第二百九十八話 朝顔に猫(上) | ねこバナ。

第二百九十八話 朝顔に猫(上)

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正月の大雪の所為か、文化十二年の夏の訪れは遅かった。
それでも、短い梅雨があっという間に過ぎたかと思うと、灼けつくような陽の光が江戸の街を容赦なく照らし始めた。人々は軒先や木陰に涼を求めつつ、忙しそうに通りを行き交う。そんな文月の半ばの在る日、

「おい、少し休んで行こう」

昼下がりの大川沿い。汗を拭きながら、日陰横丁の町医者井上露庵は、前を行く男に声を掛けた。

「ぬう」

唸りとも相槌とも取れぬような声を吐いて振り向いたのは、長内半兵衛。
曾て首斬り半兵衛と畏れられた、首斬り役人山田朝右衛門吉睦の一番弟子である。
小塚原の刑場で行われた腑分けに立会った後、蔵前までやって来た二人は、道端の茶屋でひと息つく事にしたのであった。

「ひいい、暑いのう」

縁台にどっかりと腰を落ち着け、露庵は手拭いで顔を覆いながら言う。半兵衛はその隣にのそりと座り、額に滲む汗を軽く手の甲で押さえた。その落ち着き払った様子を横目で見て、露庵が茶化す。

「半兵衛、お前、よくそんな涼しい顔をしていられるのう。この暑いのに」
「この顔は生まれつきだ」
「全く、ろくに汗もかかずにこの炎天下歩くなど、まるで石仏だな」
「大きなお世話だ」
「ああ、いっそ甘酒でも飲んで熱気を払いたいもんだのう」

足を投げ出して露庵が言う。不惑を超えても、若い時分同様、この町医者は時々子供の様な振舞いをする。半兵衛は時々それに呆れてしまうのだが、不思議と窘めたり不平を言ったりする気にはなれなかった。こんな為体の男が公儀隠密というもう一つの顔を持っているとは、誰も思うまい。
腐れ縁だな、と半兵衛は思う。若い時分に師匠の朝右衛門吉睦(数年前、浅右衛門は「浅」を「朝」と改名した)に紹介されて以来、露庵とは、さまざまな事件を共に潜り抜けて来た。一度は刃を交える事態になりかけた事もあったが、その後は概ね穏やかな、しかも親密な付き合いをしている。
茶屋の娘が茶と羊羹を運んで来ると、露庵は尋ねた。

「娘さん、このあたりに甘酒売りはいないかね」
「そうですねえ、この近くですと、柳橋の方まで行けば、たぶん」
「おう、そうかそうか。じゃ、ひと息ついたら行ってみるとするか。なあ半兵衛」

嬉しそうな露庵の顔をじろりと見て、半兵衛は鼻を鳴らす。

「ふん、また甘い物か」
「そう言うな。甘味は滋養豊富で身体に良いのだぞ。特に甘酒は弱った臓腑にも良い。真逆お前、甘酒で酔っ払う訳ではあるまいな」
「そっ、そんなことはない」
「ならば付き合えよ。もし酔って引っ繰り返ったら千代殿への土産話が出来るというものだ。わはは」

そんな二人の様子を、茶屋の娘はくすくす笑いながら聴いていたが、

「あ、そうそう、そこの牛頭天王様の境内で、朝顔合せをやっていますよ。気分だけでも涼んで行かれてはいかがです」

と言った。

「おう、それは良い。近頃は珍奇な朝顔が流行っておると云うしのう。どうだ半兵衛、甘酒は俺が奢ってやるから、寄って行こう」
「む、む」
「ようし決まりだ」

露庵はそう言うが早いか、羊羹をふた口で平らげて茶を飲み干すと、さっさと立ち上がって半兵衛を促した。半兵衛は何かを言いかけたが、やがて食いかけの羊羹をごくりと飲み込むと、のそのそとその後に続いて、歩き始めた。

  *   *   *   *   *

蔵前から鳥越橋を渡って浅草御門へと向かう途中、右手に牛頭天王社別当、大円寺が見えて来る。その門前に吸い込まれてゆく人、人、人。

「ほう、こりゃ賑やかだ。この暑いのに」

額を拭いながら露庵が言うとおり、大円寺の境内はなかなかの賑わいだ。参道脇には多くの人集りが出来ており、その向こう側には朝顔の鉢やら棚やらが、所狭しと並んでいる。
小さな鉢に篠竹を差し、そこにこぢんまりと蔓を巻いたもの、大鉢から幾つも蔓を這わせたもの、格子に組んだ棚に丁度良く花を配したものなど、多種多様な趣向が凝らされている。そして、

「おやおや、なるほどこれが」

露庵が人垣をかき分けて覗き込む。

「へえこれは采咲と云うのか。おっとこっちは八重だな。ほら見ろ半兵衛、獅子牡丹だと」

そう勧められて半兵衛は花を覗き込む。そこには、哀れなほど細い、ぎざきざの花と葉があった。
まるで人の手で裂いてしまったかのような姿。
その隣では、花の真ん中から盛り上がるように、もうひとつの花がせり出している。
そしてそのまた隣には、もさりと縮れた鶏頭のような花が。
これが、朝顔なのか。

「…うっ」

半兵衛は悪寒を覚えて、人垣から離れた。そうして板塀に寄りかかり、顔をぐいと拭った。

「おいどうした半兵衛」

露庵が神妙な顔でやって来る。

「あれは…何だ」
「何って朝顔さ」
「何故あんな形をしているのだ」
「そりゃあ、珍奇な形が好きな輩がいるのさ。今まで見た事もない花を作りたくて見たくてしょうがないという御仁がな」
「ど、どうやって育てるのだ、あれは」
「そうさなあ。まずは、珍奇な形をした朝顔、もしくはその親の種をだな、大量にこう、密に蒔くのだ。そうして育って来たものの中に、今までとは違った姿形のものを見出して、それを懇切丁寧に育てる。そしてそれが実を結べば、またその種を蒔く。あるいは別の変種を取り混ぜて蒔くことで、より一層変わったものが生まれる可能性が高くなる」
「では、人の手で産み出すのか」
「そうとも言えるな。野山で生きてゆけるようなものではあるまいよ、あれは。どうした何か不満か」
「いや…そうではないが。何だか心持ちが悪い」
「何故だ」
「人の手で、無理矢理あのような形にしてしまうなど」

いつになく沈んだ面持ちの半兵衛を見て、露庵は笑った。

「ははは、あのなあ半兵衛よ。人の手で育てられる草木や野菜、穀物といったものは、たいがい人の手によって無理矢理、人間の都合のいいようにねじ曲げられているのだよ」
「そ、そうなのか」
「そうさ。米も胡瓜も大豆も青菜も、お前の見慣れているあの大きく丸い花の朝顔ですら、長い年月のうちに、人の手で変えられたものたちなのだよ」
「ぬぬう」
「今更そう毛嫌いすることはなかろうて。まあ、中には痛々しいものがあるのは認めるがな」

肩を竦める露庵の顔を、半兵衛はちらと見、そして又地面に視線を落とした。

「露庵よ」
「なんだ」
「ああしたことは、その、草花でしか出来ぬのか。動物は、たとえば」
「人間か」
「ああ」
「そうさなあ、出来ぬことはあるまいよ。要は卵と種をどう掛け合わせるか、ということだからな。血が濃くなれば生まれつきの病が多くなるというのは、昔から広く知られた事だ。勿論試してみる訳にはいくまいな。第一協力者がおらねばな」

自分で尋ねておきながら、半兵衛は具合が悪くなって来た。その様子を見かねて、露庵は諭すように言った。

「半兵衛、云うておくがな。あれでも生きているのだよ。お主が思うように、ああしたものは人の手がかからねば育たぬ程に弱く、本来あるべきものでは無いかも知れぬ。しかし人とて、生まれながらに足の無い者、眼の見えぬ者はいるぞ。そうした者達は一人では生きてゆけぬ。だが間違い無く、彼等は生きているのだよ、現にな。お前に変り朝顔を持て囃せとは云わぬし好きになれとも云わぬが、余り偏見を持たぬ方が良いのではないかな」
「それは医者としての意見か」
「そうだ。ゆくゆくは、そうした生まれながらの病を無くす事が出来るようになるかも知れぬ。しかしその為には、何故そのような病が起きるのかを知る必要がある。なればこそ、眼を背けてはならぬし、寧ろよく見なければいかんと俺は思うがなあ」

半兵衛をじいと見る露庵の視線には、それまでの茶化したような色に替わって、強い志に似たものが宿っていた。半兵衛はそれを感じ取り、やや迷った挙げ句に、切り出した。

「露庵よ」
「何だ」
「俺の家に寄ってくれぬか」
「ほう、どうした」
「相談があるのだが」

そうして半兵衛と露庵は、甘酒の事などすっかり忘れて、日の傾き始めた浅草御門を通って行った。

  *   *   *   *   *

「おかえりなさいませ。あら露庵先生」
「やあ千代殿。源助も達者で何より」
「ど、どうも先生、お久し振りで」

半兵衛と露庵を迎えたのは、半兵衛の妻千代と、下男の源助である。露庵は直ぐに、千代と源助の間の微妙な空気を感じ取った。
客間に通されて直ぐに、半兵衛は千代に何かを囁いた。すると千代は表情を強張らせ、畏まりましたと言って急ぎその場を後にする。露庵は訝って半兵衛に尋ねる。

「どうしたのだ一体」
「実はな、仔が」
「なにっ、お前達、仔が出来たとどうして俺に言わなんだ」
「そうではない、俺達の仔ではないのだ。猫のな」
「な、なんだ猫か」
「うむ、それが…」

半兵衛が言い淀んでいる間に千代が戻って来た。手には竹駕籠を抱えて、おずおずと露庵の前に差し出す。
その中には。

「ほう、これは珍しい」
「ぴゃあ」

駕籠の中には、一匹の仔猫がいた。
生まれてひと月経たぬ位の大きさで、真っ白な毛を纏った愛らしい仔猫だ。眼が充血したように赤い。

「ふむ…所謂白子と云うやつだな。これはどうしたのだ」
「三日前、千代が堀端で拾って来た。息も絶え絶えだったのだが、看病の甲斐あって、少しは元気になったようだ」
「そうか。どれ」

露庵はひょいと仔猫を抱き上げる、そして第二の異変に気が付いた。

「おや、これは」
「ぴゃあう」

仔猫は露庵の手にじゃれようと前足を伸ばす。そのひとつを露庵が掴んでよく見ると、

「ひい、ふう、みい…七本か。成程これは初めて観るなあ」

肉球の数が異様に多い。そして、人間の親指に似た形の大きな指が、脇からにゅうと伸びている。
露庵は仔猫をころころと返しならが、背中やら口やら尻やらを見ていたが、やがて仔猫はその不格好な前足を伸ばし、露庵の袖口に入ろうと、じたばた暴れだした。

「おうおう、案外元気だのう、お主。わはは」

その様子を見て、半兵衛が切り出す。

「源助が云うには、指の多い猫は不吉だから殺してしまうが良いのだそうだ。その事で千代が意固地になってのう」
「まあ、お前さま、真逆この子を」
「そうとは云わぬ。しかし源助は、あれなりに俺達の事を慮って云うてくれるのだ」
「駄目です、こんな可愛い仔の何処が不吉だと云うのです。私は絶対に厭です、絶対に」
「…と云う訳だ。どうしたものかのう露庵」
「あいてててて、おい、それどころではない。この悪戯坊主を何とかしてくれ」

何時の間にか、仔猫は露庵の肩によじ登り、頭の上目指して爪を立てている。千代は慌てて仔猫を引き剥がす。

「それで、一介の町医者である俺の意見を聞きたいのか」
「そうだ」
「俺は易者でも人相見でも無いぞ。不吉だの不幸だのを看る眼は持っておらぬがな」
「俺が訊きたいのは、この仔猫が他の猫と変わりなく、生きてゆけるかどうかの見立てだ。もし生きてゆくのが辛いなら、いっそ俺が…いや、虎之助にでも頼んで、せめて苦しまぬようにしてやりたいと」

虎之助とは、山田朝右衛門の道場で一、二を争う腕前の門弟である。半兵衛がさる事件の折に右の腕を失って後、首を斬る腕前にかけては右に出る者無しと云われるまでに成長していた。

「先生、先生、この仔は、ちゃんと生きてゆけますでしょう」

半兵衛の物言いに焦って、千代は縋るように露庵を見る。露庵はもう一度仔猫を抱き上げ、あちこち確かめながら云う。

「矢張身体は弱そうだな。小さいうちは滋養のあるものを与え、下の世話をしっかりしてあげることだ。それから、こうした眼の赤い仔は陽の光に弱い。外には出さぬように」
「は、はい」
「それさえ守っていれば、心配なかろうと俺は思うよ。実はな、指の多い猫というのは、そう珍しいものでもない。なればこそ、不吉だという風聞が立つのだがな。そこで半兵衛、そして千代殿」
「むっ」
「はいっ」

勿体ぶって咳払いをし、露庵は少々重々しく話し始めた。

「珍奇なものを愛でる心あれば、斥ける心もまた然り。人とはそうしたものよ。その心持ちはそれぞれの都合で動く。例えば、折角大枚をはたいて作らせた朝顔が不吉などと誰も言うまい。かたや、何かを畏れている人ならば、日向で干からびた蜥蜴の尻尾すら怖がるだろう。その意味で、この仔猫はお前さん達に不幸をもたらしている、と言わねばならぬ」
「なっ、何故です」
「現に、あの優しい源助と、滅多に腹を立てぬ千代殿がいがみ合っている。これは不幸ではないのかな」
「ぬぬう」

半兵衛は只呻くばかりだ。千代は胸を押さえて苦しそうに言う。

「しかし、それは私と源助の問題で、この仔には何の関わりも」
「いいや、この猫がいなければ、今まで通り仲良う過ごしていたでしょう。まあまあ、そう慌てずに、最後まで話を聞いてくださいな千代殿」

腕組みをして憮然とした表情のままの半兵衛をちらと見て、露庵は言葉を接ぐ。

「只、不幸とは、これも心の持ちようだ。今朝の飯が不味かったと思えば不幸かも知れぬし、美味い甘酒を逃したと思えばこれも不幸だ。ああ今日の俺は不幸かも知れぬ。なあ半兵衛」
「ふん」
「俺が今看ている男はな、明日大水が来たらどうしよう、明後日地震が来たらどうしよう、来年大火が起きたらと考え過ぎる余り、到頭心の臓を病んで寝込んでしまったのだそうだ。大水や地震や大火は大きな不幸だが、それは多くの人の心を沈ませるからだ。そう考えるなら、その男の心持ちもこれまた大きな不幸だな。ところがだ。昨年の大火でたんまり儲けた者がある。何処の瓦屋だったかのう。自分の店も焼けてしまったというのに、武州の瓦を大量に武家屋敷に売り込んで、大きな財を成したと云うな。大火とは彼にとって不幸ではなく幸いであったのだ」
「はあ」
「事程然様に、不幸とは人の心のありようそのものではないのかな。大きな災いに相対すれば哀しみや憤りも湧いて来るし心持ちも沈むだろう。しかし、つまづくかもしれぬ小石を畏れて外も歩けぬと云うのでは、それこそ生きては行けまいよ」
「ふむ」
「だから千代殿、要は源助の心持ちを、何とかしてやれば良いのではないかな。指の多い猫を畏れるという彼の心を。尤も、年寄りの心を変えるとは、一筋縄ではゆかぬだろうが」

千代の顔に、明るさが戻った。そして、

「では、どうすればよろしいのでしょう」

と露庵に問う。

「ふむ。それは勿論、半兵衛に活躍して貰わねばなるまいよ。そうさなあ…久々に剣を握ってみるか半兵衛」
「なに?」

含み笑いをする露庵に、また悪知恵かと、半兵衛は、重い溜息を吐いた。




つづく







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