『山路を登りながらこう考えた。
智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると安いところへ引き越したくなる。
何処へ越しても住みにくいと悟った時
詩が生まれて、画ができる。』
皆様こんばんは~♪
バスガイドの頃、案内していた「草枕」の冒頭を
何気におぼえていたことに
ビックリしているりぃです♪(ノ゚ο゚)ノ
ご~るでんな、うぃ~~~くも終わって・・・・
ヤル気スイッチがどこ行ったかわからん(-"-;A
今日はお仕事だったワタクシですが・・・・
なんともヤル気の出ない一日でございました。。。。(;´Д`)
でも夕暮れはきれいで
昨日は日暈(ひがさ)を見て
今日は幻日(げんじつ)を見て・・・・・・
肥後の夕暮れは
見飽きることがありませんなぁ~~~ヾ( ´ー`)
さてさて・・・
ワタクシの記念館めぐりも
6か所目。
最近は記念館探訪ブログみたいになってる気がするのですが
まぁいいかっ(笑)
おっと!!Σ(゚д゚;)
今日も長いです~~
お忙しいアナタは
だだ~~~~~っと見てねん~(´0ノ`*)
先日、ジェーンズ邸
に行ったときに
漱石先生の旧居をちょこっと紹介したのですが
今回は熊本城の北側、内坪井(うちつぼい)にある
漱石先生熊本滞在中5番目に住んだ家。
こちらが記念館になっています。
洋風の建物が印象的ですが
漱石が住んでいたころにはこの左側部分の洋館はなく、
その後に住んだ家主が増築したそうです。
今では増築部分も含めて記念館になっています。(^-^)
玄関の表札は「夏目金之助」
明治の文豪、夏目漱石は
本名を金之助といい、慶応3年(1867年)
東京に生まれました。
幼少時代には、里子、養子と度重なる境遇の変化があったそうで、
漱石の性格形成に大きく影響したといわれます。
明治22年(1889年)正岡子規らと知り合い、
子規の詩文集の批評に
初めて「漱石」の号を用いました。
東京帝国大学英文科を卒業し、
東京高等師範学校、愛媛県松山の尋常中学校に勤務した後、
明治29年(1896年)4月13日
第五高等学校の英語教師として熊本にやって来ました。
熊本では先日、ワタクシが電車に見とれてしまった←(;^_^A
上熊本駅に降り立ち
ここから小高い丘を通って熊本市内に向かったそうで
高台から見る熊本の町は
緑が多く
熊本を「森の都」と呼んだのは漱石が始まりだと伝えられます。
以来、4年3か月の間、熊本で教鞭をとった漱石先生。
その間、6回も引っ越しをしたそうで!
「引っ越し魔」という呼び名も生まれたのでしょうか・・・・。
こんだけちょくちょく引っ越すならばモノが増えずに良いかも♪(*^o^*)
↑物が増えすぎたりぃのひとり言(笑)
↑この家が現在ジェーンズ邸のお隣に移築されています。↓
今回訪ねたのが5番目の家。
漱石夫人が
「熊本に居た間で、一番良い家だった」と語っています。
漱石が暮らした家が当時の場所に残り、
記念館として公開されているのは
全国でもこの旧居だけです。
昭和53年4月25日に
熊本市指定史跡になりました。
中に入ると貴重な資料が展示されています。
広いお屋敷は敷地が435坪、建物が70坪。。。。
↓懐かしいでしょう?コレ、、トイレの扉の鍵!!
ここで居合わせた、お客様から
街中なのに森林浴気分♪
秋のお庭も見事でしょうね♪(^-^)
熊本市中心部まで、歩いても15分くらい・・・・
と考えると
豪邸じゃないかっ!Σ(・ω・;|||!宝くじでも当たらないと買えませんね・・・・・(;^_^A
お座敷では漱石先生、猫と一緒に執筆中~~♪(‐^▽^‐)
↓懐かしいでしょう?コレ、、トイレの扉の鍵!!
ここで居合わせた、お客様から
「写真を撮っていただけますか(^-^)?」と話しかけられ
「はい!お庭をバックで良いですか(‐^▽^‐)??」
上品なご婦人。
愛知県豊田市からお越しの方でした。
しばらく座って色々とお話ししました。
女性も1人で私も1人。
御主人のご実家が菊池にあるそうで、
滞在中ご主人は用事でお出かけで
奥様は一人でのんびり熊本の史跡めぐりされているそう・・。
この後は県立美術館へピカソ展を見に行かれました♪
史跡めぐりで出会う人は、みんな歴史好きの方ばかり。
お話しするのは楽しくて大好きです(°∀°)b
1時間ぐらい見学していました。
お庭も見事なので
外に出てみますね♪
夫人がこの家で出産した時に産湯に使ったといわれる井戸。
街中なのに森林浴気分♪
住みたくなるような素敵な家☆
第五高等学校に勤めながらも
「教師を辞めて単に文学的の生活を送りたきなり換言すれば、
文学三昧にて消光したきなり」と、正岡子規への手紙にしたためるなど、
文学者としての道を考えていた漱石。
教鞭をとる傍ら
俳句の指導者として五高生たちと近代俳句の会を結成しました。
明治33年文部省の命により英語研究のため
2年間英国に留学することが決まり
漱石の熊本での暮らしが終わりました。
明治38年、高浜虚子の勧めで処女作
「吾輩は猫である」を著し、
その後、「坊ちゃん」「草枕」など
今もたくさんの人々に親しまれている秀作を発表しました。
これらの作品をきっかけに
朝日新聞社から熱烈な誘いがあり
文学一本で暮らしたいと思っていた漱石は
明治40年4月、教職を退き、同社に入社しました。
その後、「三四郎」「それから」「門」「こころ」「道草」など
次々と作品を発表し、国民的作家となったのです。
明治と共に生きた漱石は
大正5年(1916年)12月9日49歳の若さでこの世を去りました。
秋のお庭も見事でしょうね♪(^-^)
記念館めぐり。
6か所目も
来て良かった♪
ちょっぴり文学に触れたひとときに感謝。
おまけ・・・・・昨日の夕暮れ。。。
煙突に刺さる夕陽にリベンジ!!!!
おしまい。。