24-3 東山文化(15世紀後半、応仁の乱前後)

 

応仁の乱(おうにんのらん)後、足利義政(よしまさ)が京都の東山(ひがしやま)に山荘(慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく)はその遺構)を営んだところから、15世紀後半期の文化は東山文化と呼ばれている。

 

慈照寺銀閣は上層が禅宗様(ぜんしゅうよう)、下層が書院造(しょいんづくり)で構成され、この書院造に示されるように、簡素(かんそ)・幽玄(ゆうげん)・枯淡(こたん)の美が重視された東山文化の時代に、武家はついに、その文化的独自性を創出するにいたった。

 

 書院造と枯山水(かれさんすい)

書院造は、慈照寺銀閣の下層や東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)などにみられる建築様式。

(たか)・付書院(つけしょいん)などをもち、近代和風住宅の原型になった。

 

また枯山水は、岩石と砂利で自然を象徴的に表現する、日本特有の作庭様式をいう。

龍安寺(りょうあんじ)大徳寺大仙院(だいどくじだいせんいん)西芳寺(さいほうじ)などの庭園が有名。

 

 水墨画(すいぼくが)と茶道(さどう)

水墨画では、雪舟(せっしゅう)が日本的様式を創造し(『四季山水図巻』(しきさんすいずかん))、茶道では、闘茶(とうちゃ)などの流行を経て、村田珠光(じゅこう)が禅(ぜん)の思想にたつ侘茶(わびちゃ)を創出した。

 

 一条兼良(いちじょうかねよし・かねら)

一条兼良は、「日本無双の才人」、「本朝五百年以来この殿ほどの才人は御座有るべからず」と評された、室町時代を代表する学者。

その代表的著作『公事根源』(くじこんげん)(朝廷の年中行事を詳説した有職故実(ゆうそくこじつ)の書)、『樵談治要』(しょうだんちよう)(9代将軍足利義尚(よいひさ)への政治意見書)、『花鳥余情』(かちょうよせい)『源氏物語』の注釈書)を確認しておきたい。

 

 吉田兼俱(かねとも)

反本地垂迹説(はんほんじすいじゃくせつ)に基づく唯一神道(ゆいいつしんとう)を完成して、神道を中心に儒学・仏教を統合しようと試みた。

 

 大和絵(やまとえ)と彫刻・工芸

伝統的かつ日本的絵画のことを意味する大和絵の分野では、応仁の乱後、土佐派(とさは)の基礎が固められ、また新しい画風をもつ狩野派(かのうは)が生まれた。

 

彫刻・工芸の分野では、(のう)の隆盛につれて繊細な能面が制作されるようになり、また、後藤祐乗(ゆうじょう)が刀剣にとりつける金具の装飾様式の水準を高めた。

 

 連歌(れんが)

南北朝時代に二条良基(よしもと)が連歌の規則(『応安新式』(おうあんしんしき))などをまとめたのち、東山文化の時代には、宗祇(そうぎ)『新撰莵玖波集』(しんせんつくばしゅう)などを編纂して正風連歌(しょうふうれんが)を確立した。

 

慈照寺銀閣

 

書院造

 

雪舟「秋冬山水図」(しゅうとうさんすいず)(冬図)