基本的に個人の肖像は丁寧に扱わねばならない、だが昭和天皇の写真を燃やすアート表現は合法 | 社会の窓

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愛知トリエンナーレ 表現不自由展の閉鎖で 有識者を招いての公開フォーラムが開催されていますね。

 

 

基本的には、個人姿を映した肖像のようなものは丁寧に扱うのがマナーだとおもう。だが権力への抗議として。権力者個人の肖像をもちいて、怒りや抗議の意思を示すのは今のところ合法で、時や理由によっては必要なことである。

 

だから今回愛知トリエンナーレの表現の不自由展には、作品の側に問題はなく、それにたいして検閲の圧力やお暴力と破壊による脅しが問題である。すなわち警備上安全上の問題をクリアしたうえで速やかに展覧会は再開させ得ねばならない。

 

ヘイトには基準があるのです 国内のヘイト禁止法にもヘイトの基準があります

*殺害や暴力を予告する言動 

(殺すぞ、死ねなどなどですこれからは火をつけるぞも含まれるでしょう)

*存在の否定をする言動

(出ていけ、帰れ、消えろなどの存在の否定です、存在は生存権や社会権の基本ですから)

*特定の障害や病気など個人の特性へのあざけりや誹謗

(これは障害者差別解消法でもうたわれており、特定の指向傾向や、子供やお年寄り、性別、貧困、門地出生などでその人個人の特性を理由に誹謗やあざけり、笑いを得ることです)

*特定の宗教などを対象とした誹謗

 (表現の自由でも、宗教などは批判の対象としてはならないのが国際的な人類普遍的なルールです、過去の反省からです、宗教とはコワイモノだみだりに触れてはならないという認識でもよいでしょう)

 

では、今回の展示物がこのヘイトにあたるかというと、当たらないわけです。

そして、今回の展示会への脅迫や圧力は

展示会の閉鎖による発表機会の喪失や、ガソリンまく、殺す、射殺する。などは明らかにヘイトで、またその他の憲法や国内法にも抵触します。

また批判の声としてよく聴くもののひとつで、じゃあコーラン破壊しても表現の自由だよな。という主張は成り立ちません。これは明確にヘイトです。

 

平和の少女像はヘイトクライムにあたりません、この彫像に暴力的、誹謗憎悪的なヘイトクライム要素はまるでありませんから。それでいて強い抗議の意思を示すことになるのなら、そのことがこの像のアートとしての特性です。

 

昭和天皇の像を用いることは、今のところヘイトクライムにあたりません。昭和天皇という戦争指導者ともいえる当時の国家元帥の肖像を用いてデモンストレーションの戦争への抗議の詩を示すことはアートの役割です。しかし、一点。僕個人は展覧会再開したほうが良いとおもうので、じつはあまり言いたくないのですが。この像を批判する人々がもしも、

「昭和天皇は宗教上神道における「神」であり信者にとって信仰の対象なのである。」

という解釈を示してきた場合です。ヘイトと表現の自由の兼ね合いを議論した場合、今の理論上この解釈はかなり説得力が強い。

まあ議論が必要でしょう、ヒロヒト氏個人には、戦争当時の権力者、権力システムの一部それも頂点であったという事実から国際的にも戦争指導者の一人と数えられている世界史の上での歴史的人物の側面がある。したがって歴史を語るアートの素材として用いる強いメッセージ性をもったものである。いろいろ議論の対象となるでしょう。

 

今でも政府や権力の決定への抗議の意思を示す手法として、政治家や権力者の姿似の人形やカリカチュア、イラストなど造形物を痛めつけて抗議や怒りの意志を表現する方法があります。黙認されていますが。それは個人の肖像は人々の記憶に認識されやすくメッセージ性が強いので、デモンストレーションとしてはイメージの広がり周知の効果が高いという側面があるからです。公人や権力者はそのくらいは受容しないといけないという認識もあるからです。

 

これは僕個人のオリジナルな、法律や条約などの根拠ない、「ただ単なる思い。」というものなのですが。

どのような場合でも、個人の姿をしたものを揶揄したり暴力で痛めつけ破壊することで、怒りや抗議の意思を示すのは、どうかなあ、なるべくやらないほうが良いと考えています。

みんなが文字を読み記号や数字を理解するわけでないから、人の姿はメッセージ性が強くわかりやすく効果的な場合があるのはわかるのですが。

僕個人の事情と背景なのですが、僕は保育士で図書館員であったということがあり。子供の発達段階として人の形と姿をしたものが痛めつけられている図を眺め続けることの影響とかを考えてしまうのです。

子どもが社会から受けた影響は未来に引き継がれます。人間の争いの連鎖と相克を考えた場合。人の姿をしたものが痛めつけれて人々の怒りの大きさを知るという表現が、何か他の方法で代替できないかとは思うのです。

 

話もどって、昭和天皇の肖像写真を燃やすデモンストレーションが、アートして展示すべきかということには。現時点の国内法や国際上の認識の上で、これをアート展から締め出す理由はない。今の時点では一般の個人の肖像を痛めつけるのはヘイトだが、権力者でもあった昭和天皇の肖像画をアートの素材とする解釈は可能である、したがって合法。だが、将来的に基準と共通認識を作る必要を感じる。 というのが僕個人の認識です。