今日は。
先日新聞の文化面を読んでいたら、陽水がコンサートでアルバム「氷の世界」の全13曲を曲を愛でるように歌っていたとの紹介がありました。
やはり、ソングライターにとって、自作曲は子供と一緒なのでしょうか。
今回は、「私的 日本フォーク伝 」のPart2です。
Patr1に続いて、60年代終わりから70年代について書きたいと思います。
ここでは、まず、僕のコンサート体験について書きます。
<本田路津>
最初にコンサートに行ったのは、中学生の時に、本田路津子か赤い鳥だったと思います。
本田路津子がステージで石川鷹彦とギター2本で歌った曲が強烈でした。
ギターを少々弾き始めた僕には、二人のフィンガーピッキングに釘づけ。
日本を代表するギタリストである石川鷹彦はもちろんですが、その頃はそんなことはしりませんでしたが、本田路津子もめちゃめちゃうまかったです。
後年、ラジオの番組か何かで、吉田拓郎が、本田が女性なのにあまりにギターがうますぎ、男性のフォークミュージシャンが、嫉妬のあまり彼女を嫌ったというのを聞いところがあります。
暫く彼女に魅せられ、シングル「秋でもないのに」「風が運ぶもの」や、アルバム「秋でもないのに」「家路」を聞きまくりました。
アルバムの中の1曲「一人の手」についてはエッセイ「伝説的シンガー・ソングライター『ピート シーガー』」
で以前に書きました。
彼女もカレッジフォークに入るのでしょう。
<赤い鳥>
メンバーは後藤悦治郎(ギター)、平山泰代(ピアノ)、山本俊彦(ギター)、新居潤子(その後、山本と結婚し、山本潤子)(ボーカル、ギター)、大川茂(ベース)の5名。
バンドとしても素晴らしい演奏だったし、メンバーの5名ともボーカルがとれるグループでした。
このエッセイを書くのにウイキペディアを見てびっくり。
後期には、ギターで大村憲司(ギター。1972年2月から1973年4月)、ドラムで村上秀一(ポンタ、1972年6月から1973年4月)、渡辺俊幸(1973年4月から)を加わるとありました。
僕が聞いた年からいって、恐らく、大村・村上が入った状態で聞いていたと思います。
それは素晴らしい演奏だったのも、今から考えても納得がいきます。
でも、大村やポンタが入ったグル―プを何の疑問も抱かず、このグループをフォークに範疇にいれていました。
やはり、「竹田の子守唄」のような曲を演奏していたからでしょうか。
この曲も民謡ですが、彼らの代表曲の一つでした。
「翼をください」。コーラスと演奏にも圧倒されました。
これが、後で、サッカー日本代表の応援ソングになったのは面白いですね。
でもこのグル―プには、プロの作曲家(村井邦彦ら)が作った曲を歌っていて、彼らが作詞・作曲したものは、あまり覚えていません。
そういう意味では、フォーク系の特徴の一つの自ら作品をつくるという特徴を兼ね備えていなかったような気がする。
反面演奏面は、半端なく、もともと、この赤い鳥は、コンテスト入賞の常連だったし、コンテテストのライバルだったチューリップの財津がとてもかなわなかったと言っているのを覚えています。
このグループのコーラスの素晴らしさを証明するかのように、このグループは、その後、「紙風船」と「ハイ・ファイ・セット」の二つのグループに分かれます。
「紙風船」は「冬が来るまでに」をヒットさせていますし、ハイ・ファイ・セットはユーミンの「卒業写真」「冷たい雨」や「フィーリング」などをヒットさせて存在感がありました。
二つのグループは片方は、純粋フォーク系ですし、片方はニューミュジックやジャズ系ですので、求める音楽が違うので分かれたも理解できます。
中学生の時にコンサートに行ったのは上の二つだったと思います。
<はしだのりひことシューベルツ>
その頃、流行っていたグループがいくつかあります。
はしだのりひことシューベルツ。
フォークル解散後にはしだのりひこが作った4人組のグループです。
代表曲はやはり「風」と「さすらい人の子守唄」でしょう。
僕と僕の兄はこのグループをかなり気に入っていたのでしょう。
なけなしの小遣いでアルバム「未完成」を買ってしまいました。
このアルバム、2曲目の「日本の旅」のようなフォークぽい曲もあれば、「ア・ボーイズ・ライカ・ガール」のようなポップな曲もありました。
このシューベルツのシングル「朝陽の前に」も印象に残るレコードです。
杉田二郎が最初に作った曲と聞いています。
確か4人が上半身裸で映っているジャケットでした。
このグループは、人気のベーシストの井上博の急死により解散してしまいました。
その後にはしだのりひこが結成したグル―プが「はしだのりひことクライマックス」です。
「花嫁」が大ヒットしました。
杉田二郎は再び「ジロース」を結成して、「戦争知らない子供達」(北山修作詞 杉田二郎作曲)をヒットさせました。
F→F#→Gをタタッタと刻むイントロが印象的でした。
僕の通った中学には、週一回「音楽朝礼」というのがあって、色々な歌を全校生等で歌っていました。
それこそ、「聖者が町にやってくる」から歌謡曲まで。
そこで、僕は友人から誘われてグループを組んで、この曲を伴奏したのを覚えています。
ところで、僕らの中学校だけだったのでしょうか、「音楽朝礼」なんてあったのは。
この頃、そういえば、僕の好きだった娘が佐藤公彦 通称「ケメ」に入れ込んでまして。
彼女ばかりでなく、多くの女の子はケメの歌というより、ルックスにやられていました。
トワ・エ・モア。「ある日突然」のヒットがあります。
このグループについては、以前「札幌オリンピック
」で触れました。
カルメンマキ「時には母のない子のように」(69年)も流行りましたね、
これもフォークかな?
ベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」(69年)や五つの赤い風船の「遠い世界に」(69年)もありました。
そうそう加藤登紀子が森繁久彌が作詞・作曲した「知床旅情」(71年)をヒットさせていました。
いけない、今回も拓郎や陽水にたどり着きませんでした。