そうだ!記念館へ行ってみよう♪ぱーと4 | 、、、りぃの、、「ケッカオーライ」

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日々の何気ない出来事をの~~んびり書きとめてます。。
一年中熊本城を中心に
熊本市の史跡巡りをしています♪
冬は、ひっそりフィギュアスケートファン。。






皆様こんばんは~~♪


今日は午後から出張で帰りが少し遅くなったのですが


帰宅途中にきれいな夕陽が見えたので


疲れも吹き飛んだりぃです(°∀°)b


遅くなったついでに


お散歩道で夕陽見物♪


これくらいの暮れ具合で

何時くらいだと思いますか???


18時30分です♪


九州でも西側のこのあたりは日没の時間が遅いんです。


多分関東と比べると30分くらい違うのかな???


夕陽の右下に環境工場の煙突がみえたので


う~ん少し移動すれば


あの煙突の上に夕陽が乗っかって


ろうそくみたいに見えるんじゃないかな・・・・・と思い・・・


ウロウロ・・・(笑)



5分ぐらい歩き回ってこの辺かも!!!


と思ってカメラを向けたら・・・・・・



ちと・・・遅かったっ(笑)


でも・・・なんか幻想的♪(*゜▽゜ノノ゛☆







あ!!!タイトル!!!いきますね~(;^_^A





記念館めぐりも4か所目の記事になるんだなぁ~。。(°∀°)b


最近のワタクシの行動力っ!!


自分で自分を褒めてあげたい(*^o^*)かも・・・。






さて、4/26(土)までに訪ねた記念館が3か所。



4/27(日)に4か所目を訪ねました♪




「そうだ!!記念館へ行ってみよう~♪」




今回紹介するのはコチラ↓


熊本県指定重要文化財


「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」



次女と2人で行ったのですが。。。(^-^)



こちらも館長さんがとても親切に案内してくださいました(^-^)


長崎のグラバー園の一番上にある

ドッグハウスを思い出す造り♪(°∀°)b ↓


↑これは2011年7月に長崎に行ったときに撮りました♪








あ!!!


今回は、これまでで

一番長くなりそうなので

お忙しいアナタは

だだ~~~~っと見てねん♪(;^_^A









この建物は、明治4年10月に建てられた

熊本では一番古い西洋建築物で、

熊本洋学校に教師として招かれた

リロイ・ランシング・ジェーンズが家族と共に住んだ邸宅です。


室内をご覧いただきながら

このお宅にまつわるお話を書きますね☆


熊本には、江戸時代の終わりから明治にかけて

活躍した日本人がいるのですが

その代表が横井小楠(よこいしょうなん)です。

小楠は、福井(越前)の藩主、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に招かれ

新しい日本を築くために越前や、江戸で多くの人を指導しました。


現在、熊本市と福井市が姉妹都市となっているのも

このことがきっかけなのかもしれませんね。


この小楠の甥にあたる横井太平(よこいたいへい)が

明治2年に勉強していたアメリカから帰国し、

当時の熊本藩知事、細川護久(ほそかわもりひさ)に

洋学校を作ることを勧めました。


護久は熊本の若者たちに

外国の文化を取り入れた,新たな学問を学ぶことで

新しい日本を作ることに役立つ人物を育てようと、

「熊本洋学校」を設立しました。

そこに教師としてやって来たのがジェーンズです。



当時、10歳から15歳までの500名の若者がこの洋学校への入学を希望しましたが

試験を受けて入学できたのはわずか46名でした。

すごい倍率・・・・・。∑(゚Д゚)




ジェーンズが熊本にいた5年間に200名の生徒が

洋学校に通いました。



授業はすべて英語で行われたため

生まれて初めて会った外国人が英語のみで話をする様子に

当時の生徒は大変な苦労をしたと言われ、

自主学習や、班別学習など

学習方法を工夫し、努力をすることで、

目を見張るほどの学力を身につけて行きました。


毎日成績順に机を並べ替えられたそうで、

毎日が試験のような感じだったのかな・・・・。(゚_゚i)



横井小楠の娘、みや子、また、徳富蘇峰(とくとみそほう)の姉初子も

ここで男子に混じって学びました。



洋学校開設から3年ほど経った頃から

ジェーンズは自宅でキリスト教の聖書研究会を始めました。

生徒の中からも、熱心なキリスト教信者ができ、

明治9年1月30日に、信者たちは

現在の熊本駅の近くにある花岡山に集まり

そこで讃美歌を歌い、

聖書を読んだ後に

「奉教趣意書」を読み上げ

これに自分の名前を書き入れました。


ちなみに花岡山とは、JR熊本駅の近くにある小高い山で

昨年ワタクシが入院していた病室から

写真を撮っていました↓

見えにくいのですが↓あの白い仏舎利塔が見える山が、花岡山です



この時代、キリスト教は「耶蘇教」と言われ

迫害されることも多く、

熱心な信者の存在が世に知れ渡ったため

熊本洋学校は明治9年7月の卒業式を最後に

閉校となったのです。



ジェーンズは、洋学校の教え子たちに

京都に開校した「同志社英学校」へ行くことを勧めました。

同志社は、新島襄(にいじまじょう)がアメリカから帰国して開いた学校です。

このお話は

「八重の桜」に出てきましたよね。。


同志社の生徒たちは

片田舎の熊本からやって来た

肥後弁で話しながらも

英語が堪能な若者たちに驚き

このジェーンズの教え子たちを

「熊本から来た集団」という意味で

熊本バンド 」と呼ぶようになりました。



ジェーンズは、長い鎖国時代による封建制が

日本にもたらした弊害を取り除くことにも

尽力したといわれ


熊本の野菜は種類が少ないからと

栄養価の高いキャベツやカリフラワー、レタスなどの野菜の種を取り寄せ

栽培して熊本に広めました。


現在の熊本は野菜の栽培が盛んで、出荷量も多いのですが

その歴史をたどると・・・

ジェーンズの功績があったのですね!!!


また、牛肉と野菜入りのシチューを洋学校の生徒にふるまい、

熊本の人に、牛乳や、パン、牛肉を食べる

きっかけを作ってくれた人です。

なんだかワタクシのお仕事にも通じるものがあるのねっ!(^-^)



また、ジェーンズがアメリカから取り寄せた印刷機が

九州で2番目となった白川新聞の発行に活躍したり、

農業で鍬を使う人々に

牛や馬に引かせる鍬を取り寄せ、家畜を使い

効率よく農業を行う技術の指導も行いました。


熊本に大きな影響を与えたジェーンズが熊本を去ったのは

明治9年10月7日。


直後の10月24日には「神風連の乱」が起こり、

その後明治10年2月には「西南戦争」が勃発しました。



ジェーンズ邸は

「日本赤十字発祥の地」としても有名です。


現在は水前寺に移築されているジェーンズ邸ですが

明治10年当時は

熊本城の西側、古城にあったため、

西南戦争が始まると古城にも砲弾が落下し

火の手があがりました。

幸い、この邸宅は戦火を免れ、

明治10年4月14日、

熊本城の包囲が解けると、

征討大総督、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)

も熊本城に入城され

この建物が御宿所に充てられました。




ちょうどそのころ、西南戦争による負傷者の悲惨な状況をみて

敵味方に関係なく救済を考えていた

元老院議官、佐野常民(さのつねたみ)は

この邸宅で有栖川宮にその許しを願い出ました。

明治10年5月3日に許可がおり、

早速「博愛社」を設立、

西南の役で負傷した、官軍、薩軍の区別なく

治療と、救護が開始されました。


これが「日本赤十字社」の前身となり

この建物は

「日本赤十字発祥の地」となりました



熊本城の近くに建てられたジェーンズ邸は


その後、何度も移築され

昭和45年10月に現在地(水前寺公園近く)に

移築復元され記念館として公開されています。









次女撮影↓(^-^)

熊本洋学校教師館ジェーンズ邸


所在地 熊本市中央区水前寺公園22-16

入館料 高校生以上200円 小中学生100円

駐車場は10台ほど可能ですが

駐車場までの道は狭く、幼稚園の前を通るので

気をつけて通行してくださいね☆


開館時間 9:30~16:30

休館日 月曜日(祝日の場合翌日)・12/29~1/3





ここにはもう一つ、

夏目漱石第3の旧居(大江の家を移築)

があります。

中は見学できないのですが



外から見ることはできます。









引っ越し魔だったと言われる夏目漱石は

熊本滞在中に6回の引っ越しをしました。



漱石については

次回、漱石記念館を訪ねたときにまた紹介しますね♪(^-^)




長くなっちゃった・・・・。



「そうだ!記念館へ行ってみよう!!」




4か所目も来て良かった♪




歴史豊かなふるさとに感謝。




おしまい。。