第四十四話 ハナボン(26歳 女 会社員)
がちゃがちゃ。
鍵が引っかかって、うまく開かない。
えいえい。
がちゃがちゃ。
かちり。
しばらくドアノブと格闘して、よくやく扉が開いた。
一か月振りに、おじいちゃんの家にやって来た。
* * * * * *
家中の窓を全部開け放つ。
少し肌寒い風が、家に立ち籠めた重い空気を、一斉に流し出す。
光が家の隅々まで行き渡る。
当たり前だが、この前来た時のままだ。
おじいちゃんの胃癌の手術は成功した。
しかし、手術直前の再検査で肝臓に転移しているのが見つかった。再度手術する必要があるのだとか。
老体をあまりいじくり回さんでくれ、とおじいちゃんは苦笑して言う。もちろん、手術は身体に負担がかかるものだから、そう何回も出来るものではないだろう。
だが、良くなる可能性がある限りは、それに挑戦して欲しいと思う。そうおじいちゃんに言うと、おじいちゃんは、うん、うん、と頷いた。
「さて、おそうじだ」
私は腕まくりをした。
ぱたぱたとハタキをかける。雑巾で廊下を拭く。掃除機をまんべんなくかける。
だんだんと、以前のおじいちゃん家に戻っていく。それが嬉しい。
かつん。
部屋の隅っこで、掃除機のノズルが何かにぶつかった。
少し大きめのゴミだろうか。
ふと見ると、細かい毛がびっしり生えている。
まさか...ネズミ?
私は恐る恐る、その毛深いものに近づいてみた。
すると。
なんだ。
これはネズミのおもちゃだ。
猫たちが遊んでいたおもちゃの片割れだ。
私は苦笑して、そのネズミを取り上げた。
尻尾が食いちぎられている。歯形も付いている。
これはハナボンの仕業に違いない。
おもちゃにじゃれたり、人の足に齧り付いたりするのが好きな子だった。
あの子は今どうしているだろう。ボタンは、クロベエは...。
いかんいかん。お掃除の途中だった。
私はネズミのおもちゃをエプロンのポケットにしまい、掃除を再開した。
* * * * * *
「これでよし、と」
仏壇を開け、お線香とお供えをあげた。ひとまず完了だ。
少し汗をかいた私は、ペットボトルのお茶を開け、小休止することにした。
縁側にぺたりと座り込む。
時折吹き抜ける風が心地よい。
「ふう」
庭からコオロギの鳴き声が聞こえる。
もうすっかり秋だ。
ふと仏壇を振り返る。
お父さん、お母さん、そしておばあちゃんの写真が並んでいる。
ここに帰ってこられるのは、もう、おじいちゃんと私だけだ。
「やっぱり、ここに住めればいいよねえ」
私は仏壇に向かって話しかけた。
もちろん、すぐにそう出来るはずもない。
会社にここから通うのは難しい。かといって、こっちで仕事を探すのは大変だ。
しかし、東京で一人暮らしをするのは、寂しい。
思い出のいっぱい詰まったこの家で暮らせたら、どんなにいいか。
「そうしたら、私...」
そうしたら。
どうしようか。
「あ」
ふと見上げた雲が、猫の顔のように見えた。
そうだ。
猫を飼おう。
ハナボンもボタンもクロベエも、もう遠くの新しい家で、元気に暮らしているに違いない。
だから私は、仔猫を飼おう。
トラもようの、グレーの、アメリカンショートヘアっていうのかな、あの猫がいいな。
そうして、おじいちゃんの布団で眠るように育てよう。
おじいちゃんが帰ってきたら、布団を温めてあげられるように。そして、そして...。
「なーんて」
ごろりと、私は縁側に寝そべった。
そんなこと、急に出来るわけないじゃーん。
頭の中に三匹の猫たちの顔が浮かんだ。
そうなんだ。あの子たちと一緒に暮らせたら、どんなに良かったか。
「...ぅん」
ん?
猫の鳴き声が、聞こえたような気がした。
がばっと身体を起こす。辺りを見回し、耳をそばだてる。
...気のせいか。
また私は、横になった。
むーんと、手足を伸ばす。
手を伸ばした、その先を見つめる。
あすこに、いつもハナボンがいたよなあ。
あすこで、おなかを出して、長ーく寝そべってたよなあ。
「ハナボン」
私の視界が、じんわりと滲んだ。
「みゃうん」
私の目の前に、ぼやけた茶色の物体が現れた。
のそり、のそりとこちらにやって来る。
眼をしばたかせた。涙がぽたりと落ち、視界が開けた。
「...うそ」
鼻の右下に、茶色い点が付いている。
八割れの茶トラ模様。間違いない。
「ハナボン!!」
慌てて飛び起きた。
「みゃーう、みゃーう」
毛がぼさぼさで、短い尻尾の先に血が滲んでいる。
身体はがりがりだ。耳ばかりがとても大きく感じる。
しかし、でも間違いない。
「あ、あんた、どうしたの!」
抱きかかえて、あまりの軽さに驚いた。
頭をこすってやると、ハナボンは喉をぐるぐる鳴らして、私の手を甘噛みしながら、舐めた。
帰ってきたのだ。
嘘みたいだ。
私は大声で泣いた。泣きながら、ハナボンを抱きかかえて、撫でさすった。
隣のおばちゃんが、怪訝そうな顔で、私を見ていた。
* * * * * *
隣町の動物愛護協会に電話で問い合わせたところ、ハナボンは、貰われていった家を三週間前に飛び出し、その後行方不明だったそうだ。
「それにしても、すごいですねえ。直線距離でも五十キロは離れてるでしょ。今時そんなに遠くの家まで帰り着いた猫は、珍しいですよ」
協会の人は、そうやってハナボンの大旅行に驚いていた。
私は、その旅程を想像しただけで、寒気がした。
ひっきりなしに通る車の間をすり抜け、橋を渡り、何処かで餌をあさりながら、ここまで辿り着いたのだから。
尻尾の先は、どうやら他の猫とケンカをして噛みつかれたらしい。病院で薬を塗ってもらい、エリザベスカラーをつけて不格好になったハナボンは、食べにくそうにゴハンを食べた後、これまた寝にくそうに、座布団の上でとぐろを巻いている。
よくもまあ、帰り着いてくれたものだ。
ハナボンを貰ってくれた家にも電話した。
せっかく貰ってくれたのにすいません、と謝る他ない。しかし先方は、無事でよかった、と喜んでくれた。そして、
「どうしますか? またうちで引き取りましょうか?」
なんと優しい申し出だ。ありがたい。
涙が出るほど嬉しい。
でも。
「...いいえ、申し訳ありませんが、私がここで、飼うことにします」
そう決めた。
この子は、私が最後まで、面倒を見るんだ。
ボタンやクロベエはいないけれど。
ハナボンは、絶対にここで暮らせるように、するんだ。
電話を置いて、私はハナボンに、話しかけた。
「ねえハナボン、たまにペットホテルに入ってもらうけどさ。いいよね、またここで暮らせるんだから」
明日から忙しくなる。
おじいちゃんのために、ハナボンのために、私のために。
そして、思い出のいっぱい詰まった、この家のために。
ハナボンは、私の手を甘噛みして、私の言葉に応えた。
と。
「あ! 忘れてた!!」
そうだ。おじいちゃんのところに、本を持って行くんだった。
私は慌てて本棚から数冊掴み取り、バッグに押し込んで、
「じゃハナボン、すぐ帰って来るからね!」
おじいちゃんの待つ、病院へと急いだ。
おしまい
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