問題は、「200字論述新研究37(問題15・16)」で確認してください。

 

問題16 解説

 

松方財政の開始

 

1870年代後半に自由民権運動が高揚すると、明治政府内でも国会開設に関する議論が活発化し、漸進的な国会開設を唱える伊藤博文らと、国会の即時開設を主張する大隈重信との対立が深刻化した。

 

加えて、北海道の官営事業を安値で政商に払い下げようとした開拓使官有物払下げ事件が発覚し、民権派の政府攻撃が強まるなかで、政府内でも、財政政策を主導していた大隈重信が払下げに反対するという事態が生じた。

 

1881年、政府は大隈重信を民権派の動きに関係があるとみて罷免し、国会開設の勅諭により、1890(明治23)年を期した国会開設を公約する一方で、開拓使官有物払下げを中止した(明治十四年の政変)。

 

この明治十四年の政変後、松方正義大蔵卿に就任し、明治政府の財政政策は大きな転換をみせることになった。

1880年代に松方によって実行された、インフレの克服による財政再建と銀本位制確立をめざす政策のことを、松方財政とよんでいる。

 

松方財政の前提

 

松方財政を理解するためには、1870年代後半の経済情勢を知っておく必要がある。

 

この時期には、西南戦争(1877)にともなう戦費支出に国立銀行設立ブームが重なり、インフレ(通貨供給量の増大)が急進していた

 

国立銀行が多数出現するに至る過程については、以下の整理を読んでおいてほしい。

 

国立銀行条例

明治時代初期にあたる1872年、渋沢栄一らによってアメリカの制度(National Bank)をモデルとする国立銀行条例が制定された。

この条例は、国立銀行(紙幣発行権をもつ民間銀行)の発行する国立銀行券に正貨(金)兌換を義務づけるもので、そこには、民間の経済力を活用する方策をとることで兌換制度の確立と近代的銀行制度の導入をめざすという意図があった。

 

しかし、国立銀行券は信用の確保に失敗して兌換請求が相次いだため、この政策で兌換制度を直ちに確立することには失敗した(当初設立された国立銀行は4行のみ)。

 

このため1876年、政府は国立銀行券の兌換義務をとりのぞく措置をとった。

以後、1879年の第百五十三国立銀行設立を最後に認可が中止されるまでの期間、国立銀行は設立ブームを迎えたが、一方で、不換紙幣化した大量の国立銀行券はインフレを助長する一因になった。

 

続きの解説は、「200字論述新研究42(問題16を考える➋)」をご覧ください。