「なんっか、最近・・らしくないよね。」
南はまたも志藤と雑談中だった。
「あ?」
「八神。」
「また八神?」
ちょっと面倒くさそうに返事した。
「バカなことも言わなくなったしさ。 あんましゃべんないし。 いっつもつかれきった顔して。 『真尋番』のがよっぽど過酷なのに、その時はけっこうイキイキしてたのに。 今のが暗いよ、」
「誘ってみっか?」
ようやく南を見た。
「OK。」
彼女はニヤリと笑った。
「すんません、おれ早く帰りたいんですけど、」
八神は南に無理やり『新月』に連れてこられて、ものすごく迷惑そうだった。
「まあまあ、」
志藤もすでに来ていて無理やり座らされた。
コンクールまで1ヶ月を切って、麻由子はますますストイックにヴァイオリンに打ち込んでいる。
学校にも行かず、一日中あのスタジオで一人練習に励んで、気がつけば食事さえしてないこともあり彼女の身体が心配だった。
「あんまり面倒見ると、過保護になってしまうで。」
志藤はそれを見透かしてふっと笑う。
「え、」
「おまえが彼女のそばにいたって、勝負するのはあの子自身。 最後は自分との戦いやねん。」
「・・わかってます。 しかも、おれなんかたいした演奏家でもなかったし。 彼女にアドバイスなんかできないし。だけど、彼女に飯を作ってやったり、無理をさせないようにそばで見ていたり。 そのくらいはできますから。」
八神はうつむいてそう言った。
「結局、メシ係やん、」
南の無神経な言葉に、
「おい、」
志藤はさすがに彼女を小突いた。
「・・いえ。 その通りかもしれません。 でも・・それでもいいんです。」
八神は顔を上げて遠くを見るような目で言った。
『誰かが必死になってがんばてってるの見ると、放っておけないところあって』
南は美咲がそう言っていたことを思い出す。
健気やなあ。
ちょっとだけ八神がかわいく思えた。
美咲が八神のどこが好きかと聞かれて、うまく答えられなかった気持ちが少しわかる。
「真尋さんを見ていても同じです。 あの人のピアノが好きだから。 この音のためにおれは何でもしたいって。 おれは音楽が大好きで。 オーボエが大好きで。 これでお金稼いで暮らして行くのが夢でした。 だけど、そんなことできる人なんか、ほんの一握りなんだって。 自分はそれではないって。 わかったからやめたんです。だけど、『持ってる人』は・・・頑張らなきゃダメじゃないですか。 そのために力になりたいって思うのって間違ってるんですか?」
真剣なまなざしで八神はそう言った。
「うん・・まちがってへんで。」
志藤は優しい目でそう言った。
「おれも世界を股に掛けるピアニストになりたかったから。 超一流のオケと競演して。 もう世界中からオファーがきて。 ずうっとそう思ってやってきた。 だけど。 自分はそこにいる人間やないっておれもわかってしまったから。 ほんまに真尋見てるとな。 あ、おれ辞めてよかったって思えるもん、」
彼の言葉が
心地よく心に広がる。
「おまえがオケにいた時から一生懸命で。 まあ、正直・・・巧いとは言えへんかったけど。 ほんまに素直にそのキモチが伝わってくるかなって。 なかなかそういう人間っておらへんやん。 めっちゃかわいがられてスクスクとそのまんま育ったって感じで。 そういうとこがな、おれはいいかなって思って。」
「志藤さん、」
胸が熱くなった。
その時、八神の携帯が鳴る。
「あ・・ウン。 うん。 ・・・うん、わかった。 今行くから。」
短い会話を交わし、
「すみません。 おれ、帰ります。 ごちそうさまでした。」
八神は一方的にそう言って席を立ってしまった。
「おごるなんてひとことも言うてへんで~。」
南が小さな声で彼の背中に声をかけたが、全くそんなことは聞こえていないようだった。
志藤はふっと笑ってしまった。
「なんか・・・思うように、指が動かなくって・・。 ここの、細かいパッセージのトコ、」
麻由子はベソをかいていた。
「大丈夫。 ゆっくりやってごらん。 落ち着いて。」
八神は彼女の背中に手をやった。
スタジオは9時までと言われているが、麻由子はいつも深夜になってもそこを離れることができない。
いくら練習しても
不安が拭い去れないようだった。
そんな彼女を優しく言い聞かせて家まで送るのが毎日の仕事のようになってしまっていた。
父親は証券会社に勤務でロスに単身赴任中で、母親は輸入雑貨の会社を経営していて家にはほとんど戻らない。
ひとりぼっちの彼女の生活の面倒を全て見ていると言ってもいいくらい
八神は献身的に彼女に尽くした。
真尋の仕事について忙しく外回りをして、夜は麻由子につきっきりの生活が続く。
家に帰るのはいつも深夜1時を回っていた。
さすがに
疲れたなあ・・。
家に戻ると何もする気になれずぼんやりしてしまう。
お風呂に入り、缶ビールを1本飲む。
ちょっとゾクっと寒気がした。
もう8月なのに。
8月。
カレンダーを見やった。
コンクールはもうすぐだった。
あのコンクールは日本でもかなりのランクの演奏家たちが参加する。
一度
演奏家として挫折しかけた彼女には
本当は荷が重かったかもしれない。
だけど
あの子が立ち直るには
このハードルが必要なんだ。
そう信じていた。
八神は麻由子のコンクールのために必死に彼女を支えます・・