イジメが原因とされる自殺の問題が、こうも長引くとは正直思っていなかった。いじめや差別といったこと | 社会の窓

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思いついたこと、よく分からなくてトモダチに聞きたいこと、日々の近況など書き留めておいています。

イジメが原因とされる自殺の問題が、こうも長引くとは正直思っていなかった。いじめや差別といったことに極めて無頓着なこの国の国民性の前には、一過性のものだろうとおもい、すぐ忘れ去られるであろうこの事件を、すこしでも自分のなかで考えておきたいとおもって、前回かきとめたのだった。
もっとも事件全体の特に報道における経過は、イジメを誹謗しているようで、あらたなイジメのゲームを大衆が楽しんでいるだけである。教師や教育委員会とくに政治と結びついている、日教組なる団体の影響力をそぎたいグループが関西という地域で力を増しているということである。政治の綱引きには、見れば明らかにわかることで、興味はない。
イジメは一部のふとどきな教育委員会や教師が限定された教育現場で引き起こしていることではない。日本の死因第4位は自殺ときいたことがある。その原因の大半はいわゆるイジメが原因ではないだろうか。イジメが引き起こすストレスからの障害までふくめたら、イジメは日本の死因の第一位におそらくなるだろう。
 イジメはたいがい強者が弱者に、大勢が少数にたいして行う儀礼である。しばしば自分の身を守るために、人びとはイジメに加担する。これに手を染めたことのない人はほとんどいないだろう。
ぼくは以前イジメや差別を、刑法で犯罪として取り締まれるよう法整備するなどといったが。もしほんとうに差別やイジメが犯罪として裁かれれば。日本国民の大半8割以上が刑務所に収監されることになるだろう。倫理や道徳といった論点からは明らかに正しくても実現は困難だという難しさがここにある。

 教師や教育委員会の不手際を誹謗すればことはすむというほど単純ではないもうひとつの理由が。公共教育という現場の特殊性と難しさ、思春期の少年少女を一手に引き受けるという不自然なコミュニティーの非合理性である。
 学校教育とはもともと、いくつもの意味と定義の上で人工的で不自然な空間である。生徒たちの多くは自らの意思で学校に集ったのではない。強制されたのである。このことは組織としての集団意識の形成の上で大きな欠如となっている。学校の社会でも部活動などは自分の意思で集まった集団であるので、集団組織としてのまとまりを維持しているが。同じ学校内でも教室という単位は組織としての態をしばしば喪失する。生徒は部活の顧問教諭や先輩の指示には割りに忠実だが、教室の担任には自分たちのリーダーという必然性を見出していない場合もおおい。この現象は教師の能力というより集団形成の経過の手順からありがちなことである。
 それでも教師にとって生徒とは保護すべき対象である。教師にとって生徒である以上、その責任は理論上無制限である。生徒に被害者も加害者も色分けはない。すべて守るべき存在である。誰から何から守るのかといえば、興味半分に騒ぎ立てる(僕も含めた)大衆からである。
 いじめの問題から言えば、いじめから生徒を守れなかったことは、教師たちの明らかな非である。しかしその後、興味本位のマスコミや政治家、大衆に一部の生徒の情報を提供し、批判をかわそうとするならば、それは新たな誤りを重ねることになる。教育の理論としては明らかな誤りである。
一般の理論とは相反する部分があるかもしれない。もともと教育機関は不自然な成立過程を経ているのである。
 思春期の少年少女たちの心理の難しさ。人間のうち特に大人といわれる人びとは、そのことを体験しているはずであるのに、この面倒くさい煩雑な過程をわざわざ隠蔽して、効率的な社会運営の能率向上のために、学校という空間と一部の専門職に責任を転嫁してきたのである。
 無論、教職という人びとすべてが、この矛盾を無制限に背負って苦悩してきたわけではない。もともと成立しがたい矛盾したものなのである。そのままうけとめたらとっくに崩壊している。教育委員会に代表されるような、役所的バランス感覚を内包しているからこそ、かろうじて維持できている部分がある。
 福山克也 2012 7