問題は、「200字論述新研究11(問題5・6)」で確認してください。

 

問題5 解説

 

律令制下における土地・人民支配の原則

 

中央集権的システムを支えるために、律令政府は、土地と人民の支配について次のような基本方針をとった。

 

公地公民制と個別人身支配

 公地公民制

富の基盤である土地と人民は国家が所有する

なお、この用語はあくまでも学術用語で、律令には公民の語がないなどの弱点を含んでいる。

 

 個別人身支配

国家が個々の人民を直接把握し、調・庸・雑徭などの人頭税(土地や物ではなく人を対象に課す税)を徴収する

 

この原則を前提にして、律令政府は、6年ごとに6歳以上の男女に口分田を与え(班給)、死後とりもどす(収公)というサイクルを確立して課税対象者の確保をめざす班田収授法を機能させようとした。

具体的には、6歳以上の良民男性に2段(1段=360歩)、同じく良民女性には男性の2/3=1段120歩(720歩×2/3=480歩)が班給された。

 

戸籍計帳は、このために用意された台帳である。

 

戸籍と計帳

 戸籍

口分田班給などのために人民を登録した基本台帳

6年ごとに作成(「六年一造(いちぞう)」の造籍)。

 

令の規定では30年間保存されたのちに廃棄されることになっていたが、当時、紙が大変貴重だったために、現実には廃棄されずに他の官庁・官寺などで裏面が再利用された。

 

 計帳

調・庸などを徴収するための台帳(課役賦課の基本台帳)。

毎年作成。

そこには、性別・年齢などから個々の身体的特徴までが記載された。

 

律令制下の農民負担

 

律令制下における農民の諸負担(租税・労役制度)については、次の律令制下における農民の諸負担を参考にしてほしい。

 

律令制下における農民の諸負担

 調

おもに正丁を対象とした人頭税。

麻布2丈6尺をはじめとして地域の特産物を納める中央財源)。

 

 

おもに正丁を対象とした人頭税。

都での年10日の労役歳役)にかえて麻布2丈6尺を納める(中央財源)。

 

 

口分田など田地を対象とした土地税

収穫の3%程度を稲で納める。

人頭税とは性格が異なり、また負担は軽く積極的な財政機能も果たしてはいなかった(地方財源)。

 

 雑徭

おもに正丁を対象とした人頭税。

年60日以内、国司のもとで土木事業などに従事する(地方財源)。

 

 公出挙

貸しつけられた稲の利息(利稲)を納める(地方財源)。

 

 義倉

備荒貯穀。

戸ごとに粟(あわ)などを納める(地方財源)。

 

 仕丁

50戸(1里)ごとに正丁2人を徴発。

中央官庁の土木工事などに従事させた(中央財源)。

 

 兵役

正丁の約3分の1を各地の軍団に配属。

軍団兵士から、防人(→九州の防衛)・衛士(→宮城(きゅうじょう)の警備)が選抜された。

 

白村江での大敗(663)以後の7世紀後半、唐・新羅の日本侵攻の可能性が危惧されるなかで組織された軍団制は、対外情勢の緊張を前提に全国から兵力を動員して大規模な国家間戦争に備える徴兵制軍隊だった。

 

 運脚

調・庸を各地方から都へ徒歩で運搬した人夫をいう。

 

本問の関連事項として、律令制下における農民の諸負担を、ここに示した整理を前提にして2つの角度(対象と内容)から分析しておくことにしたい。

 

まず、賦課の対象という点では、国家が直接に個々の人民を把握する公民制を原則とし、租税・労役制度の中心となる庸・調・雑徭などは、いずれも人頭税で公民男性を対象に課せられたことがわかる。

 

次に、農民の諸負担を内容面から大別すると、稲・粟などの穀物を徴収するもの(→租・公出挙・義倉)、繊維品・手工業品など穀物以外の物産を徴収するもの(→庸・調など)、公民男性の労働力・軍事力を直接徴収するもの(→雑徭・仕丁・兵役など)という3系統に分類することができる。

律令制下における租税・労役制度は、現物を徴収し、人民を徴発する体系的なシステムだった。

 

公地公民制の動揺

 

しかし、こうした中央集権的な土地・人民支配は奈良時代に早くも重大な危機に直面する。

 

具体的には、重たすぎる人頭税負担(特に雑徭・兵役)や運脚から逃れるため、農民の浮浪逃亡(口分田の耕作を放棄し戸籍に登録された土地を離れること)、さらに少しのちになると偽籍(戸籍に性別・年齢などを偽って記載すること)などの行為があいつぎ、そこに人口増も加わって、口分田の荒廃や不足が無視できない問題になったのである。

 

このため政府(橘諸兄政権)は、試行錯誤のすえ、743年に墾田永年私財法を発して新しく開発された田地の処理方法についての法を整備する措置をとった。

 

三世一身法と墾田永年私財法

 三世一身法

722年の百万町歩開墾計画を経て、723年に発布(長屋王政権)。

開墾地の保有を期限つきで認めるもので、具体的には、(a)新しい灌漑施設をともなう開発の場合→3世保有、(b)旧来の灌漑施設を利用した開発の場合→本人1代のみ保有が許された。

 

民間による耕地開発をめざす法令だったが、公地制の原則を前提にしていたため、収公の時期が近づくと荒廃するなど十分な成果はあがらなかった。

 

 墾田永年私財法の内容

開発した田地の永久私有を保障。

位階別に開墾面積が制限(500町~10町)され、土地開発者として貴族・大寺院・地方豪族が想定された

 

日本の律令制には国家が墾田を把握する規定がなかったため、この点からみると、墾田永年私財法は律令に欠けていた土地支配の仕組みを補完する性格をもち、律令制を充実させる法令だったととらえることができる。

 

 墾田永年私財法の変遷

のち、道鏡政権下の765年に寺院と農民以外の開墾は一時禁止された(加墾(かこん)禁止令)が、772年(光仁天皇の時代)、ふたたび開墾とその永久私有が認められた。

 

続きの解説は、「200字論述新研究13(問題5を考える➋)」をご覧ください。