教師にとって生徒とは無制限に守るべき対象である | 社会の窓

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教師にとって生徒とは無制限に守るべき対象である
 なにも教師といわれる職業の人全員が、この職責を忠実に果たしているとはいわない。むしろもし果たしていたら、一般社会とは接点も共通点もない組織となって。学校教育というシステムはとっくに崩壊していただろう。あくまで理論上のことであるが。しかし、わずかであってもこの職責を果たそうとしている教師がいるからこそ、教育は今でも必要不可欠なものと認識されているのである。
 十代の若者、思春期ともいわれる年代の少年少女は、新しいものをどんどん取り込んでいく力に満ちているがゆえに、その行動はときとして破壊的な激しさをもつ。このことは、大人といわれる年代の人の大半は、体験し認識していることである。
 彼らは障害や、その疑問を身近な大人にときとして体当たりでぶつけてくる。この場合体当たりとは、比喩的表現上のことではない。知的な疑問を執拗にぶつけてきたり、性や暴力といったちからを、まさに体ごとぶつかってくるのである。
そのような時、すかす、かわすというのが、よくできた大人社会人の賢いありかたである。そういったあり方の手本を示すのも、一つの方法だろう。うまく利用するというのは最も賢いありかただろう。
 もし、がっぷり四つで正面から受け止めるとなれば、これはかなりのリスクを背負うことになる。
大人といわれる人びとは、かつては自分自身も、新しい知識を次々と獲得して、理想を描き、理想とかけ離れた理不尽に怒り、憤った体験を持つにもかかわらず。大人となってからは、かしこくやりすごすことに専念しているのではないだろうか。リスクを背負って正面から受け止めた大人は果たしてどのくらいいるのだろう。おそらくリスクを恐れない愚かな人は大人というものになることなく、その大半は社会から消えているのだろうとおもう。かしこくやりすごすことをおそわり覚えることができた子供が大人になっていくのであろう。

福山克也 2012 7