第二百五十三話 虎之助の恋 中
前回 第二百五十二話 虎之助の恋 上
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一体俺は何をやっているのだ。
半兵衛はそう自問せざるを得ない。
二日前、露庵に「関わるな」と釘を刺されたにも拘わらず、半兵衛は虎之助の案内で、両国のとある茶屋で、チサに会う事になってしまった。
剣術ならば右に出る者はいなくとも、元来人付き合いが苦手で、惚れた腫れたには触らぬように生きて来た半兵衛にとって、こんな役回りは全く似合わぬ。然し虎之助の、神か仏にでも縋るような懇願を受けては、只止めて置けと言う訳にもゆかず、兎も角も会うだけ会おうと、そんな事になってしまった。
両国橋を渋い面持ちで渡る半兵衛に、やや緊張気味の虎之助が言う。
「師範、あの、あすこの茶屋です」
「む」
大川縁に立つ何軒かのうち、梅の花の紋が入った暖簾のある一軒を、虎之助は指差した。
「チサは...未だ来ておらぬようで」
「そうか」
「私が迎えに行って参ります。師範は茶屋で休んでいてください」
虎之助はそう言い残して、弾むように駆けて行った。やれやれ、と半兵衛は呟き、茶屋の縁台にどっかり腰を下ろし、熱い茶を所望した。
大川を冷たい風が吹き抜け、水面にさざ波が立つ。水鳥達が飛び立っては舞い戻って来る。
そんな光景を、しばし半兵衛はぼんやりと見ていた。が、
「いやあああ!」
女子の悲鳴が、直ぐ近くの路地から聞こえた。
半兵衛はがばと立ち上がり、悲鳴のするほうへと早足で歩く。すると、細い路地をひとりの娘が走って来るのが見えた。
誰かに追われているように、後ろを気にしながらするすると、こちらへ向かって走って来る。
「待て! 待たぬか!」
その後ろから野太い声が、ふたり分。
がらがらと桶だの籠だのに引っかかる音とともに、聞こえて来る。
あの娘、チサか。
どうした。
半兵衛が一歩足を踏み出した瞬間。
「ぴきゃっ」
一匹の仔猫が、チサの足元を駆け抜けた。
ぶつかる。
危ない。
半兵衛は声をあげそうになったが。
チサの足は。
するりと仔猫を見事に避けて、蹌踉けた「ふり」をした。
半兵衛の勘が何かを察知した。
そして咄嗟に、足元の小石を掴んで、弾くように投げた。
礫は、チサの額目掛けて、飛んだ。
するり。
躱した。
そしてチサは、一瞬、半兵衛を見た。
只の娘の目では無い。
冷徹な、鋭く危険な目だ。
あの娘。
何者だ。
「あだっ」
半兵衛の投げた礫は、後ろから追って来た男の一人に当たった。
「たっ、助けてくださいまし」
チサはするりと半兵衛の後ろに隠れる。
半兵衛は男達の方を見る。
「貴様か! 石を投げたのは」
額を抑えて男が呻く。
しかしもう一人の男が。
「しっ、師範」
と叫んだ。
「おう、平次郎、どうした」
半兵衛は表情を変えずに言葉を返す。
小松原平次郎は浅右衛門の門弟で、盛岡藩士の息子であった。虎之助より二つ年長で、剣の腕前は折紙付きである。
半兵衛に問われて、平次郎は慌てふためいた。
「何故師範がこんな処に」
「野暮用でな。お主こそどうしたのだ」
「いっ、いえそれは」
平次郎は礫を当てられた男に耳打ちをする。すると男の顔色がさっと変わった。
「何でもございませぬ。この者が、どうも巫山戯たようで」
「おい平次郎」
「では、御免」
そうして、平次郎は男を引きずるようにして、その場を立ち去った。
「ああ、ありがとうございます」
半兵衛の後ろに隠れていたチサは、深々と頭を下げた。
「いやなに、怪我は無いか」
「はい、御陰様で」
頭を下げたままのチサを、半兵衛はじいと見た。
この娘。
只者では無い。
「師範! どうなさい...ちっ、チサ! どうした」
虎之助が慌てて走って来る。
その方へと身体を向けたチサが、又ちらと半兵衛の目を見た。
まるで猫だな。
獲物を狙う猫の様だ。
この娘は...。
半兵衛はすいと目を逸らし、腕組みをした。
そして。
「済まぬ、虎之助。ちと用を思い出した。又今度な」
「えっ、そんな、師範」
「お前も早う戻れよ」
そう言って、足早にその場を後にした。
後ろで虎之助が何か言っている。しかし半兵衛には聞こえなかった。
何故平次郎がチサを追って来た。
盛岡藩士の平次郎が、何故チサを追って来たのだ。
チサは弘前藩の上屋敷で働く世話係だ。
盛岡藩と弘前藩、両藩の間には何がある。
そして、何故虎之助が、巻き込まれねばならぬのだ。
最早自分の手に余る。早々に判断した半兵衛は、急ぎ足で麹町の浅右衛門別邸に向かった。
* * * * *
「虎之助め。あ奴もまだまだだな。間者の手玉に取られるとは」
半兵衛の師 山田浅右衛門吉睦は、口の端に笑みを浮かべてそう言った。
「か、間者ですか、矢張」
「そう考えざるを得んだろうよ。盛岡藩と弘前藩の間には、戦国の世以来の遺恨が燻って居るからのう。互いに間者を放って様子を探っておるのだろうさ」
半兵衛は吉睦がさっさとチサを間者と見抜いた事に驚いた。吉睦は茶をひと口啜り、眉を顰めた。
「只、どうも妙だな。間者が部外者を巻き込もうとする時、その主な狙いは撹乱だ。自分や仲間が間者と見抜かれぬ様、或いは足が付かぬ様、情報を混乱させるのさ。然しこの場合は」
「はい」
「チサとやらは弘前藩の屋敷に居るのだから、普通に考えれば、盛岡藩の間者として潜り込んで居るのだろう。何故盛岡藩士がチサを追っていたのだ」
「はあ」
「裏切った事が露見したのか。或いは他の企みがあるのか...。虎之助を巻き込んで弘前・盛岡両藩に利する処があるとは、思えないのだがなあ。どちらも幕府に自らの醜聞が届くのをえらく気にしておるしな」
吉睦は眉を顰め、腕組みをして少々考え込んだ。そして、ふと思い出した様に言った。
「そういえば、半兵衛、爺が何かお主に言うたか」
「はっ」
吉睦の言う爺とは、須藤五太夫の事である。
「どうなのだ」
「はあ、まあその」
「子はまだか、と訊いたのではないかな」
「い、いえそんな」
「気にするな。元々お主や千代が気に病む筋合は無い。俺も清も気にしてはおらぬさ」
半兵衛はじっと師の顔を見つめる。吉睦は、ふふん、と軽く鼻を鳴らした。
「巷では、穢れた稼業に身をやつしている為に、浅右衛門には神仏の加護無く、跡継ぎが出来ぬ、との噂があるそうな」
「先生!」
「権現様の御代より御様御用を勤めて来た家が次々と断絶し、今や代々それを受継ぐのは山田浅右衛門のみ。噂も無理からぬ事よ」
切れ長の吉睦の目は、茶碗の底をじいと見つめている。微かに笑みを浮かべたその表情からは、半兵衛は師の本心を窺うことは出来ない。
「せ、先生...」
半兵衛は呻くように言った。と、それを見た吉睦は、悪戯っぽく笑った。
「俺がそんな噂を真に受けると思うか?」
「は」
「言いたい奴には言わせて置けば良いのだ。浅右衛門の名は技量のある者が継ぐ。それが自然な事なのだ。爺の懸念は判るが、やれ子が出来ぬ、跡継ぎがおらぬと騒いでは、それこそ有象無象に付け込まれるだけだ。そうであろう半兵衛」
「はい」
矢張このお人は傑物だ。半兵衛は心の中で安堵した。
その時。
廊下を慌ただしく走って来る者がある。
「吉睦様!」
噂をすれば何とやら。爺こと須藤五太夫である。
「おう、爺か。何用だ」
「た、只今、弘前藩家臣本尾忠則なるお方が、吉睦様にお会いしたいと」
「ほう」
吉睦は片眉を大きく持ち上げた。
「どんな用だと言うのか」
「火急の用、とだけ仰いました。如何致しましょう」
ふうむ、と吉睦は唸って、
「よかろう。奥の間にお通しするように。本尾様と会うている間、誰も其処に入らぬよう、目配りいたせ」
「ははっ」
「半兵衛、お主は次の間に控えておれ。爺もな」
「はっ」
「心得ました」
そうして各人は、弘前藩の重臣、本尾を迎えたのである。
* * * * *
爺こと須藤五太夫の憤懣たるや、尋常ではなかった。
「あの若造が、何と云う事を」
半兵衛は文字通り憮然という他無い表情で畳を見つめ、浅右衛門吉睦も、腕組みをして目を閉じたまま動かない。
そこへ、当の「若造」がやって来た。
「内藤虎之助、入ります」
「うむ」
現れた虎之助は、その場の異様な雰囲気に怯みながらも、おずおずと吉睦の正面に座した。
「火急のご用件とは、一体どうなされたのです」
「どうなされた、だと!」
須藤は顔を赤銅色に染めて怒鳴った。
「よくもそんな呑気な事が言えたものよ。だいたい、父は、信三郎殿はどうしたのだ」
「はっ、父は風邪をこじらせまして、起き上がるのも辛そうでしたので...」
「なにっ、親子揃って何だその為体は」
「もう止せ爺」
吉睦は須藤を制止し、ゆっくりと話し始めた。
「これは虎之助本人の問題だ。信三郎には関係無い。今の処はな。さて虎之助」
「はっ」
「チサという娘に、心当たりがあろう」
虎之助は、はっと目を開いて半兵衛を見た。然し半兵衛は、じっと畳に視線を落としたままだ。
「どうなのだ」
「は、はい、存じております」
「良い仲だと云うではないか」
「い、いやあの」
「先程、弘前藩邸の重役、本尾様がな、この屋敷にみえたのだ」
吉睦の言葉に虎之助は仰天し、大きく口を開けたまま固まった。
「そそそ、それは」
「そのチサと云う娘、津軽公の奥方の世話係だそうだの。奥方はえらくお気に入りとの事だが」
「...」
「子をな、身籠もったそうだ」
「...えっ」
「えっ、ではないぞこの戯けッ」
須藤が又怒鳴る。
「貴様、役目を蔑ろにして何をしておった! 浅右衛門の名に泥を塗りおって!」
虎之助は話が未だ飲み込めていない。
吉睦が気だるそうに言う。
「原因あっての結果だ。身籠もった子の父は、虎之助、お前だろう」
虎之助の顔から血の気が失せた。
わなわなと身体が震え、そして、がばと平伏した。
「もっ、申し訳ございませぬ、私は、私は」
「申し訳無いで済むものかッ! 諸藩からの篤い信頼がある故、浅右衛門の道場には多くの藩士が集って研鑽を積むのだ。それを貴様の様な不心得者に台無しにされたとあっては、ああ儂は先代に何とお詫びしてよいやら」
怒ったり嘆いたりと須藤は忙しいが、吉睦は端然と座したまま、虎之助をじいと見て居る。
虎之助は平伏したまま叫んだ。
「この虎之助、一生の不覚でございます。何でも致します。腹を切ってお詫びいたします」
「腹を切るような類の問題では無いのだ。第一、お前が腹を切っても何の解決にもならぬ」
吉睦は冷静に語る。
「爺の言う通り、諸藩の評判を落とす事は、我等にとって重大な問題だ。だから俺は、これは内藤家と弘前藩の問題で、浅右衛門は一切関知せぬ、何となれば内藤虎之助などとは今後一切関わらぬ、と言ってしまえば、それで済むのだ。そうだな虎之助」
「は...」
そろそろと顔を上げる虎之助は、泣きそうな表情で吉睦を見る。
「しかしな。今回はそうもゆかぬ。本尾様の話では、今回の事、盛岡藩の企てではないかと、津軽公は疑うておるのよ」
「は?」
「小松原平次郎。盛岡藩士のあの男が、お前を誑かして、チサに近づけたのだと。そして問題を起こして騒ぎを広げ、浅右衛門と弘前藩の仲を裂こうとしておるとな」
「...真逆、そんな、平次郎殿は只の兄弟子で」
「判っておる。裏を返せば、それだけ両藩の間が険悪だと云う事だ。兎も角、そんな疑いがかけられた以上、浅右衛門も何らかの動きをせねばなるまいよ」
「...はあ...」
気の抜けた返事をしつつも、虎之助は自分のしでかした事の重大さに、肩をすぼめてちぢこまる外無かった。
「...では、私は一体...」
「先ずは詫びに行かねばなるまいて。お前ももう一人前の男だ。直接藩邸に伺って詫びを入れて来い。平次郎と盛岡藩の事は俺が何とかする」
「せ、先生、私はあの娘と、チサと、め、夫婦に」
「それは諦める事だ」
吉睦はきっぱりと言い放った。
「こんな問題を起こした以上、それは不可能だ。恐らくチサは堕胎させられるだろうな。可哀想だが」
「そ、そんな、そんな...」
「それも含めて、お前は詫びに行かねばならぬ。判ったか」
「...はい...」
「話はそれだけだ。信三郎には未だ話すな。よいか、明日必ず、お前一人で、直接詫びに行くのだぞ」
「...は...」
蚊の鳴くような声で虎之助は返事をし、よろよろとその場を後にした。
「やれやれ、全く面倒な事を...」
須藤が頭を抱えて座り込むと、吉睦は微笑んで声を掛けた。
「爺、苦労をさせて済まぬな。今日はもう休んでくれ」
「な、何を仰います! この五太夫、まだまだ若い者には...」
「こらこら、それがいかん。俺にはまだお主の力が必要なのだ。卒中で倒れられたりしては、俺が困る」
「...はあ」
「明日も頼むぞ」
「は...では、これにて」
須藤は不服そうな面持ちで引き下がる。後に残ったのは吉睦と半兵衛の二人のみ。
「さて、これで仕掛けは調った。後は頼むぞ、半兵衛」
「はっ。ところで」
「何だ」
「井上露庵が、この一件に関して、何やら知っておるようなのですが」
「ふむ、露庵か...」
「如何致しましょう」
吉睦は暫し考えていたが、
「当てには出来まいな。今回は、奴は俺達のために働いてはくれないだろう」
「そうですな...」
「では、宜しくな」
「はっ」
半兵衛は素早く立ち上がり、麹町の浅右衛門別邸を後にした。
明日は大晦日。外には静かに、雪が舞っていた。
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