第二百八十話 <随筆>地震とマルコ | ねこバナ。

第二百八十話 <随筆>地震とマルコ

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三月十一日の大地震以降、余震の絶えることがない日本列島である。
私の住む群馬県では、最初の地震で最大震度六弱(桐生市)を観測したものの、その後は大きな揺れもなく、水道やガス、電気も長時間止まることがなかったので、生活に大きな支障はない(ただガソリン不足にだけは苦労した)。計画停電は事業者の方々にとっては大問題だが、日々だらだらと過ごすだけの私にとっては、特別苦にもならなかった。
それでも、地震の被害をテレビやラジオ、インターネットで見聞きするだけで、精神的には相当まいってしまった。所謂PTSD(心的外傷後ストレス障害)に似た症状は、実際の体験ではなく情報、つまり映像や音声のようなヴァーチャルなものによっても引き起こされるという。私の場合、まさかそこまで深刻ではなかろうが、実際食事の量が減ったし、体重も落ちた。
過剰な情報が無数に飛び交う社会、目に見えぬものに怯える現実。震災の惨禍だけでなく、便利さと快適さを求め続けた二十世紀が二十一世紀にもたらした影を、今私たちは肌身で感じている。そしてどんな時代、どんな社会にあっても、人間は影からは逃れられない。何故なら、光のあるところには必ず影があるからだ。無論人間に光は必要だ。だからこそ、その影の存在から目を背けてはならないと、今更ながらに思うのである。

  *   *   *   *   *

さて、地震の後すっかりまいってしまった私に、猫のマルコは容赦なく、普段どおりの世話を要求する。彼としては、地震如きに自らの快適な生活を邪魔されては堪らないという心境なのであろうか。椅子の上にへなへなと崩れ落ちて使い物にならなくなっている私に、さっさと飯を寄越せと凄む。ブラシが足らないと叫ぶ。おなかを撫でろと転がってみせる。ヤレヤレと呟いておなかを撫でてやりながら、ふと思い返してみる。地震前後の、彼の行動を。

ペットが地震を予知するという話は、あちこちでまことしやかに語られる。それがどのように現れるかといえば、えさを食べない、妙に暴れる、隠れて出て来ないなど、通常では考えられない行動をとったとして説明されることが多い。古くはナマズが暴れることを地震の予兆としたというし、スマトラ大地震のときにはゾウが地震の前に林へと逃げ込んだという話もある。このたびの大地震の際にも飼い犬や飼い猫が不可解な行動をとったというブログ記事も散見されることから、動物の「野生の勘」はあながち無視できないのかも知れぬ、と思わないでもない。
では、我が家の尊大なるマルコ氏は、どうであったろう。

2011年3月11日、午後2時46分の地震発生時、彼は私の椅子を占領して眠りこけていた。私はテーブルを挟んでその向かいに座っており、パソコンの画面を眺めてぼんやりしていた。テレビもラジオもつけておらず、ただ本当に、ぼんやりしていたのだ。
始めカタカタと襖が揺れ、次第にその音は大きくなっていった。幸か不幸か、最近は地震が多かったので、私は相変わらずぼんやりしていたのだが、ずずずず、という聞き慣れない地鳴りのような音に、これはまずいと立ち上がった。
果たしてマルコ氏は、私の椅子のど真ん中で、耳をぴんと立て、頬を膨らませて、何かを察知すべく目を真ん丸に見開いていた。しかし、残念かつ不名誉なことに、彼の下半身はその表情に反して、でろんとしなだれたままだったのである。
つまり彼は、思いきり、腰を抜かしていたのではなかったか。

慌てて脱力したままのマルコを抱えて寝室に向かい、布団を被せて身を丸め、長く強い揺れに耐えながら私はあれこれ考えを巡らせた。妻の勤め先は大丈夫だろうか。揺れが収まったらすぐメールを打とう。そういえば非常食は、懐中電灯は。マルコのごはんのストックが足りないかもしれない。猫砂は確かまだあったはず。ああキャリーバッグを寝室に持って来ておくんだった。水のお皿も、トイレも。それからそれから...。
終いにはマルコのことしか、私は考えなくなっていた。天晴れ下僕根性と言うべきか。

揺れが収まって布団の中を覗いてみると、マルコは耳をぺたっと伏せて、ふるふると震えていた。生まれて始めての大地震は、彼のこころに大きなトラウマを残してしまったようだ。結局その日、彼は水もろくに飲まず、ごはんも全く食べなかった。余震が続く間もずっと布団の中に潜って、尻尾すら外に出そうとしなかったのである。

  *   *   *   *   *

その後、彼は緊急地震速報の音と、カタカタとドアの揺れる音を素早く察知し、脱兎の如く寝室の布団に潜り込むようになった。いうまでもなくこれは予知ではなく過剰反応であり、彼のビビリの賜といえよう。そしてこのような「自主避難」をしてくれることで、のろまな私は随分助かっている。
結論。少なくとも我が家のマルコには、地震予知の兆候など微塵もなかった。ちょっぴり残念に思う反面、ああやはりうちの子だ、と私は妙に安堵してしまう。もともと彼に野性の勘など期待していない。ただのビビリであっても、とっさに自分の身だけ守ってくれればよい。
そして、天邪鬼な私はこう考える。人間は、予知能力がない自らの「欠点」を、動物たちに求める、いや転嫁しようとしているのではなかろうか。きっと彼らならやってくれる。私たちを助けてくれるなどと、妙な期待を押し付けているのではなかろうか。
いのちはそれぞれに強く、そして弱い。厳しい言葉を使えば、強靱に生き延び、あっけなく死ぬ。それは自然の理のなかで行われるサイクルであり、究極的にそれに抗うことはできない。人間は遮二無二抗うことで現代の「安全で快適な生活」を手に入れたが、それもあちこちで綻んでいる。その綻びは人間の限界なのだ。その穴埋めを動物たちに求めるのは、いささか虫が良すぎるというものではないか。
人間は抗う生き物である。ヘタレな私もヘタレなりに、せいぜい抗ってゆこうと思っている。それは自分のたいせつな人々、たいせつな存在とともに生きようという根元的な願いに支えられている。その中にはもちろん、家族の一員としてのマルコが含まれる。彼に守ってもらおうなどと思わない。むしろ彼には、いつも傍らにいて、安堵した表情で眠りこけていて欲しい。それだけをただ、願っているのだ。

  *   *   *   *   *

日々伝えられる震災に関するニュースの中には、動物に関するものも多く含まれている。被災地での動物救出と支援、飼い主との再会と別れ、避難所での癒しとトラブルなど、その内容は多岐にわたる。どれも切実で、あまりにも多くの尊い命が失われた事実が厳然として背景にある。だからこそ、人間が彼らと暮らすとはどういうことかを、真摯に考える機会にせねばなるまい。たかが動物、などではない。彼らはすでに私たちの社会の一員として、今この時を生きているのだから。




おしまい



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