開戦の経緯(概略)-① | 大神回天基地ブログ

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太平洋戦争末期に出現した特攻隊。大分県日出町にあった人間魚雷「回天」の訓練基地・大神基地の歴史や基地設備及び「回天」の開発経緯・構造・作戦内容(神潮特別攻撃隊)を紹介します。また大神基地に関連した空母「海鷹」等の艦艇や使用武器について紹介もしていきます。

満州事変-仏印進駐

 1931年に陸軍の独断によって始まった満州事変以降、日本は昭和恐慌世界恐慌から立ち直るために満州国を建国し、「日満支経済ブロック」を構築しようと画策しました。


(奉天に入城する日本軍・Wikipediaより)


(満州国皇帝溥儀・Wikipediaより)

 この事変から英米仏は日本による中国平定を警戒していましたが、1937年(昭和12年)7月7日に中国における勢力拡大を意図とした日中戦争(支那事変)が勃発すると、日本の関係は急速に悪化しました。

 アメリカ合衆国は対抗処置として航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限し、日本の締め上げを図りました。

 その中国では中国共産党によるゲリラ戦により泥沼化するようになり、中国国民党による地道なプロパガンダ戦術の展開により、欧米の世論を味方につけることに成功しました。
 長引く一連の日本軍の軍事行動に対して厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国々は中国からの撤兵を日本に求めてきたのです。

 日本は外交関係悪化によるブロック外部からの物資調達に困難をきたすと、ブロック内部で必要な物資を自給自足するために東南アジアから欧米勢力を排除し、自らのブロックへと編入する大東亜共栄圏構想へとさらに発展させることによって日本が持つ経済ブロックの弱点を克服することを目指すようになりました。

 日本は、ヨーロッパにおいて大きく勢力を伸ばしていたドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結します。

 そして、1940年9月には中華民国の蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助ルート、いわゆる「援蒋ルート」を遮断する目的で、ナチス・ドイツの傀儡政権だったヴィシーフランスとの合意のもと北部仏領インドシナへ進駐。
 その後、1941年7月には資源事態を打開しようと南部にも進駐しました。

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次回は「開戦の経緯-②」です。
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