表現の不自由展 愛知トリエンナーレ の論争 | 社会の窓

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思いついたこと、よく分からなくてトモダチに聞きたいこと、日々の近況など書き留めておいています。

結論から言うと 僕は展示は行うべきだとおもう。

まず、 税金で賄われる公的な展覧会であればこそ、憲法や表現の自由は遵守されなければならない。

と考えるからだ。

 

展示の中止という最も極端な形での、表現の不自由を体現することとなってしまった。

民主主義の基礎である自由の秩序を攻撃する脅迫テロリストに対しテロに屈しない政府は毅然とした対処をせねば

抗議するまではそれも自由だしむしろ自由個人としての尊い権利ともいうべきだが、

脅迫やテロ予告は全然違う次元のはなしなのだ。

 

平和の少女像への感情は様々だとおもうが、この像の造形は良く工夫されており、

造形自体にヘイトや誹謗表現はいっさいなくそれでいて強い抗議となっている。

これを撤去などすれば逆に国際社会から批判され反論の余地がない 。

 

 

見たくもないという人には申し訳ないが

議論の前提としてよくよく眺めてみていただきたい

 

表現に自由にもモラルとして制限されている

ヘイト表現には明確な基準があって

ヘイトクライムには他者の身体や精神を傷つける行為

死ね。や暴力の予告

誹謗中傷などで

これに宗教や文化というものには表現自由といえど

からかいや誹謗の材料にしてはいけないことになっている

実は王室などへの批判は、ふくまれていない

 

そうなると、この「平和の少女像」のどこに

誹謗や憎悪表現、身体や精神への暴力が含まれるのかということである

 

今回の展示の状況

作品の状態をみても

 

この状況で前提条件のない国際社会の第三者から眺めた場合

この「平和の少女像」を非難するのは理論的に相当難しいのである

嫌いだ取り除きたいともし考えるならば、そうとうに考えなければならならない

逆の視点からすればよく考えられてあるのである

これが国際社会の各地で「平和の少女像」がなぜかすんなり受け入れられている理由でもあるのだ

だから下手な撤去などを強引に行えば 

国際社会の第三者からみれば 

非常におかしなことをしているようにしか見えないのである