第二百十五話 帰ろう(44歳 男)
※ 第四十四話 ハナボン(26歳 女 会社員)
第七十六話 旅路(?歳 オス)
もどうぞ。
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その夜は、いつもより空気が重かった。
どんよりと地面を覆い、湿り気とともに、肌にねっとりと、まとわりついた。
その肌の感覚だけが、私に訴えるものの全てだった。
私はひとり、橋のたもとで、絶望していた。
* * * * *
「この成績じゃあなあ、仕方ないだろ」
「君にこのまま任せるわけにはいかないんだ」
「◎◎村の営業所に行ってくれ。は? 所長じゃない、ヒラとしてだ決まってるだろ」
「ああ、その営業所な、半年後で廃止だ。そこの職員は全員解雇されることになった」
「これは本社の決定なんだ。俺にどうすることも出来んよ」
「なんだその顔は」
「これは命令だ。それが嫌なら辞めてくれ」
「返事は? どうなんだ?」
* * * * *
「ちょっとどういうことなの? なんでそんな処に転属なの」
「ママどうしたの」
「あんたは黙ってらっしゃい。ねえ、こんなことになるまでなんで黙ってたのよ」
「ママー」
「アカリの小学校ももう決まってるのよ! せっかく受験させたんじゃないの!」
「ママってばー」
「私は行きませんからね! ええ絶対行きませんとも。あなた一人で行けばいいじゃないの。私はアカリと此処で暮らすんですから。ええ結構よ。アカリと私のぶんくらい、自分で稼ぎますからね」
「ママー....あーんあーんあーん」
「ああもう泣かないでよ。泣きたいのはこっちのほうよ...」
「あーんあーーんあーーーん」
「あなたが不甲斐ないからこんなことになるのよ! ねえどうするの、どうしてくれるのよ!」
「あーんあーーんあーーーーん」
* * * * *
「...んでよう、あいつの顔ったらよう」
「うひゃひゃひゃひゃ」
どしん
「っつ、なんだこの野郎」
「おいオッサン、ぶつかっといてシカトかよ」
「痛ぇじゃねえかおらぁ」
「なんだ不景気な面しやがって」
「殺されてぇのかあああああ」
どくん。
「うげっ」
ずざざざざざざざざざざざざざざざ
がん
ごきっ
「ぐぶうううう」
ずずずずずずずずずずずずずずずず
「...お、おいシンジ、どうしたんだよ」
「...ち、血だ! おい返事しろシンジ! おい! やべえ...やべえよおいどうすんだよ」
ずざっ
「おい逃げるなコラァ! 誰か! 誰か救急車!!」
「きゃーーーー!!」
ずざざざざざざざざざざざざざざざ
ざざざざざざざざざざざざざざざざ
ざざざざざざざざざざざざざざざざ
* * * * *
私は橋の中央まで、歩いて来た。
私はろくでなしだ。
家族を守れず、いや守るどころか、傷付けてしまった。
そして、赤の他人も傷付けた。
挙げ句の果てに、其処から逃げたのだ。
私は川を見下ろした。
真っ黒な水面が、かすかに揺らめいている。
背後を猛スピードで、車が通りすぎて行く。何台も、何台も。
ヘッドライトが、代わる代わる私を照らす。
私の背中を。
丸くなって、しょぼくれた私の背中を。
酔っていい気分になった男がひとり、歩いて来た。
私の背後を、下手くそな歌を歌いながら通過する。
あの男はそんなに楽しいのか。
何がそんなに楽しいのか。
男の背中をヘッドライトが照らす。
広くて大きくて。
私の背中とは、大違いだ。
重く湿った空気が、全身にまとわりついたまま。
私は水面を凝視していた。
その奥に、ゆるゆると、どす黒い何かが口を開ける。
其処から吐き出される波動は。
私の中の、どす黒いものと、混ざり合った。
私はゆっくりと。
ゆっくりと。
欄干に手を掛けて。
手を掛けて。
足を。
足。
ふいっ。
何かが通過した。
私の背後を。
私の肌にまとわりついた空気を振り払って。
違和感を憶えて振り返ると。
一匹の
猫が。
早足で、橋を渡ってゆくところだった。
猫は水が怖いんじゃなかったのか。
あまりに水が怖いので、猫が橋を渡ることはないと聞いたことがある。
なのにあの猫は。
一心不乱に、早足で渡ってゆく。
何を急いでいるのだ。
私は欄干に掛けた足を外して、ゆっくりと。
ゆっくりと、猫の後を追った。
* * * * *
猫は、橋を渡り終えたところで座り、熱心に毛繕いを始めた。
私は少し離れたところで、猫の様子を見ていた。
随分細い背中だ。
かなり痩せている。
時折車のライトに照らされるその毛皮は、あちこち禿げているように見えた。
じり、じり、と私は近付く。
猫の背中に近付く。
何故だ。何故私は。
ただ身体が。
じり、じり、と距離を詰める。
ふと猫は振り返り、
半秒ほど、私を凝視した。そうして。
一目散に、駆けていった。
私は追いかけた。
足首も膝も腰も悲鳴をあげている。
シャツがべっとりと肌に重くのしかかる。だが、
あれを見失ってはならない。
見失ってしまったら。
私は。
息が切れた。
膝に手を突き、ぜいぜいと喉から空気を搾り出す。
サンダルには草が挟まっていて。
右の親指からは、血が滲んでいた。
「あら、猫ちゃん」
その声に、私はびくりと振り返った。
小さな居酒屋の勝手口。
そこが開いて、年を取った女がひとり立っている。
その女に向かって座っているのは。
「ちょっとお待ちよ、いいものあげる」
あの猫だ。
私は荒く息をしながら、猫の後ろ姿を見つめた。
「ほら、お食べ」
女は何かを猫に差し出した。
猫はそれを熱心に食べ始めた。
「おいしいかい」
小刻みに揺れる猫の頭は、必死に何かに食らい付いているのだ。
何故そんなに必死なのだ。
一体なにがあるというのだ。
「うみゃん」
猫は小さく鳴き、女の顔を見た。
「そうかい、おいしいかい」
二度三度、女に頭を撫でられると、猫は。
猫はまた、すたすたと小走りに、何処かへ向かっていった。
「猫ちゃん、またね」
女の声など聞こえないかのように。
猫は先を急いでいる。
私は、その後を追った。
* * * * *
しらじらと夜が明けて来た。
猫は丘の上へと続く道を、ひたすらに進む。
私の足はもう、動かない。
「おい」
私は叫んだ。
「何処へ行くんだ」
猫は、ふと振り向いたのだ。
「何処へ行くんだよう」
私をじっと見る。
蛍光灯が瞬き、猫の顔を、不規則に照らした。
「おまえは」
私は声を絞り出す。
「何をそんなに」
訴える。
「急ぐんだよう」
どうしてだろう。
「お、おまえは」
どうして私は。
「どうしてそんなに」
泣いているのだ。
「必死なんだようううう」
空が歪んだ。
青紫の空に浮かぶ星ぼしは。
滲んで私の眼の中で、溶けた。
「みゃーう」
猫が高い声で啼く。
私はぼとりと涙を落とした。
猫は。
顔をひと撫でして、走り出した。
私は這い蹲って、道を登る。
なんとしても登るのだ。
膝が擦り切れても。
爪が割れても。
必死に。
前へ。
* * * * *
丘の頂上から、道はまっすぐに、街のほうへと伸びていた。
私はそこでよろよろと立ち上がり、道を見下ろした。
猫がいる。
早歩きでずんずんと、道をゆく。
ちいさな影が、どんどん小さくなってゆく。
とたんに、陽の光が私を襲った。
思わず眼を覆う。
山の陰から登ってきた朝陽は、辺りをオレンジに染めた。
街に連なる家々も。
まっすぐ丘から伸びる道も。
そして。
あのちいさな影も。
影は長く伸び、小刻みに揺れる。
必死に前へと進んでいる。
そうだ。
猫は。
「帰ろう」
私はぽつりと、口に出して言った。
朝陽は、私の情けない姿を。
容赦なく照らした。
おしまい
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