第二百五十二話 虎之助の恋 上 | ねこバナ。

第二百五十二話 虎之助の恋 上

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享和三年の暮れ、江戸は季節外れの暖かな日和に恵まれていた。
街の店先は注連飾りや門松で飾られ、人々が忙しく行き交っていた。娘達は店先で簪を選び、道端の露店はあちこちで賑わい、借金取りは長屋の隅々を走り回り、その借金取りから逃げおおせるために、町人たちは知恵を絞った。
そんな何時もと変わらぬ年の瀬。ここ平河町の山田浅右衛門屋敷にある道場でもまた、何時もと変わらぬ厳しい稽古が続いていた。

「背を曲げるな! 踏込みが遅い!」

若い門弟に対して、師範の長内半兵衛から鋭い声が飛ぶ。木刀が激しく音を立て、気合の声が冷え切った道場に響く。
長内半兵衛。この年三十一。無口で朴訥な性格と生来の仏頂面が災いして、門弟からは「鬼瓦」などと陰口を叩かれる事がある。だが山田浅右衛門道場では最早並ぶ者の無い剣の達人で、「皮一枚残して首を斬る」事が出来るのは、山田家当主の五代浅右衛門吉睦とこの半兵衛のみと巷で噂されている。
山田浅右衛門が代々伝える山田流とは、試刀術、所謂「据物斬」である。将軍家や大名達の依頼で試刀の為に屍体を斬る「御様御用(おためしごよう)」、そして刑場での斬首などで、据えられた屍体、あるいは人の首を如何に素早く、鋭く、かつ刀に負担をかけずに斬り落とすか。これが戦国武将谷衛好を始祖とする谷流試刀術の極意である。これを受継いだ山田流を学びに、日本各地から藩士が集まり、修業に励んでいた。それはとりもなおさず、罪人の処刑や切腹の介錯など、国許で人を斬る必要に迫られていたからに他ならない。永き太平の世にあって、山田流の剣術は最も実用的な類のものであったかも知れない。
とはいえ、武士たる者、「据物斬」だけに励む訳ではない。様々な藩から剣術自慢が集ったこともあり、浅右衛門の道場では、直心流、新陰流、一刀流などの強者が、道場で互いに技を競い合い、研鑽を積んでいた。江戸のそこかしこで「道場同士で真剣の斬合いをしたら、勝つのは浅右衛門だ」と秘かに噂が立つのも、無理からぬ処である。

「ようし、今日はこれまで」

半兵衛の号令で、門弟達は一礼し、もうもうと背中から湯気を立てて道場から去って行く。その中でひとり、じっと座って動かぬ者がある。

「ぬ、どうした虎之助」

半兵衛が声を掛けると、

「は、あ、いえその」

門弟の内藤虎之助は、口籠もって下を向いてしまった。

「虎之助、近頃動きが鈍いぞ。技にも迷いばかりが見える。一体何事だ」

憮然とした表情で、半兵衛は苦言を呈する。虎之助は今年十八、門弟の中で三番目に若い。父の内藤信三郎は直参旗本で、もともと浅右衛門の門弟であった。息子の腕を自分以上と見込んだ父信三郎は、虎之助を十の頃から道場に通わせている。半兵衛も、彼の鋭い刀捌きと技の切れを高く評価していた。しかし。

「は、あの、あのう、実は」
「何だ」

この時の虎之助は、熱にうかされたように上気していた。一見すると年より随分あどけなく見える虎之助は、おどおどすると余計に幼い子供のようだ。半兵衛は焦れた。

「話があるなら、さっさと言わんか」
「は...ええ..っと」

視線を板の間に泳がせていたかと思うと、虎之助はがばり、と平伏して、

「も、申し訳ありません、以後精進いたしますっ」

と叫んで、弾かれたように道場を飛び出した。

「...何だ、あ奴め」

半兵衛は呆れ顔でその背中を見送り、ふう、と息を吐いてその場を去ろうとした。が、

「半兵衛殿」
「ぬわっ」

半兵衛の至近距離に、元師範頭 須藤五太夫の顔が在った。半兵衛は面食らって後ずさりした。

「す、須藤様」
「稽古は終いですかな」
「はっ」
「そうですか。では半兵衛殿、つかぬ事をお訊き致しますがな」

皺の刻まれた顔を、ずい、と半兵衛に寄せる須藤は、伊予今治藩士で、先代浅右衛門吉寛の一の高弟である。齢七十三、師範頭こそ退いたものの、浅右衛門吉睦を陰で支える老獪な人物で、この道場に十三の頃転がり込んで来た半兵衛は、以来ずっとこの老人に頭が上がらなかった。

「何でしょうか」
「千代殿は、未だご懐妊なさらぬのですかな」

またか。
半兵衛は心中で溜息をついた。
前年、吉睦の奥方 清が身籠もった子を流産してからというもの、山田家は重苦しい雰囲気に包まれている。吉睦は今まで以上に職務に精励し、清も気丈に笑顔を振りまいてはいるが、麹町の別宅に引き籠もる日が多くなれば、自ずと心労の重さが知れようというものだ。
須藤が半兵衛に、子はまだか、と尋ねるようになったのは、その後直ぐのことである。

「生憎と」

半兵衛はそう短く返す外無い。

「半兵衛殿、お立場を自覚なされよ」

須藤の眼光は鋭い。その鋭さが、須藤の危機感を物語っている。

「先代吉寛様の後継が源五郎様、いや吉睦様に決まるまでの騒動、折に触れてお話してきた筈。よもやこの老体に、あの時と同じ苦労をさせる気ではございますまいな」

源五郎とは吉睦が山田家の養子になってからの名である。吉睦の実父は磐城国湯長谷藩藩士三輪源八という男で、三代浅右衛門吉継の娘ナヲの夫でもある人物だ。
先代吉寛が病に倒れたのは天明六年、半兵衛が道場に拾われてから直ぐのことだった。子の無かった吉寛は、紀州藩士の次男を養子として迎えていたが、その養子 山田源蔵は身体が弱く病がちであったため跡目を継がぬまま隠居してしまった。その源蔵が養子として迎えたのが三輪源八の子文三郎で、これが後の山田源五郎、即ち山田浅右衛門吉睦なのである。門弟の中でも傑出した技量と才覚を備えていた吉睦は、源蔵と須藤五太夫の後盾によって、寛政二年、正式に浅右衛門を名乗ることとなった。浅右衛門の名は、吉寛が亡くなってから実に四年もの間途絶えていたのである。
この間、道場を取り仕切っていた須藤の苦労は計り知れなかった。次々と舞い込む役目の傍ら、山田家が今後も御様御用を仰せつかるようにと、諸大名や幕府の重臣達に巧みな政治工作を行っていたのだ。そして道場内に蟠る不審や不安の目も、硬軟取り混ぜた手練手管で摘み取ってゆかねばならなかった。その執念は、師である先代吉寛への恩義が如何に強いものであったかを物語る。

「若し吉睦様に子が授からぬ時は、半兵衛殿、そなたの血筋が浅右衛門という名を救うやもしれぬのです。否、救って貰わねば困るのです」
「...」
「吉睦様はまだお若いが、その身に何かあったらどうなされます。ここぞとばかりに諸藩が山田家の利権を求めて群がってくるは必定。その意味で、そなたの立場は極めて重要なのです。お判りかな」

山田浅右衛門が代々御様御用や刀剣の鑑定、更に、屍体から取り出した臓腑により製造される丸薬によって莫大な収入を得ている事は、江戸市中のみならず、諸藩にも広く聞こえていた。仕事が仕事だけに、直接諸藩が介入する事は憚られたが、間接的にその利権を掌握しようとする動きは、実のところ少なくない。詰まる処、半兵衛のような、純粋に剣の腕がたつ浪人の血筋こそ、大事有った時の山田家の後継としては最も「差障りが無い」のである。

「ゆめゆめ、お忘れにならぬよう」

じい、と半兵衛の顔をねめつけて、須藤はすいすいと道場を後にした。半兵衛は脱力し、埃の舞う天井を見上げた。
須藤の懸念は判る。そして須藤が半兵衛本人ではなく、その子に期待する気持ちも判らぬでもない。自分のような朴念仁が、浅右衛門の名を負うに不可欠な才覚、特に茶の湯や俳諧、そして諸大名と渡り合う政治力を持つのは無理だろうと、半兵衛は自覚しているのだ。
然しこればかりは何うにもならぬ。神仏に祈って済むものなら幾らでもそうするのだが。
妻 千代の物憂げな横顔を思い浮かべ、半兵衛はまた、重い息を吐いた。

  *   *   *   *   *

「おかえりなさいませ」

千代は何時もの通り、玄関で半兵衛を迎えた。
二人が夫婦になって早五年。毎日のように繰り返されて来た光景だが、

「にゃあ」
「みゃあおう」

毎日、少しずつ変わっているのは、玄関にたむろする猫の面々である。
千代は大層猫好きで、屋敷を訪れる猫達に何かと世話を焼くので、何時の間にか近所中の猫が集まるようになってしまった。近所の口さがない連中は、半兵衛宅を「猫屋敷」と呼んでいる。

「今日はテツの姿が見えないが」
「ええ。先程、鼠を追いかけて、天井裏へ走って行きました」

帰宅直後にこんな会話が飛び出すのも、半兵衛宅ならではのものであろう。
風呂に入り、銀鼠の着物を着流して、半兵衛は居間にどっしりと腰を下ろした。すると直ぐに千代が熱い茶と菓子を運んで来る。これも又、酒を滅多に呑まぬ半兵衛ならではの習慣であった。
半兵衛が饅頭をひと口頬張ると、千代がおずおずと口を開いた。

「あのう、お前さま」
「ぬ」
「ひとつ、伺いたい事がございます」
「何だ、改まってその様な」

千代は両手を膝の上でぎゅうと握り、意を決したように半兵衛を見た。

「私は、此処に居ても宜しいのでしょうか」

半兵衛は呆気に取られて千代を見る。

「な、何を言い出すのだ」
「お前さまに嫁いでから五年になります。お前さまも、山田の家の皆様も、門弟の方々も、それはよくして下さいます。私には何も不満はございません。只」
「ただ」
「私は、そのご恩に報いる事が、出来ておりませぬ」

千代はそう言うと、赤くなった眼を畳に落とした。
半兵衛は、茶で饅頭を喉に流し込み、憮然と言った。

「須藤様に呼ばれたか」
「は」
「子の事を何か言われたのか。そうであろう」
「...はい」
「全く、あの老人にも困ったものだ」
「でも、お前さま」
「気にするな。それにお前の所為では無い。俺が明日、須藤様に文句を言ってやる」
「でも」
「それで終いだ。もうこの話はするな」
「は...」

何かを言いかけて、千代は口籠もり、

「申し訳ございませぬ」

と言って平伏した。

「腹が減った。饅頭では足りぬ。飯にしてくれ」

半兵衛がそう言うと、千代はするすると部屋から去った。半兵衛は歯形の付いた饅頭を見つめた。
千代は何と言おうとしたか。誰か妾でも出入りさせようというのか。それとも。
半兵衛はそれを聞くのが嫌だった。何より、千代の口から聞くのが嫌だったのだ。
ならば、いま少し気の利いた物言いも出来たであろうに。半兵衛は自らの無粋さを呪って。
憎々しげに、饅頭をひと口で平らげた。

  *   *   *   *   *

翌日。

「ふふん、お前も気苦労が絶えぬのう」

と、まるで心配せぬような口ぶりで半兵衛に言うのは、日陰横町に住む町医者の井上露庵である。
長崎で修業を積んだ秀才だが、その割に言動が気さくで軽い。半兵衛とはひょんなことから親しくなり、何かと口実を見つけては、互いの家に出入りするようになっていた。

「笑い事では無いのだ。お陰でそれからというもの」

しかめっ面を作って半兵衛が言う。
二人は、うっすらと雪化粧した上野の山の麓、不忍池のほとりにある茶屋で、団子を頬張っていた。小塚原の刑場で腑分けが行われ、それに立ち会った二人は連れ立って帰ってきたのだ。
団子の串を振りながら露庵が茶化す。

「何だ、千代殿が臍を曲げて、飯を作ってくれなくなったか」
「いやそんなことは」
「じゃあ何だ」
「千代が」
「どうした」
「目を合わせてくれなんだ」
「ぷっ」

露庵は思わず吹き出した。

「わははははは、お前、十五六の餓鬼の色恋沙汰でもあるまいに、何だそれは」
「うっ五月蠅い」
「まあ、その初な処が千代殿の好みなのかもなあ。その不動明王みたいな顔で。俺にはとても理解できぬが」
「大きなお世話だ」
「しかしなあ、もう少しお互いに、噛んで含めて話をせねばなるまいよ。お前にはお前の、千代殿には千代殿の考えや悩みがあるだろうに」
「ふぬう」
「と云って、お主のような朴念仁に、それが容易く出来るとも思えぬしのう」

半兵衛は何か言い返そうとしたが、ぐっと押し止まった。露庵の指摘は尤もであるし、第一、口で露庵に勝てたためしが無いのだ。

「兎も角だ。格好をつけずともよいから、一度膝をつき合わせて、話し合ってみる事だな。女子の良い相談相手がいれば、この際は助かるのだが...」
「むむ」
「一番頼りに出来そうな清殿は、問題の渦中の人だしなあ。やれやれ」

露庵はそう言って、ふた串めの団子を口に運びかけて、

「おや、あれは」

と声を上げた。
団子を口一杯に詰め込んでしまった半兵衛は、箱河豚のような顔で、露庵の指す方を見遣る。
その先には。

「あれは...虎之助殿ではないか」
「ふがっ」

池のほとりに佇むのは、昨日道場で不審な言動のあった、虎之助。
そしてその傍らには。

「ありゃ、綺麗な娘さんだあ」

路考茶の小袖に身を包んだ、すらりとした肢体。雪景色に溶け込んでしまいそうな程白い肌。そして凛とした眉、目鼻立ち。
町娘の様な態をしているが、その顔立ちはこの辺りの者には無い、不可思議な色香を放っている。

「虎之助殿も美男子だからのう、いやはや、隅に置けんのう。なあ半兵衛」
「ふぐっ、ぬぬぬ」
「何だ、団子が喉につかえたか。ほれ」

露庵から差し出された湯呑をひったくると、半兵衛は一気に団子を腹へ流し込んだ。そして、

「虎之助には、今日は鈴ヶ森へ行く用を言いつけてあった筈だが」

眉間に皺を寄せてそう言った。

「ほう、そうなのか。ならばそれ程、あの娘さんに惚れているのだろうなあ」
「役目を忘れて逢引とは、あ奴め」
「こらこらこら、ちょっと待て半兵衛」
「しかし」
「だからお前は無粋だと云うのだ。虎之助殿を叱るなら道場に戻ってからで良かろう。あの娘さん、お前が怒った顔を見て引きつけを起こしたらどうする」
「そ、そんなに怖いか、俺は」
「例えばの話さ」
「むっ」
「ともかく、まあ座れ。座って成り行きを見ておればよい」
「ぬうう」

半兵衛は唸って、毛氈の上に座り直し、ちらちらと虎之助達の様子を窺うことにした。
時折笑みを浮かべながら、池のほとりで立ち話をする虎之助と娘は、実に幸せそうに見えた。
自分にもあんな頃があったろうか。半兵衛は思い起こそうとして、止めた。滅多に笑顔を作らぬ、いや作れぬ自分に、あんな楽しげな景色は似合わない。
ふと、娘の顔が千代に重なった。
俺は千代に、ああして笑ってやれているだろうか。

「お、何かを手渡したのう、虎之助殿は。簪か、それとも櫛かな」

露庵は何故か楽しげに、半兵衛に囁く。それに応えるでもなく、半兵衛は只憮然と、横目で若い二人を見ていた。

  *   *   *   *   *

「虎之助、ちょっと来い」

翌日、正に鬼瓦のような面持の半兵衛に呼ばれて、虎之助は背を縮めた。
道場の裏の別室に連れて行かれると、半兵衛が口火を切る前に、虎之助は平伏して詫びた。

「申し訳ございませぬ。昨日の御役目は、ち、父が代行してくださいました」
「信三郎殿が? 何故だ」
「いえあの、は、腹が痛いと言って...」
「戯け者! 御役目を何と心得る」
「はっ」
「先生は未だご存知無いから良い様なものの、こんな醜態が奉行所の耳に入ったら何うなるか。お主も判っておろうな。浅右衛門の門下は皆、職務に忠実でなければならぬ。その姿勢が崩れた時、我々は役目を失い、路頭に迷う事に成るかもしれぬのだぞ」
「は...」
「常日頃の心掛が肝要と、口を酸っぱくして言うておるのに、それが何故判らぬか」
「ももも、申し訳」
「それともう一つ」
「は」
「俺が何も言わぬのに、何故、昨日の事を咎められると判ったのか」
「それは...」
「言え」
「はっ、い、井上露庵先生が、教えてくださいました」
「あの野郎...」

半兵衛は凶悪な人相になって、障子の桟をじろりと睨んだ。
その時。
虎之助はがばと身を起こし、半兵衛に言った。

「実は、実はその事で、ご相談があるのです」
「なんだと?」
「本当は、一昨日、お話すべきでしたが」
「何故言えなんだ」
「須藤様のお姿が、後ろに見えましたもので」
「ぬう」
「お、お聞き届けくださいますでしょうか」

虎之助は、半兵衛に縋るような視線を向ける。半兵衛はそれに耐えられず、顔を背けた。

「話によるな」
「では、まずは聞いてくださいますね」
「ぬ、ぬう」

結局、虎之助を叱る筈だった半兵衛は、その後長々と、虎之助の悩みを聞く羽目になってしまったのだ。

  *   *   *   *   *

夕陽が堀川沿いの道を山吹色に染める中、半兵衛は苦虫を噛み潰したような顔で、ずるずると歩いていた。そして、ほう、と重い息を吐く。それを見て居た野良猫が、何事かと驚いて近寄って来た。半兵衛は猫が寄って来たのにも気付かずに、ぼりぼりと頭を掻いた。

虎之助が半兵衛に話した事の次第は、こうだ。

ひと月ほど前、虎之助は浅右衛門吉睦の使いとして、本所の弘前藩津軽家上屋敷へ書状を届ける事になった。
その時、屋敷から急いで出て来た娘とぶつかり、軽い怪我を負わせてしまったのだと云う。心根の優しい虎之助は、直ぐに娘を抱えて屋敷へと詫びに入ったのだが、藩邸の世話係は却って恐縮し、何も咎める事無く虎之助を帰した。その数日後、虎之助は日本橋のある呉服問屋の前で、偶然その娘に会ったのである。
娘の名はチサ。津軽公の奥方の世話係として国許から来ていると云う。其処で丁寧に礼と詫びを述べられた虎之助は、どうやらすっかりのぼせ上がってしまったらしい。何かと本所界隈に出かける口実を見つけては、大川のほとりなどで待ち合わせるようになった。虎之助がチサを褒めちぎる様子は尋常ではない。

「あのような女子に出会うたのは、初めてです。優しくて機転が利いて歌も上手で...」

半兵衛は呆れるしかなかったが、ひとしきり虎之助がチサを褒めている間に、自分が何を期待されているかも判った。

「それで、俺にどうしろと」
「は、じつは」
「仲を取り持て、とでも言うのではあるまいな」
「...は」
「馬鹿を言うな。俺がそんなことを」
「し、しかし、師範は湯長谷藩士の娘さんを、奥方に迎えたではありませんか。師範なら父を説得していただけるのではないかと」
「何故俺の事を引合いに出すのだ。あれは少々込み入った事情が」
「事情? 師範は千代殿と嫌々夫婦になったのですか」
「ばっ馬鹿、そのようなことは」
「では、身分違いの者同士が夫婦になる為の秘策もご存知の筈」
「そんなものがあってたまるか」
「何卒、お力添えをっ」

虎之助は畳に頭を擦り付けて懇願した。

「来年になれば、チサは国許へ帰ってしまうのです。私は何でも致します故、何卒っ」

こう必死に請われては、頭ごなしに断る訳にもいかず、一度その娘に会わせろ、但し必ず力添えすると約束は出来ない、とだけ言って虎之助を下がらせた。
然し、半兵衛にはどうして良いものやら全く判らない。

「身分違い、か」

半兵衛はまた深く息を吐いた。
思えば、半兵衛の妻 千代も、もともとは非人宿の男と女傀儡師の間の子である。奇縁が巡って、そのオチヨは藩士の娘千代に成り仰せたが、あのまま荒川のほとりで暮らすオチヨであったなら、半兵衛と夫婦になるなど有り得なかったに違いない。半兵衛は縁の奇なるを改めて思い、そして虎之助の難題に頭を悩ませた。
そうして足は、自然と日陰横町の、井上露庵の家へと向かっていたのだった。

堀川沿いをずりずりと歩き、芝口橋を左に見つつ右に折れ、日陰横町へと入る。
野良猫は、にゃあと一声、半兵衛に放った。ようやく半兵衛は猫に気付き、ゆっくりとしゃがんで背を撫でてやる。
気持ち良さそうな猫の顔を見て、片頬で笑った半兵衛が、ふと目を上げると。
一町向こうの角にある露庵の家の前にふたつ、人影が見える。
ひとつは露庵だ。もうひとつは。

「ま、真逆」

あの娘だ。
虎之助と一緒に居た、あの娘、チサではないか。
何をしている。
只談笑しているように見えるが。
何故。

半兵衛は猫の背に手を置いたまま、じっと二人の様子を窺った。
程なくしてチサは露庵に一礼し、するすると去っていった。半兵衛は露庵が家に入るのを見届け、それからおもむろに立ち上がり、ゆっくり、ずるずるとそちらに向かった。

「ごめん」

半兵衛が声を掛けると、直ぐに露庵が現れた。

「おう、何うした半兵衛。今度は千代殿に釜でも投げつけられたか」
「千代はそんな事はせぬ」
「またそんなむつかしい顔をするな」
「この顔は生まれつきだ」
「だからそうじゃなくてさ。まあいい、何用だ」

露庵がくるりと向けたその背中に、半兵衛は言った。

「実はのう、虎之助の事で」
「ほう」
「あの娘と、夫婦になりたいと申してな」
「ふうん」

露庵は背を向けたまま、低い声で言った。

「やめておけ」
「なにっ」
「あの娘には、関わらぬ方が良い。虎之助殿には荷が重かろうて」
「な、何故だ」

ゆっくりと露庵が振り向く。その目が放つ光は、軽薄な町医者のものではなかった。

「今は言えぬ。只関わるな、とだけ言って置く」
「おい...」
「お前、見ておったな」
「ぬっ」
「あの娘と俺が話しているのを」
「ぬうう」

又、ぎらりと露庵の目が光る。半兵衛は只こくりと頷いた。

「見なかった事にしてくれ。いずれ仔細は話してやる。いや、話さざるを得ないだろう」
「お前...何をしている。何に関わっている」
「だから今は言えぬのだ。今日は帰ってくれ」
「おい露庵」
「いいな。関わるなと、虎之助殿にはそう言うのだ」

そう言うと、露庵はぴしゃりと戸を閉めてしまった。
半兵衛は憮然としてその戸を見つめた。
町医者 井上露庵の裏の顔。公儀隠密。それを知るのは、半兵衛とその師吉睦だけだ。
奴は一体何に首を突っ込んでいるのだ。そしてあの娘は一体。
謎ばかりが頭を巡り、半兵衛は暫し、その場に立ち尽くした。

その後ろで猫が、にゃあ、とじれったそうに、鳴いた。




つづく




いつも読んでくだすって、ありがとうございます

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