検閲 慰安婦問題も情報と資料を理論的整合性を根拠に理性的にながめさえすれば正しい情報を読み取れる | 社会の窓

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思いついたこと、よく分からなくてトモダチに聞きたいこと、日々の近況など書き留めておいています。

不自由展への検閲の事件は、事の重大さと国際社会での受け止めの深刻さに比べ、 
当事者であるはずの日本社会に緊張感が希薄である。 

美術展というと。一部の趣味の人々の娯楽で、

お絵かきの展覧会が中止になる程度のことでは、

生活や社会環境に直結しないと受け止めている。という背景もあるのだろう。 
 

新聞や報道が書き換えられるというのはわかりやすい検閲のありかたですが

美術展のようなものに公権力や政治家という人々の政治意志からの検閲というものが 
行われるということ、これが看過されるということは重大な事態なのだ 

いったん検閲というものがなされてしまうと 
正しい情報と、そうでないものの間を(間違ったものとはあえていいません) 
精査する機会が失われてしまう、 

正しいものと正確ではないもの 
それらがあることで 
正しいものの正しさが補完されていくもので 
その機能が失われるということに危機感が強いのです 

正しい情報が雑多な情報で補完されることの今回にも関係する身近な例では 
慰安婦問題と一般に言われるものです 

作品展の撤去要求の一つに 
名古屋や大阪の市長さんや、内閣の幹事長。などの見解に 
歴史認識の誤りとして つまりは間違った情報だから展示してはダメ 
という理論がありました 
人それぞれ意見はあるでしょうからそれをどう思うか発言するかは個人の自由の範疇として 
結論から言うと、現在ある資料をながめれば 第二次世界大戦中 日本軍には慰安婦問題といわれる

 強制連行や暴力、虐待などに象徴される、一連の問題が様々な形でたしかにあったのです 
それは検閲というものを強く拒否して今でも頑張っている組織と空間 
図書館という場所で、古い資料新しい資料などなど雑多な資料を数多く眺めれば 
すんなりわかることなのです 。当時や近い時期の一次資料。当時のルポルタージュ。

現地からの報告、連合軍のレポート。戦場となったアジア各地の人々の記憶。

それらの資料を丹念にたどっていく作業から導き出される結論です。


国際社会の識者。の平均的なごく常識的な認識も、 
公共図書館で雑多な資料を眺めた人々の認識とほぼ一緒です 

自分の好きなウェブサイトや視聴率のいう商業のうえになりたったテレビでの芸人のコメントなどばかり眺めていると、

すぐにデマというものに染まってしまいがちです 。

デマというものは人々が受け入れやすく工夫して作ってあります

知識と理論的思考という防具をまとっていない脳にはすぐ入り込みます
しかし検閲を拒絶した資料群を一つの塊としてながめていれば 
あるていどはデマを打ち消し、資料と資料を理論的整合性と理性の作業で結び付けていけば

ある程度は自己で修正しながら冷静に情報を眺めることができるものなのです 

だが検閲が横行するとそういうわけにいきません。 
どこかで誰かが検閲した情報だけで判断せねばならなくなります 

国際社会などはそれを恐れていて、日本の実情が 
「一部のなにか病的な人々が騒いでいるだけだろう、奇妙な説がまかり通るのもそれも自由が保障されているゆえに、

自由のリスク民主主義のコストとして一部には異常なものもまじるのだろう」

という認識が 

「日本という社会は、もはや政府ぐるみ社会全体で発狂しているのではないか 
自覚症状はなく、自己で修正してほどほどのところに落ち着く能力も失われている 」
という心配をしているのです 
その心配と危機感が国際社会のそれよりも日本国内で希薄ということに強い危機感をいだいている 

なんでそんなこと大げさに心配するのかというと、世界史にそういう例がいくつもあるからで、現在も世界各地でそういった心配の種は起こっているからです。日本という社会集団もそこそこ大きな経済力と人口、軍事力があり国際社会への影響も小さくないと予想されるからです。 

困ったものだとおもいます。