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2009-11-09

A Love Supreme

Theme: Days

AFTER THE GOLD RUSH-A Love Supreme ◆以下の文章は、3年前の11月に、はてなダイアリーに書いたものです。コメントの一部を含めて再掲します。Thanks to subterranean さん。


1989年の11月はとても寒々とした日が続いて、それは多分当時のぼくの心象風景に木枯らしが吹きまくっていたからだと思うんだけど、6月の天安門事件から始まった大きな時代のうねりが東欧諸国に津波のように押し寄せ、ベルリンの壁に民衆のツルハシが突き立てられた時、ぼくは完全に一つの時代、そして一つの思想が葬り去られたことを知った。忌まわしきスターリニズムの息の根が止められ、平等という名の奴隷生活を強いられていた不幸な民衆が解放されたことは素直に喜ばしいことだったのだけど、それをもって、あの馬鹿馬鹿しい冷戦が資本主義体制の圧倒的な勝利で終わったと断ずるのはあまりにも無邪気すぎる見解だと思ったし、社会主義という厄介者を駆逐した後の資本主義が、マルクスのすべてを否定し、さらには社会民主主義的な政策をも古いコートのように脱ぎ捨てたら、時代は19世紀のイギリスに逆戻りするだけで、ぼくらの未来を明るく照らすはずの蜀台は資本家の私欲に塗れた「労働者の死刑台」に転化されるだろうという漠然とした不安を感じていたんだ。


そんな寒々とした気分の11月、ぼくはジャズ喫茶でコルトレーンをよく聴いた。当時、ジャズのレコードは数えるくらいしか持っていなかったので、コーヒー一杯で何回でもリクエストができるジャズ喫茶はありがたかった。中でも「至上の愛」は毎回リクエストしていたアルバム。コルトレーンのスピリチュアルなサウンドが紫煙で充満した薄暗い店内に響くと、それは、まるでぼくの進むべき未来を指し示す啓示のように聴こえた。あの時の啓示は、そして進むべき未来は、確かに今ぼくが立っているところにつながっている。だから、耳を澄ませば、今でも1989年の晩秋に鳴り響いた「至上の愛」が聞こえてくるんだ。(2006/11/27 「ひっぴぃのつくりかた」)


subterranean 2006/11/27 23:01
90年代になってからマルクスを読んだ者としては、彼のヴィジョンは随分曲げられてしまっていたのだと感じたものです。あと、どんなに理想主義的な動機で作った国家も、やはり権力装置として定着してしてしまうものなのだな・・・とも。
コルトレーンは、私にとってジャズを聴くきっかけになったミュージシャンでした。最初に手にしたのは『至上の愛』全曲と『セルフレスネス』に収録された「マイ・フェイヴァリット・シングズ」が入った、怪しげな廉価盤だったのですが(笑)。しかし、今考えても素晴らしいカップリングでした。それまでジャズというジャンルがピンと来なかった私ですが、これには一発でヤラれました。それ以来しばらくインパルス・レーベル期のコルトレーン漬けの日々が続きました。当時はジャズの世界にも、ジミヘンみたいなサウンドを出す人がいるんだ・・・なんて不思議な感想を持ってたものです。


nyarome007 2006/11/27 23:44
subterraneanさん、書いた本人でさえ読むのがイヤになるこんな悪文にコメントいただき、ありがとうございます。半ば脳死状態の当ブログでありますが、subterraneanさんからの瑞々しく知性に満ちたコメントを頂くたびに、新鮮な空気を吸ったか如く瞬間的に息を吹き返すから不思議です。
社会主義崩壊の折、「善意で敷き詰められた道は地獄に通じる」とよく言われました。かつてローザ・ルクセンブルグがレーニンに異を唱え、またレーニン自身も認めていたように、ソビエト型社会主義は、100人の馬鹿より1人の天才を重んじる国家で、いかに崇高な理想を奉っていても、それが独裁と強制を伴うものなら、自由と人間としての尊厳を奪われた国民にとっては、地獄以外の何物でもないし、私もそんな体制は真っ平御免なのです。そして、我が国の一番の不幸は、未だ一度もまともな社会民主主義政党を持ちえなかったということでしょうか。(それに引きかえ、1950年代にバート・ゴーデスベルグ綱領を採択したドイツ社民党のすごさよ!)
音楽に関係の無い話で長くなってしまいましたが、コルトレーンは本当に素晴らしい。特に「至上の愛」は、あちらの世界に飛び込んでいくドキュメントのような孤高の美しさがあり、聴く度に新たな感動を覚えるのです。

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2009-11-06

大寒町

Theme: Japan Rock&Folk

AFTER THE GOLD RUSH-THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974 ゆっくりと坂を上る。風が冷たい。思わずポケットに手を入れる。上りきったところから、ぼくらの住む町の全景が見える。少しだけ立ち止まる。


――遠くまで見えるネ…
――随分と寒くなったから…


そんなことを一言、二言話して、また歩き出す。


不思議なものだ。理不尽で、しごく辛く、やりきれないと思っていたことも、日を重ねていくうち、いつしか、テレビのスイッチを入れたり、バサバサと新聞を広げたりするような、ごく当たり前で、平凡極まりない日常になってしまう。さもなくば、ぼくらの心には何万トンものユウウツが積み上がって、その重力で二度と立ち上がれなくなってしまうだろうから。この夏以降、自然と学んでいったのかもしれない。そういう呼吸の仕方、そういう歩き方を。


 ♪大寒町に ロマンは沈む
  星にのって 銀河を渡ろう


――何の歌?
はちみつぱいの、と言いかけて、でも、何だかそれを説明するのが面倒な気がして、いや、あがた森魚だよ、と言って、鼻歌をやめる。


そして、死んでしまった加藤和彦氏のこと、イムジン河のこと、などを、ポツリ、ポツリと。
――イムジン河って不思議な歌だね。放送禁止で、レコードも発売されなかったのに、新宿西口では何度も歌われていたんだから。
話しながら、ぼくは昨年の初夏に受け取った1通のメールのことを思い出す。


AFTER THE GOLD RUSH-はちみつぱい 「…歌詞の、自由の使者の鳥は南から北へではなく、北から南へというところに北賛歌があります。よど号が北へ向かった理由もここにあります。」
メールの主、T氏ともすっかり疎遠になってしまった。彼の言葉は、いつも鋭利なナイフのようで、容赦無くぼくの急所を抉り、だから次第に、そんな切っ先鋭い凶器のような言葉たちと真正面から向き合うことに疲れてしまった。最後は、ぼくが逃げたのか、彼が見限ったのか――。ものすごく俗な表現で言ってしまえば、それは、世代の違い、だったのかもしれない。「優しさ」という怠惰で無気力な微温湯の中で、すべてを曖昧にして、白黒付けずに仲良しゴッコ、そんなひ弱なぼくらの世代に、還暦を越えたT氏はほとほと愛想を尽かしたのではなかろうか。


 ♪大寒町に 雪降るころは
  もうじきだね 呼んでみようよ


AFTER THE GOLD RUSH-One Step Festival 説明するのが面倒なことは、書くのも同じように面倒だ。そもそも音楽の良さを言葉で説明するなんて、ナンセンス極まりない愚行なのだ。でも愚行と知りつつ、やはり書かずにはいられない。はちみつぱいのボックス(THE FINAL TAPES/LIVE BOX 1972-1974)、おそらく今年ぼくが聴いた音楽の中で、最も鮮烈な印象を残し、今後もずっと聴き続ける作品となるだろう。


鈴木慶一の弟、博文が書き、あがた森魚のレパートリーとしても知られる「大寒町」は、計6ヴァージョン収録されている。渋谷ジァン・ジァン、代々木いちごの目ざまし時計、池袋ホーボーズ・コンサート…。中でも、ワンステップ・フェスティバルでの演奏が秀逸。ザ・バンドを思わせる重たいリズムに乗せて、鈴木慶一が独特なバイブレーションのかかった歌い回しで1番を、そしてヴァイオリンの武川雅寛が2番を歌い継ぐ。間奏での、まるで「Fool To Cry」のような、鈴木と武川の素朴なファルセットがいい。実にいい。Hoo Hoo Hoo。ぼくは毎回ここで胸が熱くなる。


そして、はちみつぱいの湿気と草のかほりに満ちて、凛とした孤高の佇まいに、ぼくはこういうイメージを重ね合わせる。


 君は僕等の東洋が生んだ
 草花の匂のする電気機関車だ。――
 (芥川龍之介「或阿呆の一生」より)


※ 11/9 最終パラグラフを加筆修正

2009-09-27

Marc Time/Marc Ellington

Theme: UK Folk&Rock

AFTER THE GOLD RUSH-Marc Time 「彼が23歳のアメリカ人であるとか、髭を生やしているとか、気がふれて聖職を剥奪された修道士のように見えるとか、そんなことはどうでもいいことだ」(デヴィット・サンディソン)


マーク・エリントンにまつわる誤解と伝説は、この勿体ぶったライナーノーツ―1stアルバム「Marc Ellington」(1969年作)に掲載―から始まった。そして、その誤解を「定説」に変えたのは、2ndアルバム「Rains / Reins of Changes」(1971年作)に収録された名曲「I'm Leaving (America)」だったのではないか。妻カレンとの共作によるこの美しいバラードは、サンディ・デニーの哀しげなバック・ヴォーカルと相まって、さながら母国アメリカに別れを告げるマークの心象風景のように聴こえる。


英国音楽に憧れて渡英した「アメリカ人」マークは、60年代後半から70年代半ばにかけて、イギリスで、カントリー・フレーヴァー溢れる5枚のアルバムを制作した。そして、渡英時に彼が所有していたボブ・ディランの「地下室セッション」のテープが、フェアポート・コンヴェンションやマッギネス・フリントらの手にわたり、それがきっかけで、英国ミュージシャンがディランの未発表曲を演奏するようになった。こんなエピソードが、いつしかまことしやかに語られるようになった。


AFTER THE GOLD RUSH-Rains  Reins of Changes でも、すべては誤解、もしくは伝説だったのだ。マーク・エンリントンは、英国音楽に憧れて渡英した「アメリカ人」などではなかった。彼は、生粋の英国人だった。2007年の春、ぼくは中谷哲也氏のライナーノーツでその事実を知り愕然とした。


中谷 貴方の出生国は米国なのですか? また、10代の頃に聴いた音楽など教えてください。
マーク 私は生まれも育ちも英国だよ。1945年、ストーンハムで生まれたんだ。10代の頃はクラッシックからジャズ、ロック、トラッド、フォークミュージックまで幅広く聴いていたよ。15才ぐらいかな、ギターを弾き始めた。両親や弟もスコットランドの北部のアバーディーン市に住んでるけど。
(「髭面マーク登場」ライナーノーツより)


何てこった、まるで、ラフカディオ・ハーンが、自分は「生粋の日本人だった」と告白しているようじゃないか!


AFTER THE GOLD RUSH-Restoration
2007年初頭にマークの1stと4thアルバム「Restoration」(1973年発表の最高傑作!)がCD化された時、「これは奇跡だ」と思った。それまで日本では、いや、少なくともぼくにとっては「Rains / Reins of Changes」が彼の唯一のアルバムだったから。2008年には、3rdアルバム「A Question of Roads」(1972年作)がCD化され、そして、ついに今年、最終作となる「Marc Time」(1975年作)が晴れて再発の運びとなった。これで、彼の5枚のアルバムがすべて揃うこととなる。この再発を実現させたのは、英国でも米国でもなく、日本なのだ。やはり、奇跡、かもしれない。


さて、その「Marc Time」であるが、力強く、豪快に疾走するスワンプ・ロックナンバーと、英国的なリリシズム溢れるスローナンバーの塩梅が実に良く、過去の4作と比較しても遜色のない出来。プロデュースは、セプテンバー・プロダクションのサンディ・ロバートン。彼の人脈で、元フォザリンゲイのジェリー・ドナヒューとパット・ドナルドソン、フェアポート組のサイモン・ニコル、デイヴ・マタックス、リチャード&リンダ・トンプソン、マイティ・ベイビーのイアン・ホワイトマン、そして、名ギタリスト、アンディ・ロバーツと、これまた名ペダル・スティールギター奏者であるB.J.コールら、錚々たるメンツが参加している。


ぼくが特にしびれてしまったのは、マークが情感たっぷりに歌い上げるスローバラード「The Answer Is You 」。B.J.コールの歌心溢れるスティール・ギターとリチャード・トンプソンの乾いた音色のギターソロが素晴らしく、何ともしみじみとした気分になってしまう。


「Marc Time」とは、足踏みのこと。34年間スタンバイ(足踏み)し続けたアルバムが英国から遠く離れた日本で再発されたことを、彼はどう思っているのか。
マーク・エリントンは、このアルバムを最後に音楽業界から引退。現在は、文化遺産に関する英国政府機関の重役を務めている。

2009-09-19

Me, Japanese Boy

Theme: US Rock&Folk

AFTER THE GOLD RUSH-Secret Life of Harpers Bizarre かつてぼくはこう思っていた。――バート・バカラックとハル・デヴィッドは、日本という国を、“東洋の神秘”的なイメージ、悪く言えば、ステレオタイプで、誤解と偏見に満ち満ちた色眼鏡で見ていたのではないか、と。そこにあるのは、着物、桜、サムライ、大和撫子、そして、あろうことか、正統派チャイナスタイルでアレンジされたエキゾッチックなイントロ。


1964年、つまり、東京オリンピックの年に、ボビー・ゴールズボロが歌って全米74位を記録したこの曲は、今や「亜米利加から見た日本」が斯様なものであった、という事実を現代に伝える歴史的資料としての価値しかないのだろうか。


いや、そんなことはない。
「Me, Japanese Boy」は、先に挙げたような欠点を持つにもかかわらず、やはり紛れもなく名曲であるのだ。どうやら、“誤解と偏見に満ち満ちた色眼鏡”を外すべきは、ぼく自身の方のようだ。バカラック&デヴィッドという最強のソングライティングチームに対する――。


 昔々 はるか遠くの国に
 恋する 男の子と女の子
 月明かりの下で 彼は言いました


 ぼくは ジャパニーズ・ボーイ
 君のことが好きだ
 ほんとだよ とっても好きなんだ
 君は ジャパニーズ・ガール
 ぼくのことを好きだって
 頼むから そう言っておくれ


 (中略)


 青と白の着物を身にまとい
 彼女は 幸せな花嫁になりました
 その日から 今日まで
 彼女は ずっと彼のそばにいるのです


シンプルながらも何という幸福感に満ちた歌詞だろう。そして、ハル・デヴィッドは、こんな素敵なことばで歌を終わらせている。


 今 2人は年を取ってしまったけれど
 聞いたところでは 
 彼ら 昔と変わらず 
 互いに恋してるらしいのです
 彼は 毎晩 彼女にキスして 
 こう言うのです


 ぼくは ジャパニーズ・ボーイ
 君のことが好きだ
 ほんとだよ とっても好きなんだ
 愛が真実なら こうでなくちゃいけないし
 ぼくと君は そうあるべきなんだよ


カバーの多い「Me, Japanese Boy」であるが、この曲の美しさを最も的確に表現しているのは、ニック・デカロ編曲によるハーパース・ビザールバージョンだろう。
1968年発表の3rdアルバム「Secret Life of Harpers Bizarre」に収録されたそれは、流麗なストリングスはもちろんのこと、ウィンド・チャイムや打楽器の繊細できらびやかな音色が素晴らしく、まるで一編の映画を見ているかのような気分になってしまう。このすこぶる抒情的で甘美な旋律を聴いてグッとこなければ、その人はよほどの朴念仁じゃないかしらん。と、偏見に満ち満ちていたかつての自分を深く反省。

2009-09-13

私はやるから君もやれ

Theme: Days

AFTER THE GOLD RUSH-1968 ◆うぇ、恥ずかしい、と、年甲斐もなく、ポっと顔を赤らめるくらいならまだマシな方で、ぼくの場合、まるで、酔っぱらって、人の迷惑も省みず、上半身裸で腹踊りをしながら、そんな姿で場違いにもエラそうに説教を垂れていたようなものだから、それこそ「赤頭巾ちゃん気をつけて」の由美ちゃんのように「舌かんで死んじゃいたい」気分になってしまったのだ。そのくらい、酷い文章を書いてしまった。読み返して唖然とした。即効で記事を削除したことは言うまでもない。あの悪文を最後まで読まれた方がもしいるとするなら、「貴重な時間を無駄に過ごさせてしまった」という一点において深くお詫びしたい。


◆それでは、あれはお前の本心では無かったのか、と問われると、それは「違う」ときっぱりと言わざるをえないのであって、稚拙な文章ではあったが、論旨については、紛れもなくぼくの本心である。ビートルズが、金にものを言わせる中年の慰みものであってたまるか。音質や“紙ジャケ”の再現度が、音楽の価値に勝ってたまるものか。あ―、こりてないね、俺も。


◆このところ、ずっと小熊英二氏の「1968」(新曜社)を読んでいる。読み耽っている、と書いた方が正確か。上・下刊合わせて2千頁を超える大著なので、持ち運びに不便なのと、夜寝ながら読んでいると、うとうとした時、まるでダンベルが体に落下したかのような強い衝撃と激痛を伴う“凶器”と化すのが難点だが、内容は実に興味深い。小熊氏自身も書かれているとおり、「これまで、『あの時代』を語った回想記などは大量に存在したが、あの叛乱が何であったのか、なぜ起こったのか、何をその後に遺したのかを、解明した研究はなかった」。だから、この本が、1962年生まれの学者によって書かれた意義はとてつもなく大きい。


◆ネット上では、“当事者”である団塊の世代から、この労作への揚げ足とり、もしくは言いがかりとしか思えないような誹謗中傷が続いている。心底がっかりしてしまう。あなた達は、先の戦争を自らの手で総括しえなかった親の世代と同じ罪を背負っているということにそろそろ気付いた方がいい。記憶はいつだって、自分に都合良く、美しく漂白されていくものだ。あなた達が“命をかけて闘った”と信じた最前線が、実は子供の頃、路地裏で戯れた“戦争ごっこ”の延長線上にあったなんて到底認めたくもないだろうが。違うというのなら、感情的な批判ではなく、冷静に総括をしたうえで反論することだ。「挫折」を逃げ口上にして、その作業すら怠ってきたあなた達に、小熊氏を批判する資格など無いだろう。


◆「べ平連」の章だけで約200頁。新宿西口フォークゲリラについても、ここまで体系的に書かれた書物はこれまで無かったのではないか。すが秀実の「べ平連に共労党のフラクションがあり、それがべ平連を操作していた」との陰謀説についても、資料や証言を突き合わせた上できっぱりと否定している。「あの時代」に過剰なノスタルジーを抱き続けるサブカル御用達の評論家とは一線を画す、クールで客観的な筆致が読んでいて実に心地良い。そしてしみじみ思ってしまう。どうして、このレベルの研究書すら、“彼ら自身の手で”書かれなかったのだろう、と。

2009-08-02

その日、ギターは武器になったのか?

Theme: フォークゲリラを知ってるかい?

AFTER THE GOLD RUSH-椛の湖フォークジャンボリー 昨日、全日本フォークジャンボリーが38年ぶりに「復活」し、岐阜県中津川市の椛の湖畔に、千人を超える聴衆が集まったらしい。それを報じた毎日新聞の記事を読み、思わず苦笑してしまった。
「正午から開かれたコンサートは、岡林信康の『友よ』の曲が流れる中でスタート」。
これは何か悪いジョークに違いない。
当の岡林は、この日、国営ひたち海浜公園で開催された「ロック・イン・ジャパン・フェス2009」で、孫の世代に限りなく近いロック・キッズを相手に、現在進行形のエンヤトットを演奏していたのだから。


「友よ」。岡林がこの歌を歌わなくなってから、一体どのくらいの時が経つのだろう。1971年7月に日比谷野外音楽堂で開催された「狂い咲きコンサート」の時には、すでに、「問題の歌」と揶揄し、「お互い恥ずかしい思い出がありますねえ」と思い切り照れながら、囁くように歌っていたから、もう40年近くこの歌を封印しているのかもしれない。


70年代になり、若者たちは「私たち」から「私」になった。いつしか、「友よ」と、肩を組み、声を合わせて歌うことは、時代遅れでとてつもなく格好の悪いことになってしまった。「♪ぼくの髪が 肩までのびて 君と同じになったら 結婚しようよ」と軽く口ずさみながら、それぞれの小さなトーチカで身を守るようになった彼や彼女たちにとって、フォークソングは、時代と対峙する「武器」ではなく、小市民的な幸せに浸るためのBGMに過ぎなくなっていたのだろう。


AFTER THE GOLD RUSH-新宿ジャカジャカ・リハ風景 その「友よ」の合唱が、40年の時を経て、新宿花園神社境内に響き渡った。先月上演された椿組の野外劇「新宿ジャカジャカ」。東京フォーク・ゲリラを題材にしたこの芝居には、「その日、ギターは武器になったのか」という実に思わせぶりな副題がついている。そして、開演前のテントからは、「腰まで泥まみれ」や「橋を作ったのはこの俺だ」の歌声が。これは、いやがうえにも期待が高まるではないか。しかし、その期待は、程なくして失望に変わった。


これはあくまでもお芝居であり、中島淳彦氏流のファンタジーであることは十分に承知している。だから、ディテールに拘るつもりはないし、ゲリラのリーダーが歌声喫茶のリーダーという設定にもあえて目を瞑ろうと思う。――花園神社の夏の祭りに、「べ平連」というフレーズは、やはり少しばかり重く、政治的で、観客の感情移入を拒む恐れがあるだろうことは容易に想像がつくから。


AFTER THE GOLD RUSH-新宿ジャカジャカ しかし、それなら何故、会場で「べ平連・フォークゲリラはこれからも新宿西口広場でフォーク・ソングを歌います~」というビラを配っていたのか? 小道具だからオーケーと考えたのか。少々理解に苦しむ。(加えて指摘すると、あのビラは、当ブログの画像を印刷したものだろう。歴史の廃棄物処理場から発掘したものなので、それについてどうこう言うつもりはないが。)


高田渡の「東京フォークゲリラの諸君達を語る」の使い方にも大いに疑問を覚えた。物語との関わりが全く意味不明な「高田馬場のネズミ達」が、あの歌をふざけた調子で歌うのだが、これが全く面白くない。大体、フォーク・ゲリラを論じる時、あの歌を得意気に引っ張り出してきて、「あのカッコイ エリートさん等をさ」とか「自慢するわけじゃないが 僕は逮捕状が出ている」というフレーズを引用しようとするお馬鹿さんがあまりにも多すぎるのだ。あれは、高田渡一流のサーカズム(Sarcasm)であり、高田渡以外の者が引用すると、単なるインサルト(insult)になり、自らにその刃の切っ先が向けられるということに何故気付かないのだろう。


貶してばかりではあんまりな気もするので、称賛に値する点も書いておこう。この手の演劇ではいい加減になりがちな、フォークソングの時代考証が丁寧に行われていたこと。そして、その、今や誰も歌わなくなった「いにしえのフォークソング」を、若い役者さんたちの歌で、瑞々しく生き返らせていたこと(一生懸命練習されたのでしょう)。文学座の浅野雅博氏が、良い演技をしていたこと。特にラストの「友よ!」の悲痛な叫びが良かっただけに、無駄の多いストーリー構成が惜しまれるところ。


劇中歌一覧(メモと記憶頼りのため、間違いの可能性あり)※8/5修正

俺の空は鉄板だ
おまわりさんに捧げる唄
アカシアの雨がやむとき(山崎ハコ)
自衛隊に入ろう
ウイ・シャル・オーバーカム
腰まで泥まみれ
ベトナムの空
拝啓大統領殿
新宿の女(唄奴)
恋のハレルヤ(唄奴)
主婦のブルース
橋を作ったのはこの俺だ
おいでよ僕のベッドに
かごの鳥のブルース(唄奴)
東京フォークゲリラの諸君達を語る
リンゴ追分(唄奴)
恋の山手線
あるオッサン云いはった
新しい日
一人の手
労務者とは云え
ラングリング・ボーイ
ウイ・シャル・オーバーカム(唄奴+全員合唱)
友よ(全員合唱)

2009-07-22

新宿ジャカジャカ

Theme: Days

AFTER THE GOLD RUSH-花園神社 一昨日、新宿花園神社にて、フォーク・ゲリラを題材にした野外劇「新宿ジャカジャカ」を観た。
称賛も批判も、そして多少の文句も含めて、
書きたいことは沢山あるのだが、その感想はまた後日。


と書きつつ、
冒頭、まさに「ゲリラ」的に登場した山崎ハコの「アカシアの雨がやむとき」が
言葉にならないくらい素晴らしかったということだけは、今ここに書いておこう。
恥ずかしながら、唄奴の「We Shall Overcome」にしびれてしまったことも。

2009-07-05

岡林信康コンサート2009

Theme: Japan Rock&Folk

AFTER THE GOLD RUSH-岡林信康コンサート2009 先週(6月27日)、九段会館に岡林信康のコンサートを観に行った。3部構成、ロック、フォーク、エンヤトットと自らの40年間のキャリアを総括するかのようなステージ。冒頭から大いに笑わせ、中盤、思いがけぬトラブルにハラハラドキドキさせ、最後はお祭り騒ぎで大団円という、ハプニングさえもエンターテイメントに変えてしまう、不思議な力強さに満ちた4時間だった。


第1部は、徳武弘文(E.G)と平野融(E.b)をバックにしたドラムレスのロック構成。Dr.Kこと、名手徳武氏がクラレンス・ホワイトを思わせるカントリーロッキンなフレーズを繰り出す中、1曲目の「あの娘と遠くまで」が始まる。


 ♪まだぼくを追ってくる 羊小屋の影法師
  だけどもうこわくない あの娘に出会った今は


ウォーっという歓声、そして大きな拍手が沸き起こる。皆待っていたんだ。餓えていたんだ。この感じの岡林に。ぼくがこの歌で一番グッときてしまうのは、次のフレーズ。


 ♪あの騒がしいラッパ吹きの 歌がここまで聞こえる
  耳をふさいでおくれ ぼくがうまく走れるように


AFTER THE GOLD RUSH-わたしを断罪せよ 「騒がしいラッパ吹き」とは一体誰のことなのか。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった“フォークの貴公子”のことか? それとも、「論争」というねちっこい刃物で、岡林を絶望的な神経症に追い込んだ無邪気なフォーク原理主義者たちのことなのか? いや、つまらぬ詮索はやめよう。岡林はもうそんなところにいない。とっくの昔に、騒々しくも不毛なレースを続ける競技場から「いちぬけて」しまっているのだ。


そんな感慨に浸っているうちに、ステージは「いよいよ武道館まであと150メートルのところまで近付いた」という爆笑MCを挟み、「今日をこえて」「家は出たけれど」「自由への長い旅」とロック期の岡林を象徴するナンバーが続く。そして、何より、1部のハイライトとなったのは、まさかの「指つり」アクシデントに見舞われつつも、熱を込めて歌いきった「霧のハイウェイ」ではないだろうか。軽快なカントリーロックナンバーに生まれ変わったそれは、「ダンスマン」収録バージョンより百倍以上良かった。


2部になっても指のつりは直らず、平野融がサポートに入っての弾き語り。「リハーサルでは何回やっても平気だったのに本番になると変な力が入る、未熟やなぁ」としきりに悔しがりながら、「26ばんめの秋」「チューリップのアップリケ」「山谷ブルース」「君に捧げるラヴソング」と、ファンにとっては宝物のような曲を、今年63歳とは思えない美声で歌いあげる。


AFTER THE GOLD RUSH-見るまえに跳べ 愛娘に男の子が産まれ「爺さんになった」と照れながら、その愛娘が「孫よりも小さかった頃」に書いた歌、そして、「この歌には、自分より優れた聴き手がいる。ひとの生と死、そしてそれを超えた永遠を感じさせるのではないか」と、この日一番真面目に話してから歌った「みのり」。感情が胸を突き上げたのだろうか、歌い終えるとしばし絶句。すぐに「台本にここで『泣く』と書いてあった」と笑わせたが、この時、岡林は本当に泣いていたのかもしれない。


3部のエンヤトットは、指のつりも治まり、まさに絶好調。和太鼓、尺八、三味線を従え、白いスーツ姿で格好よくギターを弾く岡林に、何故か、「グレイテスト・ヒッツ」のフィル・オクスのギンギラスーツ姿をだぶらせたりして。冗談はさておき、エンヤトット、実に良かった。これは日本人にとって最高のダンス・ミュージックじゃないだろうか。


この夜の岡林は、過去の自分を赦しているようにも思えた。すべて赦せるようになったら、いつかまた、「友よ」や「私たちの望むものは」を歌えるようになるのだろうか。
いや、永遠にその時は来ないかもしれない。
いずれにせよ、岡林が歌い続けるかぎり、ぼくはずっと彼のことを追いかけていくだろう。だから今はエンヤトットだ。

2009-06-15

フォークゲリラを知ってるかい? その17

Theme: フォークゲリラを知ってるかい?

AFTER THE GOLD RUSH-新宿駅西口地下広場ビラ


その16  つづき)
ゲリラと
高石らフォークシンガーとの論争については、まだ書かなければいけないことが多いような気がするが、それは後述するとして、ここはひとまず話を1969年7月時点に戻そう。

既に書いたとおり、7月19日、新宿駅西口地下広場は“機動隊広場”と化し、24日、警視庁の統一見解により、広場は正式に「道路」となった。


そして、7月26日、土曜日の地下広場は、前週に続いて2千5百人の機動隊員で埋め尽くされた。
この日のゲリラと機動隊の攻防戦は、次のようであった。


AFTER THE GOLD RUSH-Folk Guerrilla 午後2時、ゲリラの諸君は西口地下広場でギターを持った。3百人近い人々が輪を作った。私服の刑事達がそれを遠まきにした。私たちのよく見知った顔の刑事諸氏も多かった。中央公園にはやはり50台近い警察の車があった。そして続々結集していた。いつもは午後5時過ぎに始まるフォーク集会があまりに早く開かれたのにビックリしているのだろう。しかし、午後3時、きっちりその時間を期して、交通警官の制服をつけ、胸に金の“機動隊バッチ”をつけた人々が列を作りやってきて、あっという間にフォークの輪を壊していった。
(「べ平連ニュース」1969年8月1日)


AFTER THE GOLD RUSH-Folk Guerrilla 午後6時頃には、広場は約4千人の学生、一般通行人で埋まった。学生たちは通行人を巻き込んでゾロゾロ歩きながら大声で歌ったが、たちまち広場から地下通路へ押し出された。
機動隊は、抵抗したり、激しいヤジを飛ばす学生、通行人に飛びかかって検挙したため、そのつど混乱、「警官帰れ」の喚声がわいた。機動隊の包み込み作戦に巻き込まれた通行人が「お前らこそ交通妨害だ」と抗議していた。
(「毎日新聞」1969年7月27日)


2千名を越す機動隊員が、あの広場を列をなして行進していた。突然、どこからともなくわきあがるプロテスト・ソング。その方向にいっせいに駈け出して行く機動隊。そこで湧き上がるシュプレヒコール。
機動隊の行為はかなり手荒で、そこにいる市民の中から批難の声があがった。しかし、批判の声に返ってくる答えはたいてい、より激しい暴行でしかない。
この日二度と輪はできなかった。たまに起こる歌声、それは感動的であったが、悲惨な結果を生じた。歌っている人はすべて、首を絞められ、引きずられ、殴られ、突き放された。この日再び輪はできなかった。
(「べ平連ニュース」1969年8月1日)



AFTER THE GOLD RUSH-Folk Guerrilla 翌週(8月2日)も、地下広場は2千人の機動隊員で制圧され、人々は、歌はおろか、一瞬たりとも足を止めることさえ許されなかった。そして、その2日後の8月4日、暑い夏の夜に、早大生の吉岡忍氏がべ平連事務所前の喫茶店で逮捕される。5月24日と31日の反戦フォーク集会を指揮した疑い。東京フォーク・ゲリラでは5人目の逮捕者となった。


ゲリラ達は焦っていた。西口で歌おうとするたびに、暴力的に規制され、負傷者や逮捕される一般人も増えていった。そして、この危機的な状況にあっても、同志であるはずの岡林や高石らフォークシンガーは沈黙したままで、広場に目を向けようともしない。


西口奪還? どうやって? 敵はますます巧妙かつ兇暴になっているじゃないか! ギターという武器で本当に闘えるのか? ゲリラの一人は言った。「我々が集まるところは道路であろうと何であろうと広場になる。西口だけでなく、どこでも広場にするつもりだ」。そして、その宣言通り、彼らは新たな「広場」の現出を試みる。池袋駅西口、渋谷ハチ公前、有楽町数寄屋橋公園、蒲田駅西口、吉祥寺駅前、新宿歌舞伎町のコマ劇場前小公園に――。
1969年夏、歌は国電に乗って、都内各駅へと拡散していった。(つづく)

2009-06-07

Let It Be Me

Theme: US Rock&Folk
AFTER THE GOLD RUSH-Self Portrait/Bob Dylanディランの「セルフ・ポートレイト」というアルバムは、一般的に評判が悪い。やる気が無い、散漫、ふざけている、他人の曲ばかり歌って創造性が感じられない、等々。でも、ぼくは、このアルバムで、気持ちよさそうに古いフォークやカントリーソングを歌うディランに堪らない魅力を感じてしまう。

「Early Mornin' Rain」のさりげなくも説得力に満ちたヴォーカルに、「Blue Moon」の突き抜けた快感に満ちた美声に、「Belle Isle」のリリカルで愛おしいメロディに、ぼくは心打たれる。ここにいるのは、ロック界のスーパースター、ボブ・ディランではなく、ロバート・アレン・ジマーマンという29歳のごく平凡なアメリカの青年だ。その彼が、無防備に晒した、等身大の素顔に感動する。

少年時代のアイドルだったエヴァリー・ブラザーズの「Let It Be Me」。ディランは、この美しいラブソングを、ビロードのように滑らかな美声で歌う。素晴らしい。もし、これがジョークだと言うのなら、すべてのポップ・ミュージックは、冗談以下のたわごとに過ぎないのではないかとさえ思えてしまう。だから、ぼくは、今夜、世界中の心やさしい人たちと、ディランの「Let It Be Me」を聴いていたい。

Bob Dylan- Let It Be Me


P.S.
心配していた転移はありませんでした。皆さん、ありがとう。妻は来週から化学療法に入ります。
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