フォークゲリラを知ってるかい? その5 | AFTER THE GOLD RUSH

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とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

1969年5月24日新宿駅西口地下広場

5月17日の警察・機動隊による“歌声弾圧ショー”は効果絶大だった。取締りではなく、フォーク・ゲリラの宣伝という意味で。新宿駅西口地下広場で、(せいぜい3、5百人規模で)細々と行われていたヤング・べ平連のフォーク集会は、国家権力の弾圧により、一躍日本中にその存在を知られることとなったのである。皮肉なことに機動隊の出動が、彼らへの関心を爆発的に高めてしまったのだ。そして、「土曜ショー」もしくは、「土曜波」とマスコミに名付けられたこの集会は、量的にも質的にも大きく変化していく。

 

●1969年5月24日(土)
弾圧されても、ゲリラは、“戦場”に戻ってくる。午後6時、西口地下広場に現れたヤング・べ平連のギタリスト達は、千人以上の人波に迎えられた。その時の様子を、ゲリラは次のように書いている。

 

「いつも歌っている柱の近くは、人垣でギッシリ埋まっている。かきわけかきわけ、やっとたどり着いた輪の中心には、すでにギターを持った若者が数人。嬉しさと戸惑いの入り混じった表情で、ギターをかきならしていた。ことの起こりは、あるグループがカンパをしようとして、制止した警官と押し問答になったことだという。一度排除に来た警官を追い返して、人の輪ができ、それから歌い始めたのだそうだ。そのうちに、輪の中央が座り、その後ろが座り、ついに西口広場の一角で座り込みの大集会が始まってしまった。立っている人や階段の上から見ている人も合わせたら、どのくらいの人数なのか見当もつかない。さまざまな歌ごえが大合唱となって西口広場を流れる。日大全共闘の人の挨拶。芸術関係らしい男の人が「こういうような形で、音楽が街頭に出て来ている姿に、非常に感激する」という意味のことを話す。「西口広場を解放するぞ!」というシュプレヒコールが、何度も叫ばれる。機動隊の影も形も見えないまま、ものすごい暑さとカメラのフラッシュの中で、数千人の大集会は8時過ぎまで続けられた。文字通り、ジツリョクでカチトラれてしまったのだ。」(*1)

Folk Guerrilla
この夜のフォークソング集会は一種の抗議集会になった。全共闘系学生も多数参加し、“合唱隊”は、これまでで最高の3千人にふくれあがった。そして、そのほとんどが、機動隊出動のニュースをきいてやってきたという新顔だった。当時、深作光貞氏(元京都精華短期大学学長)が、「フォークソングを機動隊出して排除するのはあまりひどいじゃないか、という印象を一般の人に与えて、むしろ火に油を注ぐ結果になった。2、3百人の合唱なんて、たいして広場の交通の妨害にもならなかったのにね。警察もバカなことをしたもんです」と雑誌のインタビューに答えているが、まさにその通りで、弾圧が逆効果になってしまったのだ。

 

そして、圧倒的な量の変化は、歌の内容をも変えていった。「友よ」「We Shall Overcome」「栄ちゃんのバラード」「イムジン河」といったゲリラお得意のレパートリーの合間に、「インターナショナル」や「ワルシャワ労働歌」などの革命歌が入るようになったのだ。それは、ゲリラ側からではなく、西口広場に集まった “合唱隊”の一部が歌い出したものだった。多分、全共闘系の学生だろう。しかし、ゲリラ自身も、その流れに前のめりに突き進んでいった。朝日ジャーナルは、この質的変化を危惧し、次のような記事を書いている。

 

「『インター』は、運動の内側にある者の、“確認”の歌であって、権力や民衆に対する、“触発”の歌ではない。(中略)急ぎ足は若者の歩調だが、もっとゆったりと構えてもよいのではないか。たしかに、その夜の群衆の大部分は、学園のバリケードからはせ参じ、あるいは追われた若者たちであったろう。けれども、日頃はすすんで『インター』を歌う機会をもたないBGやホワイトカラーがそこにいたことも事実である。そこに広場の意義があった。権力にたいして打ち立てられた学園のバリケードが、ともすれば民衆とのコミュニケーションをさまたげたのは事実である。ここには、それがなかった。かれらは密室で歌っていたのではなかった。しかもバリケードなくして3千の人間が集まり、反権力の声を歌いあげたときに、機動隊は再度の介入をためらったのではなかったか」(*2)

 

この日、警察は、集会をやめるよう警告を繰り返したが、手だしはしなかった。「これ以上刺激しては・・」という判断が働いたようだ。それが良かったのか、悪かったのか、歌声は、さらに巨大化していく。ゲリラ達の思惑も超えて。(つづく)

フォークゲリラを知ってるかい? その6

 

参考文献
*1吉岡忍編著「フォーク・ゲリラとは何者か」自由国民社、1970年
*2 朝日ジャーナル(1969年6月8日号)―なお、原文では「5千の人間」とあるところを、新聞報道等に合わせ「3千」に訂正させていただいた。