今日は。
ソチでは相変わらず、熱くて素晴らしい戦いが続いていますね。
真央ちゃん、メダルこそとれませんでしたが、最後まで頑張りましたね。
今日は、今まであまり書かなかったテーマで、フォークソングの伝説の人についてです。
1月27日にアメリカの「伝説的シンガーソングライター」ピート シーガ―死去のニュースが入りました。
フォーク歌手の小室等は、2月13日の読売新聞夕刊のコラムでシーガ―のことを「アメリカの良心」と表していました。
また、ボブ・ディランは「生きる聖人」とP.シーガ―のことを呼んでいます。
小室等の解説によると、「アメリカのフォークソング復興運動の祖、ウディ・ガスりーの意を引き継ぎ、
シーガ―は1950年代に創設したグループ『ウィバーズ』で「おやすみアイリーン」他の、数々のヒット曲を生み出し、その後のフォーク・ムーブメントに火を点ける。
ウィバーズ解散後も公民権運動や反戦運動などに、身を投じながら、常にアメリカのフォーク界を牽引し続けてきた。」
とあります。
僕がP.シーガ―という名前を聞いたのは、「一人の手」という曲の作者としてのクレジットが最初でした。
おっちょこちょいの僕は「シーガ―」という名前を最初「シンガー」と間違えて覚え、すごい名前だと感激していました。
中学二年生の時でした。その曲は当時好きだったフォークシンガー本田路津子の「秋でもないのに」というアルバムにはいっていました。
「小さな手」
一人の小さな手
なにもできないけど
それでも みんながみんなが集まれば
何かできる
何かできる
という日本語の詩になっていました。
何か中二の僕には強く打たれるものがあり、当時のテニス部の顧問の数学の先生にこの詩を熱く語ったのを覚えています。、
このLPアルバムは現在手元にないのですが、おそらく訳詩は本渡路津子さん自身だったと思います。
その次にP.シーガ―という名前に興味を持ったのは、ウッディ ガスりーとともに、ボブ・ディランに影響を与えたというということからでした。
ディランに影響を与えたシンガーソングライターってどんな人だろうというような興味からでした。
実は、ここでP.シーガーについて書いていますが、今まではそんな程度でした。
今回の訃報を聞いて、びっくりしたのは、P.シーガは「花はどこへ行った」「天使のハンマー」の作者だということを報道等で知ったことです。
中学の時、ピータ― ポール & マリー(みなさんPPMと呼んでいます)の演奏でこの両曲ともよく聞いていました。
特に「花はどこへ行った」は当時人気のあったフォークグループの「キングストントリオ」「ブラザーズ フォー」など多くのグループで歌われていました。
とても好きな曲だったのですが、作者を全然意識していませんでした。
もともと僕は、割と作者とかプロデュ―サーには注意をはらう方なのですが、なぜかこの歌には注意を払っていませんでした。
今から思うととても不思議です。
それほど、ある意味逆説的になるかもしれませんが、歌に力があり、作者など関係ないというような感じだったのかもしれません。
この訃報が入った時、僕はちょうどポール ゾロ著の「インスピレーションー世界的ヒットソングはどこから生まれてきたのか?」という本を読んでいました。
これはボブ・ディラン ブライアン・ウイルソンといった20人の著名なシンガーソングライターのインタビュー集で、その冒頭をP.シガーが飾っていました。
この人を飛ばして、ディランやウイルソンを読んでいたので、あわててP.シーガ―に戻りました。
その中で、「天使のハンマー」についてのP.シーガ―の発言にははっとしました。
「1949年1月 リーヘイズ(この曲の共作者)が4節のヴァースを送ってきて、『これで曲ができるか、やってみてくれ」いうんだ。そこでピアノの前に座り、ひねり出した。
決して悪い曲ではないが、その後に作り替えられた曲ほどは良くなかった、というのが大方の意見だろう。
ピーター ポール & マリーが私の曲を書きかえたんだ。少なくとも30~40%は変わっている。・・・」
PPMが曲を変えているんだ。フォークソングは変化しているんだ、と
その後のインタビューの中でも、「・・・普通、曲というのは歌っていくうちに細かな部分を削除していくもんなんのなんだ。私はフォークのプロセスを大事にしている。
つまり何年もかかって曲は良くなっていくものだ」と発言しています。
何かフォークソングの神髄をみたような気がしました。