ある図書館の児童書読み聞かせグループ現場から 子どもの本の勧善懲悪の懲罰と残虐性の扱い方  | 社会の窓

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ある図書館の児童書読み聞かせグループなどで、 

赤頭巾ちゃんなどいくつかの童話を原作どおりに子供たち伝えるべきであるという意見があるという。

この説では赤頭巾ちゃんの原作では狼は殺される。それを残酷として子供たちに伝えないとするのは、原作に作為を加えることであるので、こどもたちに偽りを伝えることになる。とする理由と。罪を犯したら懲罰されるという勧善懲悪を子供たちに伝えることがより教育的である。という意見である。その一方で、残酷な描写は、幼い子供たちの心に恐怖心を植えつけることになるので、子供が幼いうちはさけるべきである。とする意見である。

 まず原作どおりであるべきかいなかについては、赤頭巾の例で言えば、確認できる出版物として最も古い原作のシャルル・ペロー(フランス)の赤頭巾物語では、主人公の少女赤頭巾は狼に食べられてしまう。狼が殺されるというストーリーはその後ドイツのグリム兄弟の編纂した民話集の中にあるもので。赤頭巾の物語だけでも、様々な変遷をたどっているし。シャルル・ペローもグリム兄弟もそれまでヨーロッパ各地にあった伝承をつなぎ合わせて編纂したものであって。何を持って原作とするかは明確にはできない。したがって、赤頭巾の結末が違っていても偽りを伝えるということにはならないので。すなわち、子供たちに読み聞かせする、図書館の本棚におくのは、どの編集を採用するかのちがいである。現代の状況に合わせた編集。新作の赤頭巾があってもかまわないし。朗読、読み聞かせのようなときには、読み手の脚色演出を交えた新しい創作があってもよいと考える。

 赤頭巾ちゃんの物語で、狼は殺されるべき、懲罰を受けるべきである。そのほうが子供たちに教育的である。とする意見と子供たちの幼い心に残虐な恐怖心を呼び起こすべきではないとする意見の相克は。死刑廃止などに向かう人権思想と、司法の現場などでの厳罰化向かおうとするグループの意見の相違だろうとおもう。この件に関しては、僕個人は死刑に反対し、人権尊重の立場から思想をつくるものなので、その立場からの考えと受けとめていただいてよいが。

 勧善懲悪や因果応報の視点から、悪いこと、罪を犯せば懲罰をうける。よいことをすればその褒美があるという一見シンプルな理論は、罰が恐ろしいので行動を抑制する、儲けを期待して行動をする。ということにつながると考える。それが社会生活を秩序立てスムーズにする教育であるという理論も成り立ちうるだろう。

懲罰というシステムは、人間本来の自然に備わったものではない。野生動物に群れや社会生活を行うものは、馬やサル、ライオンや狼などいくつかあるが懲罰のシステムはない。人間も原始社会では懲罰が行われた形跡はいまのところ見つかっていない。現存する懲罰の発想は、古代バビロニアのハムラビ法典の目には目をの復讐法からであろう。懲罰や復讐は人間本来のあるべき姿というわけではなく、社会を形作る経過において人為的に作り上げられたシステムである。

 一方、残虐性というものはどうだろうか。ほか生き物が苦しむ姿や殺して喜ぶという感情と行為である。

これは野生動物にはほとんど見られないが。鶏など家畜化して集団で飼育すると、弱い固体を苛め抜いて殺すことなどよくある。人間にも狩猟技術が発達してきた新石器時代には必要以上に獲物を大量に殺したとおもわれる跡や、生贄という概念が古代からある。

残虐性は、狩猟を行いほかの生き物を捕らえて殺し食べる生き物には少なからず、本能として備わっている。しかしほとんどの生き物は、生きていくぎりぎりの厳しい環境のなかで、必要のない狩猟や殺戮にまで体力を使うことはない。人間は知能を発達させ狩猟技術も向上させてきた。その発達がある水準以上に達したときにか、獲物を採りすぎることの弊害が出てきた時期があるだろう。それをしったっとき、獲物をとり過ぎない、満腹する欲求や残虐な悦びを抑制する必要が出てきた。そのときに本能の欲求を抑制する理性というものが生まれたとかんがえる。それはおそらく親固体が子固体をいつくしみ守ろうとする本能を、学習によって理解して理論化してコントロールされながら発達したものだと考える。

 狩猟採取生活を今にとどめる民族の伝承の多くには、採集のし過ぎを戒め再生可能な自然環境への配慮を促す抑制的な理性の働きを語ったものが多くある。

人間が人間として最初に備えるべき人為的資質は、理性であると考える。

子供たちの人格形成の初期において、人間の歴史の発達段階をふむのが自然体とするならば。子供たちの幼い心に大人たちが最初にはぐくむのは、自分以外の人びとや、ひいて動植物生き物や環境への慈しみと優しさを基盤とした他者への配慮という理性であるべきだとおもう。

その次の段階で、他者への慈しみと配慮をふまえた善悪正邪の概念を十分理解する必要があるだろう。

悪いことをしたら懲罰を受けるという勧善懲悪は、理性を十分にはぐくんだ次の段階の発達段階であるべきだとおもう。その時期をいつにするかというのは、難しいが。正しいことと悪いことを明確に説明するということは、ひとびとはしばしば口にするが、これは意外とわかりにくい答えの出ない問いなのである。

これまで多くの宗教や思想、国家社会のシステムとしての法と裁判などなどが試みてきているが。いまだに完全な応えは出ていない。

真・美・善の追求たる哲学、善と悪はいまだ人間にとって未完成の問いかけなのである。

懲悪の基盤となる悪の概念がいまだにあいまいであるのに、懲罰だけが先行して子供たちの幼い心に刻まれるのはいかがなものかと思う。善と悪の概念が不完全であるのに懲罰が怖いという状況だけが先行してしまえば。懲罰を受けない状態ならかまわないという理論を成立させかねないというか、現代社会はすでそのように動く理不尽を抱えている。(特に日本の社会は顕著なように思う)よいことをすれば得をするというりくつも。結局は人間を恐怖と欲望でコントロールしようとする試みではないんだろうか。

 また懲罰だけが先行して、懲罰は残虐性を楽しむ口実として機能している側面がある。いじめを否定してより大きなイジメによって懲罰的に抑制しようとしたり。事実の把握よりも先行して厳罰を主張する外部者や、厳罰による報復をのぞむ被害者の報復感情の声が、日本には特に大きい。

 子供たちの教育現場、特に初期の幼児教育において。懲罰と報償は実は慎重に用いるべきで、理性こそが人間の自我として最初に伝えられる概念であると思うのだ。それが人間の歴史とも精神の発達段階としても自然なことであるのだ。


福山克也 2012 10