皆さん、こんにちは。
東大教室(日本史)前期テキスト・演習2(p.12)にかかわる解説「日本はなぜ中国との対等外交を発想したか 1 奇妙な要求」です。
まず、基本的なことを確認します。
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日本はなぜ中国との対等外交を発想したか
1 奇妙な要求
7世紀初頭(607)、推古天皇のもとで倭(日本という国号の成立は7世紀後半頃)は2度目の遣隋使を派遣した。
その際、使節が持参した隋(中国)への国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と記されていた(『隋書』倭国伝)。
これは、倭が隋に対等外交を要求した国書として知られている。
この倭の姿勢は、当時の国際関係やその前提になっていた世界観という点からみても、従来の倭の対外的な行動という点からみても、とても奇妙なことだった。
まず、国際関係の問題、つまり冊封(さくほう)体制についてまとめておきたい。
冊封体制とは、華夷思想にもとづき、中国皇帝が朝貢してきた周辺諸国の王に称号などを授与すること(冊封)によって形成される国際秩序をいう。
華夷思想を根拠とする理念や論理は、次のようにまとめることができる。
天帝の命にもとづいて天下の支配を委任された皇帝は、徳をもって天下を支配し、その徳を世界に広めなければならない。
皇帝が直接支配する天下の中心である中国(中華)の周辺には、いまだ徳のおよばない異民族がいる。
それらは方位によって、東夷・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(夷狄(いてき)などと総称する)と呼ばれて下位の存在とみなされた。
皇帝は、そうした夷狄に徳をおよぼすことで、天下の拡大を果たしていく――。
こうして前近代の東アジア世界では、中国と周辺諸国とのあいだに宗主国と藩属国という形式上の君臣関係がしばしば生じることになった。
藩属国の使節は中国皇帝に対して臣下の礼を尽くし(朝貢)、一方、皇帝は多くの返礼物などを与えて大国の存在感を示した(冊封)。
諸国の王は、みずからの権力の正統性を中国に権威づけてもらうことができるため、王権の強化・安定を図ることをおもな目的として冊封に応じた。