いろいろお話させてもらいました日本画家:西田壽夫 氏。
日本画家といえども、いろんなジャンルの絵を描いていらっしゃいます。
それこそ音楽でいったら、能楽もジャズもロックもやります、みたいな(笑)。
いろいろな表現は、わたしたちの音楽でも目標としているところ。
たくさん見せてもらいましたが、どれもそれぞれの雰囲気が大切にされていて、すばらしい。
(名刺の画像のみで、申し訳ないです↓)
今でこそ、先に紹介した福西氏の和紙を買って、絵を描けるくらいに成長したらしい(笑)のですが、
なんと!
墨と○○の「裏紙」を使って、絵を描いていました。
現在も、描いています。
やっぱ、道具ではないのだなぁと…。
道具「だけ」ではない、かな。
写真だとしたら、
一眼レフでも普通のカメラでも、素晴らしい写真を撮る人はいるわけで、
やはり「センス」であり、「想い」というか「人」が表現されるひとつです。
もちろん、自分の想う写真を撮るのに、それに対応できる機材を使うのは大事なひとつです。
例えば、後ろの背景をぼかしたいなぁというときは、(今のカメラはポートレート機能もあるけれど)
レンズの露出を開放に近づけて、目で確認しながらボケ具合を設定します。
そのボケ具合も、レンズの開放値がいい(高い? )ものでも、レンズによっても違うわけです。
(少しやった程度なんで、偉そうには言えないのですが・爆)
ちなみに、開放値がいいってのは、明るく撮れるレンズのことでもあります。
夜とかでも、光がたくさん入れられるというか。(だから高価!笑)
けど、光が多いとシラッチャケル写真になるから、シャッター速度との関係で調整します。
そういう細かなことができるカメラは全部ではありませんから、機材も大事と考えます。
ていうか、西田氏は○○を使いこなしている、ということかもな。
昔は、紙が買えなくて○○を使うしかなかったのもあるかもだけど。
その素材が、自分の想う表現に適しているから、使うのだろう。
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あと、
自分の表現というよりは、むしろ「他者」を表現する「肖像画」も書いてらっしゃるのですが、
参考の写真だけでなく、遺族のエピソードを含めて、仕上げてゆくそうです。
例えば、写真の目がボヤッとしているようなのが気になったら、
いつもこういう目なのかとか、なんでかを遺族に聞いてみる。
疲れてるときと判明したら、元気なときの目の写真を持ってきてもらって、部分を取り入れたり。
イメージだけではない。
そりゃ、その「画家」の考えというか技術というか、すべてひっくるめて「出る」表現だろうけど、
ダイレクトに「クライアント」と「肖像画という対象」がある「責任感」はまた違う。
できる限り、対象の「最高」なところを凝縮して、「あるがまま」を伝えてゆく、残してゆくこと。
(ちょっと矛盾した言葉かもしれませんが)
古典の修復も、やってるうちに違う線(絵)が出たりすれば、
時代や、文献もそうだし、どうしてなのか調査して仕上げて行くそうです。
今回、いろんな先生方に混じってお話を聞いていたんですが(ワタシ場違い? 笑)、
国宝の表具とかの修正でも、紙がキレイすぎてもダメらしくて。
雑なもののが、ピッタリ合う場合あるらしいし、ホント適材適所というか、いろいろだなって。
話は逸れるようですが、伝統モノに感動するのは、
もとの想いを受け継いで、伝えてゆこうとしている人たちの想いが感じられるからかもしれない。
実際、時代とともに、形が変わるものもあるだろうし、近い形で残るかもだし、
いろんな歴史があるわけですが、こうやって伝わってきたということ。
あー!まとまらないですが、やっぱ「人」だな。
「人」から「「人」へ。
「人」と「人」。
ご縁に感謝。この一言に尽きる(笑)。