3.2.1 概観 | 竹内芳郎の思想

3.2.1 概観

 この時期のこの分野に属する仕事は、二つの著書にまとめられている。言語論『言語・その解体と創造』(1972年、増補版1985年)と論文集『課題としての<文化革命>』(1976年)である。
 彼のこの分野の研究は、一見したところ無関係に思われるほどの広範囲にわたっており、その全体像を把握するのは容易でない。特に、言語論と革命論との関係などはとてもわかりにくいだろう。そこで参考になるのは、『実存的自由の冒険』の解題2「わが思索のあと」(1975年)における次の文章だろう。これは、この時期の終わりころに書かれたものであり、それまでの彼自身の思索を総括し、次の時期の課題を展望するものとなっている(1975年の文章ゆえ、翌年出版の『課題としての<文化革命>』に収録された「大学闘争をどう受けとめるか」について、「まだ論文集への収録の機会にめぐまれない」という記述がなされている。なお、この文章では、1969年刊の論文集『文化と革命』をもこの時期のものとしているように読めるが、既述のように、そこに含まれた論文の多くは1967年以前に書かれているので、私はそれを前の時期に含めている)。

 わたしにおける<文化革命>の思想は、そのものとしては六九年の論文集『文化と革命』、七二年の著作『言語・その解体と創造』、七四年の編著『文化と革命』、七五年の著作『国家と文明』などで展開されており、その意味ではあきらかに第三期(本章で扱っている時期――引用者)の思想作業にぞくする。しかし、発想の根そのものとしては、それはとおく戦後ごく初期から胎内に宿されていて、たとえばさきの五二年の文章(第1章で部分的に引用した「新しく哲学に志す者の一つの独白」のこと――引用者)に見られるとおり、単なる政治=経済的変革には尽せない<生活自体の変革>、<思考仕方(デンク・ヴァイゼ)の変革>という発想がそれであった。それが第二期における<人間の全体性>思想――これについてはとくに『サルトルとマルクス主義』、『イデオロギーの復興』参照――を媒介として、さらに世界史における<文明転換>の課題にまで拡大成長を遂げて行ったところに、わたしの<文化革命>論の固有の歩みがある。そして、このような質的転換をもたらしたものは、またしても中国の<プロレタリア文化革命>の深い衝動であり、さらにはフランスの<五月革命>、わが国の<大学闘争>の経験であった(この最後のものについては、まだ論文集への収録の機会にめぐまれないが、『展望』誌六九年五月号所載「大学闘争をどう受けとめるか――全共闘の問題提起に応う」を見られたい)。そして、今後のわたしの思想的営為の基軸となるのもまさにこの問題であり、いまわたしが少しずつおし進めていることは、みずからの言語論の成果を踏まえつつこれを記号論にまで拡大させ、あらゆる文化現象をその基底において整序し得る一般記号論を建設し、それによって現代の人類が逢着している<文明転換>の課題にしっかりとした理論的基礎を提供する作業である。もしも幸運にもこの作業を完遂することができるならば、それによってわたしは、戦後間もなくはじめた自分の思索にひとつの集大成をあたえることができるのではないかと思っている。

 また、『言語・その解体と創造』の初版まえがきは、彼の言語論の意図を次のように述べている。

 たしかに、言語論は日本と欧米とを問わず、いまや時代の流行となった。この流行の波に乗ってさかんに言語を論じている人たちが果して明確に自覚しているか否かはともかくとして、この流行の背後に現代世界における文化総体の危機についての感覚があることは、ほぼ疑い得ぬところであろう。たしかに、人間を他の動物から截然と分つものは発話行為であり、言語は人間の特に人間的な行動の一切を、つまりは人間文化の総体を、根柢的に規定してしまっているかにおもわれる。とすれば、文化の総体が大きな危機に見舞われているとき、その文化の根底にある言語の相のもとで、すべてを検討しなおしてみようという企てがおこってきたとしても、すこしも不思議はあるまい。
 尤も、アカデミックなかたちでなら、こうした企ても、今にはじまったことではない。たとえばカッシラーは、もう半世紀もまえに、カントの<理性の批判>を知的認識の領域から文化の全領域にまで拡大して、<文化の批判>と称してまず言語のシンボル機能に鋭い考察をおこなっていた。たとえ方向を謬ったとはいえ、論理実証主義または分析哲学の企てとてもおなじであって、実際、学問の世界が極度に細分化され、専門化され、その諸領域のあいだでほとんどコミュニケーションがつけられなくなってしまったとき、もういちどすべての学問の共通項としての言語の位相にたちかえって、そこに諸学の全体化の契機をつかみ出そうという欲求が各方面からおこってきたとしても、まことに当然と言わねばなるまい。
 ところが現代では、危機は単に学問の危機、アカデミズム内での危機にとどまるものではけっしてない。現代社会のあらゆる層でコミュニケーションの危機は深刻化しており、しかもこれは、マス・コミュニケーション手段が途方もなく豊富化されたにもかかわらずそうなったのではなくて、むしろ豊富化されたがゆえにそうなったのだ、とさえ言える症状を呈している。まことにH・ルフェーヴルも言うように、現代の情報化社会では、無数のネットワークが張りめぐらされ、そこからあらゆるメッセージが発信されてはいるものの、それはあくまで一方的なものであるために、そのメッセージを解読するためのコードは、ネットワーク自身によってすっかり秘匿されてしまっている。一般的コードの消失(メタ言語の欠落)――これが現代情報化社会の際立った特徴のようであり、そのなかにあって、人々は過剰なまでに豊富な情報をあたえられながら、その情報によってかえって己れの魂の深部まで<管理>されてしまっているように感じている。この耐えがたい<管理>に反撥して、ほとんど無目的とも言える様々な暴力が激発してくるのも当然であり、この夥しい暴力の世界のなかにあって、なおも言論に己れの存在を賭けている<口舌の徒>は、一体どこにその全営為の正当性の根拠を置いているのか――そこに私の言語論の、そもそもの発端があったと言ってよい。事実、数年まえ、世界共通の普遍的コミュニケーション言語の創造に情熱を燃やしつづけていた老エスペランティストで徹底した平和主義者だった由比忠之進氏が、にもかかわらず、自民党政府の非道な金権政治とアメリカのヴェトナム人大量虐殺に抗議して、ついに焼身自殺という徹底したディスコミュニケーションと自己への暴力行為に訴えてその生涯を閉じねばならなかったという事実ほど、現代世界におけるコミュニケーション状況の絶望的様相を衝動的に刻印したものはない〔これについては、海老坂武のすぐれたエッセイ「由比忠之進の<対話>」がある。『否認の言語へのノート』所載〕。このような絶望を内に孕むことのない言語論なぞ、どんなに饒舌にジャーナリズムの紙面を賑わしていようと、なんらの意味ももたないのはあきらかであって、むしろ、こんな絶望を精神的発条として形成された第二次言語としての言語論だけが現代唯一の真正な言語論たり得るというのが、私の言語論の基底にある考え方なのである。顧みれば、この言語論は、いわゆる<大学闘争>がどこにあっても泥沼のなかで溺れ死に、あとには徹頭徹尾、没学問的で没教育的な学内政治屋どもの自己保身にもとづく<事態収拾策>が全般的無気力を学内に建立したのを目のあたりにしつつ、その絶望を噛みしめながら、すこしずつ書き綴られて行ったものだ。執筆中、崩れかかる心を辛くも支えつづけていてくれたものは、わずかに、毎晩夜更けてから聴くJ・S・バッハのオルガン曲やカンタータ、受難曲のたぐい――むろん比喩的な意味だが、音楽における、この驚異的な普遍言語の存在!――だけだったことを正直に告白しておいてもよい。


 さて、ここで解説するのは二つの著書であるが、そこに含まれる論文は次のとおりである。まず、『課題としての<文化革命>』(1976年)には、「大学闘争をどう受けとめるか――全共闘の問題提起に応う」(1969年3月24日)、②「高度資本主義国革命の展望」(1972年2月5日)、③「現代<文化革命>の展望」(1973年9月30日)。『言語・その解体と創造』(1972年)には、④第一部「言語・その解体と創造」(1971年)、⑤第二部「アンガジュマン文学の言語論的再検討」(1971年)、そして、1985年に出版された増補版で、「文学言語の<意味>と価値」(1975年)が加えられている。執筆時期はやや前後するが、上記の順序で解説してゆこう。


 「大学闘争をどう受けとめるか――全共闘の問題提起に応う」(1969年3月24日)は、上記の引用にあるように、『展望』誌1969年5月号に掲載されたが、その後しばらく経って『課題としての<文化革命>』に収録されたものだ。同書のはしがきには、「現代革命が本質的に文化革命でなければならぬことをわたしにつよく示唆したものは、中国の<プロレタリア文化大革命>の実験とならんで、わが国での<大学闘争>の経験であったから、大学闘争にたいするわたしの発言中もっともまとまっているものを一篇だけ選んで、これを本書に収録した」とあるが、同書の前に出版された二つの政治論文集(『国家の原理と反戦の論理』と『国家と民主主義』、いずれも現代評論社刊)に収録されなかった理由はわからない。おそらくは出版社との関係によるものと推測されるが(先の二著は現代評論社の『現代の眼』に掲載された論文を中心に編まれており、本書は筑摩書房の出版物に掲載された文章からなる)、その主題の違いや何か他の理由があったのかもしれない。
 この論文は、現実が突きつけてくる課題に真摯に向き合い、絶えず自己の存在仕方を問いただしてゆく、という竹内の思想態度がきわめて明瞭に示されており、きわめて印象深いものとなっている。彼自身の言によれば、この論文は多くの読者に熱心に読まれたと言う(『ポスト=モダンと天皇教の現在』40頁)。確かに、これは数ある彼の論考のなかでも最も美しい文章の一つであり、後に要約はしておいたが、ぜひ原文を味読していただきたいと思う。


 ②「高度資本主義国革命の展望」(1972年2月5日)と③「現代<文化革命>の展望」(1973年9月30日)は、1969年9月より1974年3月まで筑摩書房より刊行されていた「現代革命の思想」シリーズ中で、竹内芳郎が編集責任を担った二巻――『高度資本主義国の革命』(1972年刊)および『文化と革命』(1974年刊)の、それぞれ巻頭に付された「解説」である。これらの執筆事情と性格については、『課題としての<文化革命>』のはしがきで次のように述べられている。

 「現代革命の思想」シリーズ(全体の責任編集者は小田実・加藤周一・鶴見俊輔とわたし)は、いま顧みると、まことに奇妙な運命を辿ったかにおもわれる。出版社がこの企画を立てた当初〔一九六八年〕は、あたかも一方では大学闘争が全国的規模で燃えあがっており、他方では<新宿暴動>にまで昻まってゆく六〇年代新左翼セクトの闘いの最後の光芒が輝いていた時期であったが、その後、この企画がいよいよ実現される頃は、これらの闘争が急速に凋落して行った時期にあたっていた。それも、なにもわが国だけの特殊事情ではなく、世界的に見てもちょうどそうした歴史の屈折点にさしかかっていたようで、六〇年代後半の中国の<プロレタリア文化大革命>にしろ、フランスの<五月革命>にきわまる高度資本主義国の学生叛乱にしろ、七〇年代に入ると、はっきりと退潮期を迎えるようになる。革命的高揚のあとの<白け>のムード――それが全社会を、全世界を覆うようになり、そのムードのなかで、「現代革命の思想」シリーズも、必然的に虚空をさまようハメにおちいらざるを得なかったようだ。
 けれども、いまさらヘーゲルの有名な比喩――「ミネルヴァの梟はせまりくる黄昏とともにようやく飛びはじめる」をもち出すまでもなく、実は運動の退潮期こそ、運動の思想的点検をふかくおこなう絶好の季節である。すくなくともわたしはそのようにかんがえて、みずからその責任をひきうけた二巻の編集の仕事を、世を覆う<白け>ムードに抗しつつ数年にわたって続行した。ただ、残念なことには、こうした仕事は、この日本的現実のなかでは文字どおりunzeitgemässe Betrachtungenとして埋没してしまうほかはないものらしく、たとえば<大学闘争>ひとつとってみても、そこから一体なにを学びとったのかさっぱりわからなくなっているのは、なにも日本共産党その他の既成政党だけではなく、さらには新左翼諸セクトでさえもなくて、実にその闘争を全共闘のメンバーとして担った人々自身ですらそうなのだ。「ずべてを水に流して」、ただ黙々とこの白けムードのなかを各自銘々のタコツボを掘って生きている、といった調子である。なにひとつ変りはしなかったし、過去が対自化されて点検されない以上、将来もまたおなじことのくり返しであるだろう。……
 この<白け>ムードの相も変らぬ持続のなかで、あえて本書を公刊しようとするのは、こうした風潮をいくらかでも矯め、立場こそ異なれどこかでかならず続行されているであろう未来の設計のための過去の点検の個別的な諸営為に、ささやかなりと討論のための共同の広場を開こうと思ったからである。現代革命の課題は、単なる一政党、一個人の力をもってしてはとうてい解明し得ぬほどの巨大な広がりをもち、複雑多岐にわたっている。どうあっても、志を同じうしつつも立場を異にする人々の、謙虚で誠実な討論と協力が必要である。そうした方向への歩みを準備するための地ならしに、本書が多少とも寄与することができればと念じている。……
 しかし、本書の第一・第二論文(この「高度資本主義国革命の展望」と「現代<文化革命>の展望」のこと――引用者)も、執筆時の事情の制約から、とうぜん特殊な性格を帯びている。まず、両論文とも、他人の思想の集約の「解説」として書かれたものであるから、わたし自身の思想の直接的な表現の形式はとっていない。つねに他人の思想を集約し、それを整理し点検し批評することをつうじて、間接的にわたしの思想を語っているにすぎない。この点、『イデオロギーの復興』〔筑摩書房刊〕から『国家と文明――歴史の全体化理論序説』〔岩波書店刊〕にいたるわたしの他の諸著作とは本質的に性格を異にしている。ただ、「現代革命の思想」シリーズのさいに収録しておいた他人の論考を一々参照しなくとも、これだけ独立して十分に読み通すことができるように配慮して、この論文集に収めるにさいし、原形にかなりの加筆補正をおこなっておいた。第二に、シリーズ内でのわたしの分担上の制約から、現代革命諸思想中からとくにヨーロッパ系のものだけを対象に選択していることを、あらかじめお断りしておかねばならない(ただし、毛沢東のものは例外)。もっと視野を全世界的規模にまでひろげ、とくにわが国の諸思想のなかからも大切な論点を摘出する作業は、読者各位の努力にゆだねたい。ただ、そのさいにも、本書で摘出しておいた諸論点への引照なしにはどんな作業も十分とはならぬであろうことは、自身をもって確言できるようにおもう。なにはともあれ、もうそろそろ各自のタコツボから這いだしてきて、銘々の経験と論点とを真摯につき合わせ交換し合うべき季節となっているのではないか。でなければ、七〇年代のわたしたちは、あまりにも惨めなこととなってしまうだろう。


 この「現代革命の思想」シリーズについて少しだけ補足しておくと、当初は、主題別に現代革命論を集めた8巻に加えて、「現代革命の展望」と題された別巻(四人の責任編集者――小田・加藤・竹内・鶴見――によるシンポジウムの模様を収録する予定だったようだ)の刊行を予定していたこのシリーズであるが、最終的に別巻は公刊されず、全8巻だけで完結している。この8巻の編集・解説者と主題は、第1巻が菊地昌典『ロシア革命』、第2巻が菊地昌典『ロシア革命以後』、第3巻が山田慶児『中国革命』、第4巻が小田実『第三世界の革命』、第5巻が鶴見俊輔『アメリカの革命』、第6巻が竹内芳郎『高度資本主義国の革命』、第7巻が竹内芳郎『文化と革命』、第8巻が武藤一羊『学生運動』という構成で、企画としては目配りの利いた興味深いものとなっていると思う。各巻には、それぞれの主題に関わる論文が集められ、巻頭に編集者の解説が付されているのであるが、奇妙なことには――おそらくは別巻で語られる予定だったのではないかと推察されるが――、シリーズ全体についての解説等はどこにも記されていない。また、シリーズの刊行は必ずしも巻数の番号順にはなされず、竹内が編集した2冊が最後に配本されているのであるが、第7回配本の『高度資本主義国の革命』の帯には「全8巻別巻1」と記されていたものが、最後の配本となった『文化と革命』の帯では「既刊全8巻」とされ、別巻の記載がなくなっている。その辺りに、竹内が「虚空をさまようハメにおちいらざるを得なかった」と述べるしかなかった、さまざまな事情があったのだろう。当時の『展望』誌ないし筑摩書房の刊行物等を調べれば、もう少し詳しい事情がわかるかもしれないが、いずれにせよ、別巻の刊行が断念されるかたちで、突然、シリーズの幕が引かれることとなったようだ。
 さて、竹内の二つの「解説」についてであるが、以上のような性格の論文ゆえ、ここでは詳しい解説は要しないだろう。ここでは、それぞれの論文の章立て構成を示し、その各章で解説され、かつ、編書のなかに論文が翻訳(抄訳)されている理論家たちを紹介しておくにとどめよう。

 ②「高度資本主義国革命の展望」は、第一章「社会民主主義とボルシェヴィズムの同時超克」でP・アンダスン、L・バッソ、E・マンデルらの論文が、第二章「資本主義の<変貌>への応答」でA・ゴルツ、L・マーグリ、S・マレ、H・マルクーゼらの論文が、第三章「<文化革命>としての現代革命」でR・ショール、ゴルツ、マルクーゼらの論文が、第四章「<学生叛乱>の教訓」でB・ニルマント、J・ハーバーマス、マルクーゼとH・M・エンツェンスベルガー、Les Temps Modernes編集部、New Left Review編集部、A・グリュックスマン、ゴルツ、E・マージらの論文が、それぞれ解説されている。

 ③「現代<文化革命>の展望」は、「序説」でTh・アドルノ、H・ルフェーヴルらの論文が、第一部「文化革命の現代的課題」の第Ⅰ章「<管理社会>と文化革命――マス・メディア論」でL・ゴルドマン、エンツェンスベルガーらの論文が、第Ⅱ章「近代的合理性とテクノロジーへの批判」でホルクハイマー=アドルノ、マルクーゼ、ハーバーマスらの論文が、第Ⅲ章「新文化の在り方を求めて」でA・グロタンディエクとD・グエジ、マルクーゼ、W・ライヒ、J・ゲラッシ、毛沢東らの論文が解説され、第二部「文化革命の思想的遺産」の第Ⅰ章「二〇年代ロシアの前衛的実験」でS・トレチャコフ、O・ブリーク、V・マヤコフスキー、L・トロツキーらの論文が、第Ⅱ章「西欧における政治的前衛と芸術的前衛との合一の試み」でA・ブルトン、J=P・サルトル、テル=ケル集団、J・アンリック、Ph・ソレルス、J=J・グーらの論文が、第Ⅲ章「<五月革命>をめぐって」で作家同盟、作家学生行動委員会、テル=ケル集団らの論文が解説されている。


 続いて、『言語・その解体と創造』(1972年、増補版1985年)に収録された三篇の論文について見てゆこう。
 ④第一部「言語・その解体と創造」は、『展望』誌1971年7月号から11月号にかけて四回にわたって分載されたものであり、⑤第二部「アンガジュマン文学の言語論的再検討」は、『思想』誌1971年11月号から1972年1月号にかけて三回にわたって分載されたものである。まずはこの二つの論文からなる『言語・その解体と創造』が、1972年に筑摩書房より出版されている。その後、岩波講座『文学』第三巻(1976年)所載の「文学言語の<意味>と価値」を収録増補し、かつ、『文化の理論のために』(1981年)中の三つの言語論との連関を解説した「あとがき――連関と補足」を加えて、1985年に増補版『言語・その解体と創造』が同じく筑摩書房から出版されている。 
 彼は、もともと哲学者であり文学者でもあるサルトルの研究者として世に出たのであるし、また、それまでもトロツキーや魯迅について文学論も書いてきていたのであり、<言葉の芸術>としての文学の問題に早くから関わっていたことは、すでに述べてきたとおりである。しかし、この『言語・その解体と創造』で展開された言語論は、単なる哲学的文学論の延長線上にあるものではなく、すでに長い伝統をもち高度の専門分化が進んだ学問分野としての言語学の世界に、ほとんど真正面から切り込んだものとなっている。その研究者としての精力には驚かざるを得ないが、それはともかく、彼の思索の歩みのなかでの言語論の位置づけには奇異な印象を受ける人も多いのではないだろうか。そこで、再び同書の初版まえがきを見てゆこう。以下は、先の引用箇所からの続きである。

 このようにして、私の言語論は、アカデミズム内での学問再編成の要求からというよりは、この現代世界に生きる<口舌の徒>の生存の根拠を顕在化するという実存的欲求に促されて生まれた、いわば<実存主義的>な言語論にほかならなかった。そして、このような<浄化的反省>の態度でもってはじめられた言語論がまず最初に逢着せざるを得なかった問題は、当然のことながら、みずからの言語論をほかならぬ言語自身によっておこなわねばならぬという、言語論に特有のあの自己循環性であった。私はこの問題を、言語階層化理論をもって解決してゆこうとしたわけだが、それによってあきらかとなったことは、言語論で行使される言語とは要するに第二次言語としての理論言語、つまり<メタ言語>だということだった。ところで、すでにR・ヤコブソンも的確に指摘しているように、メタ言語とは言語の機能があげてコードへと集中化したときにあらわれるものであり、したがってメタ言語としての言語論こそ、一切の自己欺瞞を排して正しく己れを自覚化しさえするならば、さきに見た、一般的コードの消失という現代情報化社会のディスコミュニケーション現象を、根本的に救抜する使命を担っているものだということがあきらかとなるだろう。

 以上の記述から明らかなように、彼の言語論の核心をなすものは彼独自の「言語階層化理論」であり、それは自己の言論の実存的根拠を問いただすことを通じて生み出されたものであった。ここにこそ彼の言語研究の核心があるのであり、この<浄化的反省>にもとづく実存的な探求であるという点において、彼の言語論はその政治論や歴史理論とも深いところで結びついているのである。
 もう少しだけ引用を続けよう。

 ……断っておくが、このことは、逆に日常言語(第一次言語)を物神化し、すべてを日常言語で「わかりやすく」語れ、といった卑俗な要求に屈服せよということをなんら意味するものではない。書かれた方言は、書かれたというただそれだけのことをもってして、もうすでに方言ではないのと同様に、メタ言語は、メタ言語であることそのことによってもはや日常言語たることはできなくなっており、それどころか、日常言語たることができないまさにそのことによってはじめて、日常言語の基底にある深層論理を掘ってゆくことも可能となるのだ。ただ、その使命を全うするためには、メタ言語はけっして自己を物神化せず、大きく窓をひらいて、第一次言語や言語外現実からその生命の泉を汲み出し、それによって不断に己れを賦活してゆかねばならぬことを、強調しておきたいのである。
 このようにして、私の言語論を構築する立場は、必然にその課題を二重化せざるを得なかった。すなわち、私は一方では、すべてを第一次言語に還元してしまう日常言語主義(たとえば時枝国語学)や<沈黙>を直接に発話せしめ得るかのように幻想する直接発話主義(たとえばルソー言語論)を克服するために、言語階層化理論を明確に形成せねばならなかったと同時に、他方では、第二次言語をすべてと見、そこだけに閉じこもってしまうラング主義(たとえばソシュールからイエルムスレウへと極まってゆく近代言語学)またはエクリチュール主義(デリダやテル・ケル派)をも克服するために、言語階層性の流動化理論を呈示せねばならなかったわけである。だが、課題の二重性は、ただそれだけにとどまるわけにはゆかなかった。私たちの母国語たる日本語の特性からくる、あらたな課題がこれに加重されるからだ。他の著作〔『イデオロギーの復興』筑摩書房刊〕であきらかにしておいたように、現代日本社会では、超近代と前近代とが、奇妙にも何のけじめもなく癒着してしまっている。……マルクーゼが現代社会の支配形態を特徴づけた<抑圧的寛容>または<寛容的抑圧>という特性は、実は日本古来の伝統的な支配形態でもあったことを自覚しなければ、ほんとうには何事もはじまりはしないのだ。とすれば、このような精神風土のなかでは、言語の分野でも課題を特殊に二重化せねばならなくなるのは必然であって、言語における近代主義と前近代性との二重の敵と闘うために、私の言語論は、またひとつ、特異な屈折を強いられることとなったのである。
 実際、言語のブルジョア的存在様式を超えようとする言語論者たちは、直接発話主義者にしろエクリチュール主義者にしろ、近代社会における言語の病根をもっぱらコトバの明示性=所記のなかに見て、これを克服するために含意性=能記だけのコトバを創造しようとする――前者は第一次言語の含意性を、後者は第二次言語のそれを重視する――傾向がつよいが、ここには実は大きな錯乱がある。たとえ言語のブルジョア的存在様式とは、<契約>的人間関係でのコトバをモデルとした交換価値による使用価値の抑圧、所記による能記の抑圧、明示性による含意性の抑圧(論理中心主義)だとしても、そこにあらわれるコトバの論理性とは、けっして論理性一般ではなく、含意性を捨象して明示性だけをのこす特殊に抽象的な論理性、いわば<部分合理性>でしかないからだ。したがって、これにたいして、こんどは逆に明示性を捨象して含意性だけをのこす特殊に抽象的な情感性を対置したところで、それはなんら前者を克服したことにはならず、それどころかむしろ、まったく対蹠的な前者と後者とが仲よく並存している(たとえば、裁判所や官僚どもの三百代言的な論理言語と、テレビコマーシャルの「しびれん」ばかりのフィーリング言語との並存をかんがえてみよ)ところにこそ、実は言語のブルジョア的存在様式の特徴があるのだ。


 以上のように、彼の言語論の課題は、まさに彼が他のところで追求してきた文化革命や日本的現実との対決の課題と通底しているわけだ。
 そして、さらに次の部分では、次の時期の文化論および言語論と結びついてゆく視点が、つまり、一般記号論へと結びついてゆく視点と語用論(言用論)へと結びついてゆく視点とが呈示されている。

 さて、言語とは単にコミュニケーションの一手段ではなく、それに先立って<内語>(内的言語形式)として人間の思考そのものを根本的に規定することによって、言語以外のそれをも含む一切のコミュニケーションの条件をつくるものなのだという点で、私の言語論も、フンボルトからヴァイスゲルバーにいたるドイツ言語学の伝統的見解を受容している。ただ、母国語による思考の規定をあまりにもリジッドにかんがえるその民族主義的偏見(はなはだしきはその民族的<ことだま信仰>)にはとうてい同調しがたく、やはりレヴィ=ストロースに倣って、翻訳可能性こそ言語の本質であり、翻訳不可能なものは言語ではない、と言うべきだとかんがえる。尤も、翻訳と言えば、いままで、もっぱらコトバの明示性の線に沿ってのみこれをかんがえるというのが常識であったようだが、このように明示性の線で言語的普遍子をもとめたのでは、論理実証主義や分析哲学の論理中心主義的思考の誤謬にふたたびまろびこむこととなり、十七・八世紀のデカルト的合理主義とも十九世紀の科学的合理主義とも異る新たな意味論的合理主義を構想している私たちとしては、これとはまったく別の方向を模索してゆかざるを得ない。幸いにして、現代の構造主義は、明示性の宿る所記よりも含意性の宿る能記の方面に言語的普遍子をもとめてゆく趨勢にあり、私たちも、その研究の成果から大いに学ぶ必要がある。ただ、所記を捨てて能記だけに言語的普遍子を掘るのもやはり一面的たるをまぬがれず、また、たとえ<含意性の言語学>こそが必要だとしても構造主義でのようにはじめから第二次言語の立場に立ったそれでは十分でなく、どうしても第一次言語の含意性から、さらには言語場そのものまでも支配しているロゴスを顕在化するよう努めねばならない。のみならず、単に静態的なラングとしての言語体系だけに目を奪われることなく、むしろ、有限な既成コードをもちいて無限にあらたなメッセージを生産してゆく言語の動的な生成過程そのもののなかに、私たちは言語的普遍子を掘ってゆく必要があるとおもわれる。そのような観点から、まだ多くの疑問点を残しているとはいえ、チョムスキーの変換生成文法の行方について、私は今後ともふかく注目してゆきたいと考えているが、一方、世のチョムスキー研究者たちも、この文法を英語教育の単なる技術のせまい枠内に閉じこめないで、もういちどチョムスキー自身の壮大な初心にたちかえって、言語的存在としての人間の普遍的事実に目を向けるようにしてほしいものだと思っている。

 さて、この言語論が書かれてからすでに40年もの年月が経ち、その間に言語学の世界も大きく様変わりした。1980年代以降に隆盛する認知科学・脳科学系の言語学や言語類型論など、言語学はますます自然科学に近づいていっているように見え、近年ではソシュールの名を聞くことさえ少なくなっているように思われる。そのようななかであればこそ、竹内芳郎によるこの実存的・哲学的な言語論、言語観や方法論を鋭く問うような言語論は、なお一読に値するものであるだろう。
 そのようなわけで、ここに単行本一冊分を要約したのであるが、この言語論という特殊な学問領域において彼の思想を明示化するには、他の論考の要約とは異なって、他の言語学者や哲学者への言及を省略するわけにはゆかなかったため、圧縮できる部分は相当に限定されていた。特に、第一部に関しては、可能なかぎり、言及されている理論家の名前を残すようにしたため、要約とは言いながらも著しく長い文章となってしまったことは、了承していただきたいと思う(余談になるが、初版まえがきに「この言語論のフランス語訳の困難な作業が小宮徳文氏の手によって目下進行中である」との記載があり、その後の経過が気になる方もいるかもしれない。以前、小宮氏本人にその点を確認したところ、その翻訳の作業は途中で断念したとのことだった。詳しい事情までは聴かなかったが、残念なことではある)。
 以上が、この時期のこの分野の仕事の概観である。