第百二十四話 聖母子と黒猫 下
※前回 第百二十三話 聖母子と黒猫 上
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マリーは家に着くと、早速この黒猫に温めたミルクをやった。
余程腹が空いていたのか、猫はびちゃびちゃと音を立てて、ミルクをそこらじゅうにまき散らすように飲んでいる。
マリーはそれを満足そうに眺めていた。祖父はといえば、暖炉にくべる薪を切りに外へ出たままだ。
「お前、名前なんてつけようか」
黒猫の背を撫でながら、マリーは呟いた。
あらかたミルクを飲み終えた黒猫は、顔を前足でひと拭いして、にゃあと鳴いた。
「お前は男の子? 女の子? わからないわ。ううん、そうねえ」
腕組みして暫し考えて、マリーは、ぱん、と手を打った。
「ルイ! ねえ、そうしましょ。もしお前が女の子だったら、ルイーズにするわ」
そう言ってごしごしと猫の頭を撫でる。ルイと名付けられた猫は、満足そうに目を細めた。
がらがらがら。
何かが崩れる音がする。ルイの大きな耳がぴくりと動く。
そうしてルイはすっくと立ち上がり、小走りに玄関へと向かった。
「ルイ、どこいくの?」
マリーはとことことその後に続く。
がりがりと扉を引っ掻くルイの求めに応じて、マリーは扉を開けた。
そこには。
「おじいちゃん!」
胸を押さえて蹲る祖父の姿が。
周りには薪が散乱している。
「おじいちゃん、ねえ、どうしたの、どこか痛いの」
マリーは祖父の身体を揺するが、祖父は微かな呻き声を洩らすだけだ。
「おじいちゃん、ねえ、おじいちゃん!」
マリーの叫び声を聞き付けた、隣に住む鍛冶屋のモーリスが飛んで来た。
「フィリップ、おい!」
太い腕で祖父を担ぎ上げる。そして、
「マリー、フォション先生を呼んでくるんだ。大通りを右に折れてずっと真っ直ぐ、駅を越えた右側だ、わかるな」
「あたし、あたし...」
マリーは気が動転して震えるばかりだ。
「フィリップの世話は俺がしておく。ほら早く!」
「でも、でも」
おろおろするマリーは動けない。
「にゃあうっ」
突然、ルイが走り出した。
大通りの方へ向けて、一目散に。
「あ、ルイ! 待って!」
「マリー、駅を越えた右側だぞ、鶏の飾りが目印だ。急げよ」
後ろで鍛冶屋の声がした。
マリーはルイと並んで、大通りへと走った。
* * * * *
辺りは随分暗くなってきた。
降る雪は強さを増し、街全体を白く覆ってゆく。
店先から洩れる明かりが石畳の道を照らし、円い明かりの輪が出来た。
その輪を飛び越えるように、マリーとルイは走っていた。
店じまいの準備をしていたパン屋が
「おうマリー、お使いかね」
と声を掛けても振り向かない。
小さな足は、時々石畳の窪みにはまって蹌踉けそうになる。
しかし先を行くルイの姿を追って、マリーは走り続けた。
白く覆われつつある道上に、真っ黒なルイの姿はよく目立つ。
その姿を必死に追い続けた。
駅前は、リヨンから到着した里帰りの人やら迎えの人やらで、賑やかだった。
両手一杯に荷物を抱えた男や、着飾った女達が、さざめき合って大通りへと歩いて来る。
マリーとルイは、その間をすり抜けるように走った。
人の間に挟まれ、マリーが動けなくなる。ルイはすいすいと人の足下を通り抜けてゆく。
「何だおい、黒猫だ」
「縁起でもねえ。そらっ」
ひとりの男が、ルイの身体を蹴った。
ルイは避けようとしたが、男の足先はルイの腰をしたたかに打った。
ルイはぽうんと飛ばされ、石畳に叩き付けられて、雪の上を滑った。
「ルイ!」
マリーは人の波を掻き分け、ルイに駆け寄り、抱き留めた。
そして蹴った男を睨みつけようとしたが、男は既に遠くを、笑いながら歩いている。
マリーの腕の中で、ルイは目をぱちくりさせた。
「大丈夫? ルイ」
ルイはマリーの腕から抜け出すと、身体をぶるると振って、ひょこひょこと歩き出した。
そうして、鶏の飾りのついた門の前で止まり、振り向いて、にゃあ、と鳴いた。
「...ここだ」
はっと我に返ったマリーは、必死で医者の家のドアを叩いた。
大声で叫びながら、手が腫れるほど叩いた。
ルイはその足下で、蹴られた腰の辺りを丹念に舐めていた。
* * * * *
往診に来た医者の表情は暗い。
祖父はベッドの中で荒い息をしている。
鍛冶屋とマリーは黙りこくったまま、医者と祖父を交互に見つめるだけだ。
「良くないねえ」
医者は振り向いてそう言った。
「良くないって、ど、どう良くないんですか」
鍛冶屋がつっかえながら訊く。
「心臓の動きが弱っている。一応薬を出しておくから、これを飲ませるように。今晩で落ち着けば問題ないが、そうでなければ」
「そうでなければ」
「...危険だな」
マリーは鍛冶屋と医者の様子から、祖父が神に魅入られているのを知った。
「私に出来るのは此処までだ。もし状態が悪くなったら、また呼んでおくれ」
そう言い置いて、医者は帰っていった。
鍛冶屋は祖父に薬を飲ませ、マリーに向かって言った。
「今夜は、フィリップの側にいておあげ。後でカミさんに食べ物を運ばせるからな」
そうして鍛冶屋も、隣の家へ帰って行った。
マリーはベッドの横に椅子を引きずっていき、腰掛けて祖父の顔を見た。
ランプの弱い光に照らされて、祖父の顔は夕暮れの中にあるようだ。
落ち窪んだ目と頬の皺が、まるで教会堂の柱にある彫像のように、深い陰を作る。
浅い、擦れるような音を立てた息をしながら、祖父はゆっくりとマリーを見遣った。
「おじいちゃん」
マリーは声を掛けたが、祖父は応えない。
ただ、マリーの方へと手を差し伸べた。
マリーはその手を、ちいさな手で挟み、布団の上で握った。
黒猫ルイは、祖父の布団の隅っこで、くるりと円くなっていた。
* * * * *
それから暫く、マリーは祖父の側を離れなかった。
鍛冶屋の妻が食事を運んで来ても、それには手を付けようとしなかった。
ただ祖父の顔をじっと見て、その様子が変わってしまわないかと、それだけを気にしていた。
ルイは相変わらず、布団の隅っこで蹲っている。
「マリー」
祖父が目をうっすらと開け、微かな声で言った。
「なあに、おじいちゃん」
マリーは祖父の手を握って応える。
「お前に、頼みがあるんだ」
「なあに」
祖父はマリーに、努めて優しく言った。
「毎年、儂はノエルの真夜中のミサに行くんだ。今年の無事を感謝し、来年の幸せを願う為にね。だが...今年は行けそうにない。お前、儂の代わりに、ミサに...行って来てくれんか」
マリーの顔は強張った。あの怖ろしい顔をした聖母子像のある聖堂に、一人で行くなんて。
祖父はゆっくりと話を続ける。
「神は、ちゃあんと見ていてくださる。そして儂等のいいようにしてくださるのさ。だから感謝を捧げなければ...。なあマリー、行って来てはくれんか」
マリーは祖父の目を見た。
ランプの光を反射して、祖父の目は弱々しい光を放っている。
「神さまにお願いしたら、おじいちゃんは、よくなるかしら」
マリーは訊いた。祖父は少し考えてから、
「ああ、そうだな。神の思召しがそうであるなら、良くなるに違いあるまいよ」
祖父の手が、マリーの頭を撫でた。
「わかった。ねえ、ルイも一緒に行ってもいい?」
祖父は意外そうな表情を作ったが、やがてそれも綻んだ。
「ああ、いいさ。行っておいで」
「うん。じゃあ、行って来る」
その言葉を合図に、それまで寝ていたルイはすっくと立ち上がり、床に飛び降りた。
マリーはコートを羽織り、帽子を被ると、祖父の皺だらけの頬にキスをして、ルイと玄関から飛び出していった。
祖父は胸の上で手を組み、無言で神に祈りを捧げていた。
* * * * *
雪明かりで微かに見える路地を抜け、聖堂へと続く階段を、マリーとルイは一段、また一段と登っていった。
雪が随分積もっていた。ルイは蹴られた腰が痛いのか、ひょこひょこと不規則なリズムで段を飛び越えてゆく。
マリーの足は重かった。医者の家まで走った疲れが、ちいさな足を苛んだ。
何度も休みながら、何度も荒く息を吐き出しながら、マリーは階段を登った。
ぼんやりと照らされた聖堂の入り口が見える頃、マリーはすっかり疲れてしまっていた。
ふらふらとポーチに入ったマリーを、壁と天井に描かれた壁画が迎えた。
ゆらゆらと揺らめく明かりが、空に飛ぶ天使を、復活のキリストを、そして聖母子を照らす。
此処は何処だろう。天国に迷い込んでしまったのだろうかと、マリーは思った。
帽子を手に取り、祖父がそうしていたように、聖水盤に手を浸し、ちいさく十字を切った。そうして静かに、大きな身廊へと続く扉を開けたのだった。
* * * * *
堂内には賛美歌がこだましていた。
重々しい造りの柱や壁や天井や、建物の隅々まで、信者たちの厳かな声は響いた。
その響きに包まれて、マリーはおずおずと一番後ろの椅子に座った。ルイはするりとその椅子の下に潜り込み、じっと蹲る。
マリーは見た。
立って賛美歌を歌う人々の間から。
あの黒い顔をした、聖母子を。
はじめはちらと見て、すぐに目を伏せた。そうして、ゆっくりと顔を上げ、じっと見つめた。
聖母マリアは厳然と前を向いている。
その下で、服の中からちょこんと顔を出した幼児イエスもまた、母のするに倣って、前をじっと見据えている。
マリーは足下のルイを見た。ルイは顔を上げ、マリーを見返す。
ルイの目がきらりと光った。
「そうよね、こわくないよね」
マリーはそう言って、ちいさな胸の前で、ちいさな手を組み合わせた。
「かみさま、おじいちゃんが、よくなりますように」
ちいさな声で、何度も願った。
「おじいちゃんを、つれていかないで」
ぎゅうぎゅうと、手を握り合わせながら。
「あたしのおじいちゃん」
賛美歌の声は大きくなり、益々堂内に響いた。
マリーの頭の中に、いろいろなものが渦巻いた。
「マリー、いい子にしてるんだぞ」
戦に行った父。
「私の可愛いマリー、元気でね」
駅で別れ、ひとりパリに戻った母。
「マリーや、お前の好きなチーズだよ」
台所で微笑む祖父。
「にゃあう」
ミルクを髭に付けた黒猫ルイ。
そして。
厳然と前を向く聖母子の姿。
強い意志を秘めた、聖母子の姿。
「かみさま」
ぐらぐらとマリーの頭は揺れ、賛美歌の響きとともに、天上へと昇っていった。
聖堂の屋根を突き抜け、雪の空の中を、上へ、上へ。
マリーの意識は、次第に遠のいていった。
* * * * *
「にゃあう」
ルイの鳴き声で、マリーは目覚めた。
目を開けたマリーを見て、ルイはざりざりとその頬を舐める。
ふっくらした布団に包まれている自分を見て、マリーは戸惑った。
「ここは...どこ?」
すると、部屋の隅に座っていたひとりの男が、立ち上がってマリーに近付いた。
「おはようマリー、すてきなノエルの朝だよ」
その男、聖堂の司祭がマリーの頭を撫でる。
マリーは呆然として司祭を見た。
「お祈りしていて、眠ってしまったんだね。大丈夫、何も心配いらないから、もう少し休んでおいき」
はっとマリーは我に返った。
「おじいちゃんが!」
そうしてベッドから跳ね起き、靴を履いてドアから飛びだそうとした。
「これマリー、ちょっとお待ちなさい」
司祭はマリーにコートを着せ、帽子を被せて、小さな紙の包みを渡した。
「マリーの好きなお菓子だよ。家に帰ったらお食べなさい」
マリーは紙の包みを受け取ると、
「どうもありがとう」
短くそう言って、司祭館から飛び出した。ルイもその後に続く。
「気を付けるんだよ」
司祭はそうとだけ、マリーの後ろ姿に声を掛けた。
* * * * *
息を弾ませながら、マリーは石段を駆け下りた。
踊り場で転んで雪まみれになりながら、マリーは家へと急いだ。
しらじらとノエルの朝が明ける。いつもは黒っぽい石造りの街は、すっぽりと綿毛に包まれたように、白く柔らかく輝いていた。
その中を、ちいさな人影と、ちいさな黒い影が走る。
「おじいちゃん!」
勢いよくドアを開けて、マリーが叫ぶ。
祖父のベッドの横には、鍛冶屋の夫婦が立っていた。
二人は驚いて振り向く。
その向こうには、横たわる祖父の横顔が。
マリーの顔から血の気が引いた。
ルイはマリーの足に擦り寄って、ぐるぐると喉を鳴らす。
「マリー、帰ってきたのか」
鍛冶屋が歩み寄る、その脇をすり抜けて、マリーは祖父のベッドにかじり付いた。
「おじいちゃん、ねえ、おじいちゃん!」
目を閉じた祖父の顔を、マリーは食い入るように見つめた。
その頭に、大きな手が、ぽん、と置かれた。
祖父の目が、開いた。
「おはよう、マリー。ノエルおめでとう」
大きな手は、マリーの頭を撫でる。
「よく行って来てくれたね。お陰で儂ゃ、まだ召されずに済んだらしいよ」
マリーの顔が明るく輝く。
鍛冶屋の夫婦は、その様子を見て、にっこりと顔を見合わせた。
ばん。
また玄関のドアの開く音がした。
今度は驚いて四人が玄関の方を見る。
その先には。
真っ赤なコートに派手な帽子。
大きな袋を抱えて、濃い化粧をした女が。
「ママ!」
マリーは飛んで行って、その首に抱きついた。
母もマリーを抱き返し、頬にいっぱいのキスを降らせる。
「私の可愛いマリー、やっと会えたわ」
マリーも母の顔に何度もキスをした。
何度も何度も。
「イザベル! よく帰ってきたね」
「あら、まあまあ、すてきなノエルの朝だわ」
鍛冶屋の夫婦が笑う。祖父はベッドで優しく微笑む。
黒い聖母子の奇蹟を目の当たりにした、黒猫のルイは。
祖父のベッドの上で微睡みながら、片目でちらりと、その幸福な風景を見ていた。
おしまい
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