年の瀬を迎え、気ぜわしい毎日です。
赤の助、ター君と、この秋に逝ってしまった地域の猫の記録を残して来ましたが、
最後に、ベビーという茶トラの老猫のお話をして、今年を締めくくろうと思っていました。
ところが、PCに向かう時間がない…。この記事、年内に書き終わるか?とハラハラしています。
なので、忘れないうちにまずはご挨拶を(書き上げられなければご挨拶だけUPしようという魂胆)。
皆様、今年一年「日々是ねこパト」をお読み頂き、ありがとうございました。
まれな更新にも関わらず、記事をUPすると同時にアクセスが集中し、楽しみに待っていて下さる方がいることがわかります。
それが、ブログ更新の何よりの励みでした。
来年も細々とでも書き続けて行きたいと思います。
記録しておかなければいけない事柄は溜まる一方で、現在私の中で、熟成されています。
熟成し過ぎて忘れてしまわないよう頑張らねば…。
皆様も、どうぞ良いお年をお迎えください。
さて、今日の主人公、ベビー君ですが、
去年3月にUPした「マルメロ通りVS教会通り 衝突事件 」に登場しています。
軽い写真記事ですので、よろしければ先に、ベビーの顔を見てやってください。
この時、ベビーは目やにだらけの顔でした。
撮影会の翌日、ベビーは通院しました。
耳ダニ処理とレボリューションとワクチン接種。体重は4.3キロ。シニアの外猫としては、立派なものです。
診察台の上で健康チェックを受けながら、ベビーはゴロゴロと喉を鳴らして見せて、先生を喜ばせたそうです。
この人懐こいベビーが、どうやって出来上がったのか?
2009年以前のことを知らない私には、想像もできませんでしたが、
そこには、地域の猫として可愛がられたために、時に翻弄もされた、ベビーの過去がありました。
2010年4月2日のベビー。巡田さん撮影。
地域の人々に可愛がられて成長したおかげで、おっとりと人懐こい猫に成長した。
どの猫より大きな立派な茶トラだった
マルメロ通りに平行する一本向こう側の通りに、小さなカトリック教会があり、青い目の修道女さんが仕えています。
私たちが、この通りを 教会通り と呼ぶ由縁です。
教会のはす向かいに、梵田さん(ぼんださん・仮名)という70代のご夫婦がお住まいです。
長い間外猫の世話をされているらしく、
ここ数年は、ベビー、ソックス、ガツ、チーという4匹の外猫が教会周辺に住み着いていました。
梵田さんと知り合ったのは、マルメロ通りで取り逃がしたシャムミックスを追跡していた時でした。
この猫は私を見るとさらに遠くへ逃走。結局、2本向こうの通りで捕獲しました。
梵田さんは、「猫貯金」から、ワクチン代をカンパしてくれました。
この時、梵田さんの相棒で、巡田さん(めぐりたさん・仮名)という方とも知り合いました。
60代前半の、知性的な女性です。きちんと過去を語ることのできる巡田さんとの出会いは、私の知りたい欲を満たしました。
同時に、私がねこパトを重ねて探り出した、猫たちの過去や血縁をお知らせするたびに、
巡田さんは、「sakki さんのおかげで、目を開かれる思いだ」 と言って、喜んでくれました。
晩年のター君が、教会通りに出没した様子を、逐一知らせて下さったのも、この巡田さんでした。
2012年3月。教会通りにて出会ったベビー。すでに、長い放浪生活を終えていた
巡田さんの話では、ベビーと出会ったのは10年前。 2004年7月のことだったそうです。
この年、巡田さんの身の上に、何かとても辛いことがあったそうです。わずか半年で、10キロも痩せました。
きっと、よく眠れなかったのではないかと思います。
ある日、夜明けとともにフラフラと散歩に出て、教会通りまで差し掛かった時、巡田さんの足元にすり寄って来た茶トラの猫がいました。
これが、巡田さんとベビーとの運命の出会いでした。
もう1匹、こんがらがったような濃い目の三毛も一緒でした。ベビーの母猫、マーマでした。
巡田さんはそれから毎朝、楽しみに早起きをして、教会通りに通うようになりました。
ポケットには、煮干しをそっと忍ばせていたそうです。
マーマとベビーが、煮干しの頭だけ残すのが新鮮で、面白かったと聞きました。
ベビーと出会うことで、打ちのめされていた巡田さんの、新しい10年が、いつのまにか始まっていたのです。
「ベビーは慰め上手」と巡田さんから何度か聞きましたが、それはきっと、ご自分のことだったのだと思います。
巡田さんが梵田さんと出会った時のお話も、笑いました。
ある朝、梵田さんが缶詰を持って玄関から現れて、あるお宅の車の下に、無造作に中身を開けました。
お皿もなく、紙を敷くでもありません。じか置きです。
その動作が、いかにもいつでもやっている、という風に堂々としていて、巡田さんは、目を見張りました。
すると、梵田さんは三毛猫マーマを指さして、
「もともと、この家の奥さんが拾って来た猫なのに、面倒を見ないのよ。なので私が代りに、ここでご飯を与えているの」
と言ったそうです。
無責任なご近所への当てこすりもあったのでしょう(今はそんなことはなく、1匹ずつカラフルなお皿で給餌しています)。
やがて、梵田さんは巡田さんを頼りにするようになり、2人は年齢の差を超えた、良き相棒になって行きました。
ベビーの母猫・マーマ。かなりのシニアと思うが健康だ。
大胆に見えて警戒を解かず、危険なものには寄り付かない。さすがは外で生き抜いて来た猫だ
ベビーという名前を貰った位ですから、教会通りに最初に現れた頃のベビーは、子猫だったのかと思っていたら、
どうやらそうではなさそうです。
1998年にマーマが茶トラと黒猫の子猫を連れてやって来た、黒猫は貰われていった、とある方から聞きました。
母子は後から教会通りへ移動したようです。
とすると、ベビーはなんと17歳。初産であれば、母猫マーマも17歳か18歳でしょう。
子猫時代のベビーはどんなに可愛かったことでしょう。
茶トラのチビを構うために、町の住民があちこちから教会通りにやって来てました。
梵田さんは、その方たちに持ちかけて、「猫貯金」という財布を作りました。何かの時に、猫のために使う資金です。
今でも、ひとり毎月500円ずつ集めているそうです。
コミュニティの、もっとも新しくもっとも若いメンバーになった巡田さんは、
区の「猫のルール」を参考に、ベビーに去勢することを提案し、コミュニティに新風を吹き込みました。
こうして、ベビーという子猫は、教会通りに集う猫仲間たちの、笑顔のシンボルとして可愛がられ、
輝くような金色の目を持つ立派な若猫に、成長していったのでした。
ところがベビーがシニアに差し掛かった頃、困ったことが起こりました。
どこからか、さび猫が1匹現れて、教会通りの給餌に参加するようになったのです。
チーと呼ばれたこのさび猫は、後になって、西門さんのチーコちゃんと同腹の姉妹で、2003年生まれであることがわかりました。
ベビーを溺愛して、遠くから教会通りへ通っていた、鍋坂さん(なべさかさん・仮名)という80代のご婦人は、
このチーにも餌付けを始めました。
といっても、そこはご自分の庭ではありません。わざわざ人の住まいに通ってきて、餌付けして猫の数を増やしたのです。
チーは多産でした。やがて、ヨリーとミリーという2匹の子猫を連れて来ました。
その後、ガツとソックスという大きな息子らしき2匹も合流しました。以前産んだ子供だったのでしょう。
挙句、大きな茶白のオス猫まで連れて来ました。教会通りの皆さんは、この猫を、チーの元ダンナと呼びました。
元ダンナは粗暴でした。子猫だったヨリー・ミリーを追い出し、箱入り息子のように育ったベビーにもケンカを売り、怪我をさせました。
教会通りは、チー、ガツ、ソックス、元ダンナの天下になってしまったのです。
元はと言えば、鍋坂さんの出張餌付けが教会通りの扶養家族を一気に増やしたのです。梵田さんと巡田さんはヒヤヒヤしました。
ご近所の目もあります。公道で扶養できる猫の数は、すでに限界を超えていると感じていました。
その矢先、餌やりを巡って、鍋坂さんが教会通りの住民に怒鳴りつけられるというトラブルが発生しました。
穏やかな梵田さんが、ついに切れました。
「もう、ここに来ないで下さい。猫たちは、私たちが面倒見ます」 そう言い渡された鍋坂さんは、開き直って、
「もう、ここへは来ない。その代り、ベビーとマーマを自分の家のそばに連れて行く」と主張したのだそうです。
鍋坂さんは有言実行でした。2匹を、毎日少しずつ自宅周辺へ誘導。 2ヶ月掛けて、移動させたのです。
2009年、猫崎町に転入してすぐの頃、私はこの鍋坂さんの姿を毎晩見ていました。
お婆さんが大きな声で呼びながら道を歩くと、どこからか茶トラと三毛猫が現れて、
賑やかに鳴き交わしながら、お婆さんの後を付いて行くのです。まるで、ハーメルンの笛吹男のようでした。
尾根道と呼ばれる交通量の多い狭い一方通行です。足の不自由な年配の婦人が、2匹の猫を従えて行く姿は、異様でした。
事故に巻き込まれないかヒヤヒヤしましたし、ご近所はこの光景をどう見るか?と心配で、顔見知りを装って何度か並んで歩きました。
今思えば、その茶トラこそ、ベビーだったのです。私がこの町の住民になって初めて知った外猫は、ベビーでした。
しかし私の見ていた猫は、毛並みが荒れ、いつも何かを怖がって居るようで、
なぜひとりと2匹のこんな移動風景が毎日繰り広げられるのか? 訝しく思ったものでした。
その後、別の通りの外人宅の前で餌やりをしていた鍋坂さんは、
スキンヘッドの男性に、英語で、「ここで猫に餌をやるな!」とすごまれたそうです。
年配の方を怒鳴り飛ばすなんて そんな無礼な外国人も居るのか…と呆れましたが、
若い頃外商部で働いていた鍋坂さんも、負けてはいません。
「何を言う! 可哀想な猫に餌をやって何が悪い」 と、英語で怒鳴り返したと聞きました。
2ヶ月掛けて、猫を100メートルも離れた自宅近くに誘導する根性も、英語で応戦する気の強さも、脱帽です。
しかし、それだけの実力があるのなら、
猫が穏やかな生活を送ることを最優先に、地域の方と心を通わせ理解を得る道を、なぜ考えなかったのか?
私は残念に思いました。
母猫マーマは、鍋坂さんの自宅付近に寝場所を見つけたのでしょう、今もそこで元気にしています。
しかしベビーは、鍋坂さんが餌付けした他のオス猫に襲われ、顔半分が腫れ上がるような傷を負って、
日ごとに薄汚れて行きました。
巡田さんは、物陰からその様子を覗き見て、これで良いはずがない、ベビーの居場所はここではないと感じたそうです。
教会に通うことをやめ、鍋坂さんの給餌に付き合いながら、ベビーとマーマを支えたそうです。
やがて、チーの元ダンナが姿を消しました。それを聞いた巡田さんは、独断で、ベビーを教会通りへ誘導しました。
ベビーの、長くて辛い放浪生活は終わりました。
しかしこの放浪で、美しい毛並みが自慢の輝くような茶トラ猫は、心身ともに荒んでしまいました。
その時のことを思うと、今でもベビーに申し訳なくてしかたがないと、巡田さんは言っています。
2013年4月、温かさに誘われてのねこパト中に出会ったチー(右)とベビー。2人はいつも寄り添っていた。
チーは、2009年9月に不妊手術を受け、その子4匹はあちこちで地域の世話を受け、元気にしている。
チーの元ダンナは、2011年2月に私が別の場所でTNRしていた。写真を照合して同一猫とわかった時、巡田さんは、
「ベビーが不憫で元ダンナを敵視した時もあった。でも、最後まで世話をしてやれなかったことをずっと悔やんでいた。
生きていたことがわかり嬉しい」と言ってくれた。外猫の一生は、短くとも、実に波瀾万丈だ
教会通りに戻ったベビーを、温かく迎えたものがありました。さび猫・チーです。
チーとベビーは、本当の夫婦のように寄り添って過ごしました(それで「元ダンナ」だったのですね)。
ご飯の時は、ベビーがチーをエスコートし、先に食べるよう促していたそうです。教会の塀の上に並んでいるところをよく見かけました。
ベビーは、「ここが僕の居場所。大好きなチーと、大好きな人達が居てくれれば、ボクは他に何もいらない」と言っているようでした。
「猫は、居心地の良い場所を見つける名人。決して、人間の思うようには行かない。猫は、猫の都合で生きるべき」
巡田さんは、よくそう言っていました。
時に、周りの状況を力尽くで捻じ曲げ、猫の自由を奪ってまで、自分はそれだけこの猫を愛しているのだと主張して、
生きがいのように餌やりにしがみつく高齢者に対して、
巡田さんは人としての思いやりを示しながらも、ささやかに抵抗したのだと思います。
2014年8月。ちっぽけで、走る毛玉のような子猫が、突然現れた。
これが教会通りの猫地図を大きく塗り合える分岐点になるとは…。
左はチーの息子、ソックス。
他の猫が子猫を怖がるのに対し、ソックスだけが、イクメン役を引き受けた
平穏な生活を取り戻した教会通りに、大きな変化が訪れたのは、今年8月のことでした。
ある日突然、4か月位の子猫が現れたのです。
奇妙奇天烈な色分けで、長毛。まるで走り回る毛玉でした。尻尾がボンボリのようなので、ボンと名付けられました。
梵田さんは、ボンをとても可愛がりました。きっと、ベビーが子猫の時も、こんな風に可愛がったのでしょう。
しかし、ボンの出現で、先住猫たちは落ち着かなくなりました。
ある日突然、チーが姿を消しました。
一旦マルメロ通りから戻って来ていたガツが、再びマルメロに戻って、帰って来なくなりました。
ボンは、ソックスやベビーに遊んでくれと付きまといましたが、ベビーの腰は引けていました。
この時、ベビーは体調が思わしくなく、痩せ始めていました。チーの突然の出奔が、どれほど堪えていたことでしょう。
秋口には、私の相棒・幸女さんが「ベビーは、クリスマスまで持つだろうか」と不安を口にするほどの状態になりました。
11月17日。 ついに、巡田さんがベビーを自宅に保護しました。
10年に及び、愛するベビーを見守り続けて来た、巡田さんの決断でした。私にとっては、今年最後のビッグニュースでした。
巡田さんの部屋から網戸越しに外の空気を吸うベビー。
不思議と、出たいとは言わなかった。トミ黒を迎えた私には、ベビーの気持ちが分かるような気がする。
今ベビーは、巡田さんと一緒にここに居られることだけで、十分幸せを感じていると思う。
ベビーは、ついに自分の最後の居場所を見つけた
この時、ベビーの体重は3.1キロになっていました。詳しく検査したところ、腎機能がかなり悪化していました。
「できれば毎日、点滴に来て欲しい」と先生は言いましたが、頻回の通院は、ベビーにも巡田さんにも大変な負担です。
巡田さんは自宅点滴にチャレンジする決心をし、同じく腎機能が低下気味の飼い猫と暮らす幸女さんが、
点滴の介助や、闘病生活のアドバイス役を買って出てくれました。
意外なことに、家に入ったベビーは外に出たがる素振りを見せず、仕事する巡田さんの足元に寝転んで、
幸せそうに寝ているそうです。
腎臓の数値は、すでに楽観視できる程度ではありません。
点滴をするたびにつかの間食欲が戻って、あの金色の瞳にイキイキした光が蘇りますが、
腎不全が根治するわけではありません。
ベビーは、これからゆっくりと、誰もが通る老化の道を、辿り下って行くのでしょう。
けれど、ベビーはもう、他の猫の脅威にさらされることはありません。誰かの身勝手に振り回されることもありません。
ベビーを居心地の良い場所を探す名人と言うのなら、
彼の猫生は、その場所を探し続けた10年であり、そしてとうとうもっとも居心地の良い場所を、
巡田さんとの生活の中に、見つけたのではないかと私は思います。
相棒幸女さんが点滴介助に行った時のベビー。
なんでこんな狭い所に?と思うほどの場所に身体を突っ込んで、隠れようとしている。
外であれほど人懐こさを示したベビーも、今は巡田さん以外には関心がないのだろう。
それで良いのだと思う。
巡田さんの今後を思えば、闘病するベビーに寄り添う大変さは、想像を絶するものかもしれません。
「大丈夫ですか?」と問いかけると、
「ベビーがある日姿を消して、二度と会えなくなる…。その辛さを味合わずに済むんですから」と、巡田さんは気丈に言いました。
3年前、私も全く同じ気持ちで、公園で10年過ごしたトミ黒を迎えました(→「トミ黒」ができるまで~10年間公園で暮らした猫 )。
「もう、イイでしょう。長いこと、頑張ったね。これからは、どうか私のそばに居て下さい。
あなたを、私に看取らせてください」と、トミ黒に頼みました。
同情などではありません。 私が、彼との生活を望んだのです。
色々な事情があって、外で長く見守るしかなかった猫を、思い切って自分の相棒として迎えるくらい、恵み豊かなことはありません。
外で生き抜いてきたひとつの猫生を思う時、
胸を一杯にするほどの深い敬意と労わりの気持ちが湧きあがり、それがきっと、どんな辛い山も乗り越えさせてくれて、
いずれその命が尽きてしまっても、想像もしていなかった大きな恵みを、私たちの心に遺してくれるはずです。
「ベビーと巡田さんが、どうか一日でも長く、一緒に居られますように」
膝で眠るトミ黒の、つややかな背中を撫でながら、今夜も心から、そう願うのです。
1年間ありがとうございました。 See you by sakki