7-5 新しい土地政策

 

奈良時代、地域社会の様子に早くも変化が生じていた。

 

具体的には、重たすぎる人頭税(じんとうぜい)負担(特に雑徭(ぞうよう)・兵役(へいえき)、運脚(うんきゃく)など)から逃れるため、農民の浮浪(ふろう)逃亡(とうぼう)(口分田の耕作を放棄(ほうき)して戸籍に登録された土地を離れること)、さらに少しのちになると偽籍(ぎせき)(戸籍に性別・年齢などを偽(いつわ)って記載(きさい)すること)などの行為があいつぎ、そこに人口増も加わって口分田の荒廃(こうはい)や不足が重大な問題となったのである。

 

政府は、三世一身法(さんぜいっしんほう)、さらに墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発して、墾田の処理方法についての法を整備しようとしていった

 

 三世一身法

722年の百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)を経て、723年に発布(長屋王政権)。開墾地(かいこんち)の保有を期限つきで認めるもので、具体的には、(a)新しい灌漑施設(かんがいしせつ)をともなう開発の場合→3世保有(さんせいほゆう)(b)旧来の灌漑施設を利用した開発の場合→本人1代のみ保有、が許された。

 

民間による耕地開発をめざす法令だったが、期限が近づくと荒廃するなど十分な成果はあがらなかった。

 

 墾田永年私財法

743年に発布(橘諸兄政権(たちばなのもろえせいけん))。

開発した田の永久私有を保障した法令で、位階別(いかいべつ)に開墾面積が制限(500町~10町)され、土地開発者として貴族・大寺院・地方豪族が想定された