12-1 地方支配の大転換

 

「日本史の基本38(7-5 新しい土地政策)」で述べたように、律令制にもとづく地方支配システムは、8世紀後半に早くも新しい展開をみせた。

 

偽籍(ぎせき)が増加するなど、庸(よう)・調(ちょう)などの人頭税を逃れようとする農民が続出する状況下で、富裕な農民層の台頭もみられるようになり、彼ら有力農民たちは、没落した農民の労働力を吸収して墾田(こんでん)を開発し、次第に独立した農業経営を発展させるようになっていった。

 

また,次第に郡司(ぐんじ)は経済・軍事面で国司に従属する傾向を強め,9世紀後半以降には郡家(ぐうけ)の消滅も進行した。

 

こうした農民層の分解郡司の後退・弱体化は、律令国家の支配にも重大な影響を与えざるをえなかった。

政治的には、国家が直接に個々の人民を把握する律令制の原則の維持が困難となり、経済的には、庸・調の減少により国家財政が危機へと追いこまれていったのである。

 

政府は、(a)大宰府(だざいふ)(「」の字に注意)管内に設置された公営田(くえいでん)(b)畿内に設置された官田(かんでん)、といったかたちで、みずからが直営する田を設けて財源を確保しようとした。

 

それでも、平安時代初期にあたる9世紀の時期には、律令にもとづく人民支配の根幹となる戸籍の作成は、形式的には六年一造(ろくねんいちぞう)の体制が一応継続された。

しかし902年、延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)など一連の律令制再建策が打ちだされると、その実施過程で、もはや律令制の原則にもとづく財政運営は不可能であることが明白になった。

 

まもなく政府は、郡司など在地有力者の力に依存してきた律令制的地方支配のあり方を大きく転換することを余儀なくされた。

 

 転換の内容

受領(ずりょう)(任国(にんごく)に赴任(ふにん)した国司のなかで最上位の者をさす呼称)の権限を強化して、彼らに一国内の徴税と行政を全面的にまかせ、その支配のもとで、個々の土地には徴税請負人(ちょうぜいうけおいにん)を定める方式が採用された。

 

 徴税方式の変化

成年男性を対象に人頭税を徴収する方式から、有力農民層(田堵(たと))が耕作と徴税を請け負う土地課税方式へと変化した。

田堵層のなかからは、土地を大規模に耕作して大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者もあらわれた。

 

 負名体制

受領が公領(こうりょう)(みょう)(徴税・土地経営の単位となる田地)に編成し、その田地(でんち)の耕作を請け負わせた田堵を負名(ふみょう)として把握するかたちが採用されたため、これを負名体制(ふみょうたいせい)と呼んでいる。

負名体制のもとで、受領は一国内の支配にあたり、従来の律令制的な支配原理に拘束されることなく、負名の請作面積に応じて、官物(かんもつ)(米などが中心)、臨時雑役(りんじぞうやく)(雑多な負担の総称)を賦課(ふか)できるようになった。