信じる宗教があれば、その神をイメージしても良いし、

無宗教の人は、お天道さまの恵を感謝するような気持ち

を思い出すのもよし、です。



これを私なりに解釈してみました。


大切なことは、

R・カーソンの言う「センス・オブ・ワンダー」、

またはR・シュタイナーのいう「畏敬の念」のように、

人間をはるかに超えるような叡智に触れた時に

畏れ・驚きといった新鮮な気持ちを保ちつつ、

子供のように感じる心を忘れない、


という表現に落ち着きます。



たとえば、

誰でもこんな体験があると思います。



沈みゆく夕陽の深い色合いをながめながら、

地球の大きさを感じる。


人の少ない季節はずれの海で、

波の音と一体になる。


かさこそと枯葉を踏みながら山中を歩き、

自分のまわりに、たくさんの生命がいると感じる。


・・・・・などなど


そんな時に 

どこからか感謝の気持ちが

湧きおこってくるのを感じたことはありませんか?



それが、「イーシュヴァラ」への祈念だと

私は理解しています。


ですから、ヒンズー教はおろか

特定の宗教を信じる必要はなく、

毎日の暮らしの中で、

人間である自分が全てをコントロールしているわけではない、

という自覚とともにうまれる

敬虔な気持ちさえ忘れないようにすれば、

誰にでも実践できるように思います。


ただそのためには立ち止まって、五感を働かせること

ものごとを自動操縦で行わず、

ひとつひとつ自覚を持って行うこと 

が 大切になってきます。



詳しくは → 【ヨーガ・スートラ】 INDEX