★于山島はまぼろしの島だったと報道されていた。 | ☆杉野洋明 極東亜細亜研究所

★于山島はまぼろしの島だったと報道されていた。

杉野洋明です。

 

以前、当ブログの”★本邦初公開?大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠” にて、石島≠独島ではないかという意見を発表させて頂きました。

 

 

発表から2ヶ月、今だ、韓国側から明確な反論はありません。

 

 

ただ一件だけ、韓国の掲示板で、以下のような反論がありました。

 

 

 

韓帝国勅令41号ですでに (鬱陵島,竹島,石島)は、竹島は別途編入したのに、なぜこうなのか、わかりませんね。

 

大韓地誌でも于山島は南東の方にあると 記述になっており、記事は鬱陵島を示したもので、郡を示したことではないと見えます。

また,この 記事は 1906年の記事、即ち、勅令が頒布された1900年の記事ではなく、1906年に鬱陵島郡守が日本の独島編入を抗義したので、朝鮮人がこの島の存在自体が分からなかったという論理は偽りです。

http://www.historyfoundation.or.kr/Public/FreeView.asp?p_gubun=free&field=&key=&page=1&idx=564

 

 

 

 

・・・・僕はこの時の記事では、于山島については全く触れていません。

 

 

それに、大韓帝国政府が独島を公式に編入した唯一の記録が、この勅令41号であり、石島≠独島ならば、大韓帝国は独島を編入していないことになる筈なのですが、この投稿者はそれを分かっているのでしょうか??

 

 

 

 

ところで・・・この投稿者は朝鮮人がこの島の存在自体が分からなかったという論理は偽りです”と断言されていますが、これはかなり怪しいと考えています。

 

 

 

既に、"Dokdo-or-Takeshima?" 及び”Occidentalism” 等のサイトで紹介されていますが、1913年6月22日の毎日申報で、当時の朝鮮人が于山島が何処にあるのか分からなかったことが記載されているからです。

 

尚、、"Dokdo-or-Takeshima?"のサイトでは、毎日申報の記事を以下のように紹介しています。

 

鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある無人島の于山島へ移住するために移住民を募集して、その島を探すことにしました。しかし、彼によると鬱陵島の島民が、10数年前にその于山島を共同で探索しようとしたものの、発見できなかったということです。また、その島は海図に記されておらず、何度か探索船を出したものの発見できず、中止したそうです。

 

今回、杉野はこの毎日申報の原文を探してみました。

 

どうやら、実際はもう少し詳しい内容が書かれていたようです。

 


ウサン島1
毎日申報1913年6月22日

 

上記の画像の通り、原文では2段に分かれていて読みにくいので、上段と下段を並べて表示することにします。

 

 

 


ウサン島2

 

毎日申報1913年6月22日(連結して拡大)

 

文字が潰れてしまっている為に、読みにくい箇所が多くありますが、"Dokdo-or-Takeshima?"及び”Occidentalism”で述べられていた内容より長い文章だったようです。

 

 

一部、不明な箇所がありますが、解読してみましょう。

 

 

 

青字は"Dokdo-or-Takeshima?"で紹介されていた文章で、赤字が杉野が原文から拾い出した文字です。

 

 

●無人島の探検中止


鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある于山島という無人島があるとして、即ち、この○○○見していた鬱陵に移住する計画で、○○者を募集して、その費用が毎人○○○金四・・・・・約百余で帆船を借入れた後、三人乗組んで捜索しようと、出資○○決定して、賛成者が30名に達したのだが、右の于山島はその実在の謎題あって、○○10数年前に同地内の鮮人が共同で探索しようとしたものの、発見できなかったということです。近年に航海路が頻繁になったのに、その現認したということが無く、また、その島は海図に記されておらず、仮に存在したとしても発見は容易ではなく、反って無益に費用を消費すると不遇だと、中止したそうです。

 

 

 

 

 

見ての通りですが、記事では以下の内容を確認することが出来ます。

 

 

 

 

①于山島は存在に謎がある。

②過去、現地人が調査したが発見出来なかった。

③航海が頻繁になったのに存在が確認出来ない。

④仮に存在したとしても発見は容易ではない。

 

当時、このような探検をしようとしたり、それに資金協力出来るような人は、相当な金持ちであり、当然、それなりの知識層だったと思われます。

そうした環境下で決定された探検の中止の記事な訳ですが、上記のように「存在が怪しい島」が、果たして(数年前まで)”大韓帝国領土”だったのでしょうか?

 

 

石島≠独島の反論投稿で”朝鮮人がこの島の存在自体が分からなかったという論理は偽りです”と反論されましたが、1913年になっても存在自体が怪しかったのに、なぜ1906年には存在が分かっていたのでしょうか?

 

于山島論争の結末は”幻の島”だったと韓国人自身が言っているわけです。

今まで、韓国側は、”于山島=石島=独島”と言っているわけですが、韓国の新聞で調べる限り、

 

 

1913年の記事で于山島≠独島

 

1906年の記事で石島≠独島

 

 

になってしまうわけで、こうした矛盾点も含めて反論を頂きたいですね。

 

 

 

出来れば、反論は国際法廷でお願いしたいところですが・・・