第百二十三話 聖母子と黒猫 上 | ねこバナ。

第百二十三話 聖母子と黒猫 上

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マリーは祖父に手を引かれて、階段を登った。
石造りの黒っぽい、重々しい階段。どんよりと曇った空へと向かって伸びている。
その先には、威容を誇る聖堂が聳えていた。



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この街は、遙か西の国へと続く巡礼路の出発点。古くから司教座が置かれ、巡礼者と聖職者の行き来で、街は栄えて来た。
しかし今年は活気が無い。女達を追い回す悪戯者も、ミルクの配達をする寡黙な偉丈夫も、この街にはもういない。

戦が、始まったのだ。

明日はノエル。祖父とふたりきりで過ごす初めてのノエルを、マリーは迎えようとしていた。

  *   *   *   *   *

祖父は手を引いて、聖堂内の祭壇まで進んだ。
そしてその前で跪き、十字を切る。
マリーはその横で、祭壇を見上げて立っていた。
目の前には。

煌びやかな衣裳を身に纏った、円錐型の聖母子があった。
幼児イエスは、聖母の衣裳の中から、ちょこりと顔を出している。
聖母は厳然として遙か彼方を見つめている。

その顔は、ふたりの顔は、微かな堂内の光に照らし出され。
鈍く、黒く光った。

マリーは怖ろしくなって、祖父にしがみついた。

「どうしたんだね」

祖父は立ち上がりながらマリーに訊いた。マリーは応えずに祖父の足にしがみつき、早く出ようと引っ張る。

「うんうん、判ったよ。さあ、行こうか」

マリーの手を握り、祖父は歩き出した。マリーはもう一度、祭壇の黒い聖母子をちらと見、急いで顔を引っ込めた。

  *   *   *   *   *

「おじいちゃん」

帰り道、階段を降りながら、マリーは祖父に訊いた。

「何だね」
「あしたも、ここにくるの?」
「もちろんさ。ノエルのミサには出ないとな。お前も来るんだよ」

マリーは祖父の足にしがみついて言った。

「あたし、来たくない」

祖父は驚いてマリーを見た。

「これ、そんな事言うもんじゃない」
「だって、こわいもの」
「マリー、怖くなんかないよ。マリアさまとイエスさまじゃないか。怖い事があるもんか」
「いや、いや、あたし、おうちにいる」

マリーは半べそをかいた。
祖父は困り顔でしゃがみ込み、マリーの肩を抱きながら言った。

「儂は怖いと思った事などないよ。小さい頃からずっと見ておるからな」
「でも、なんであのマリアさまとイエスさまは、あんなにこわい顔なの、あんなに黒い顔なの」
「これマリー」
「パリの教会にいたマリアさまとイエスさまは、きれいな服きて、にこにこしてたのよ」

祖父は返す言葉なく俯いた。

「あたし、パリに帰る!」

マリーは叫んだ。祖父は慌てた。

「帰るって、そんな事言わないでおくれ」

しかしマリーは、階段の真ん中で叫んだ。

「この街はいや! 黒いマリアさまもいや! パリに帰るったら帰るの!」

祖父はマリーの手を取ろうとしたが、マリーはその手を振りはらり、階段を危なっかしく駆け下りた。
大声で泣きながら。
祖父はそれを、ただ呆然と見送った。

  *   *   *   *   *

「そんなにしけた面すんなよフィリップ」

パン屋の親父が祖父に声を掛けた。
祖父は帽子を弄びながら、俯いて店内をうろうろしている。

「仕方ねえさ。パリ育ちのお嬢ちゃんには、こんな田舎町は辛気くさいに決まってらあ。ほらよ」

親父は紙に包んだ大きなパンを祖父に渡した。そして、

「これは、ほれ、おまけだ」

と言って、小さな紙の包みを押し遣った。その中にはカラメルで焦がした黒いラスクが入っていた。

「あの嬢ちゃん、これが好きだったろ。立派なお菓子はうちじゃ作れねえが、俺はこれだけは得意だからな」
「ああ、ありがとうよ」

祖父は不器用な笑みを浮かべて、受け取った。
ぎゅっと、パンの包みを抱きしめた。
顔をしかめて、身を少し屈める。
僅かに肩が震える。

「おい...フィリップ、大丈夫か」

親父が心配そうに覗き込む。

「あ...ああ。最近胸が苦しくてな。時々発作が起こる」
「医者に行けよ」
「フォション先生の薬がある...まだ大丈夫だ」
「そうか」

祖父はゆっくりと顔を上げ、帽子を被った。

「じゃあな、よいノエルを」
「よいノエルを」

そして、よろよろと店をあとにした。

  *   *   *   *   *

祖父が総菜屋の店先まで来ると、そこにはマリーが立っていた。
マリーは祖父を見て、とぼとぼと近付く。小さな目からはぽろぽろ涙がこぼれる。
祖父は屈んでマリーに向き合った。

「おじいちゃん...あたし...パリに帰るの」

祖父は小さな紙の包みをマリーに渡しながら言った。

「大丈夫、すぐ帰れるさ。ママは来年になればきっと迎えに来てくれるよ」
「...ほんと?」
「ああ。戦が終わればパパも帰って来られる。だから安心おし」

紙の包みを握りしめ、その匂いを嗅ぐと、マリーの顔は少しだけ明るくなった。

「さあ、お前の好きなチーズを買って、家に帰ろうか」
「うん」

そうして、祖父とマリーは、総菜屋の中へと入っていった。

  *   *   *   *   *

緩やかな石畳の坂を、祖父とマリーは手を繋いで降りてゆく。
どんよりと曇った空からは、ちらちら雪が舞ってきた。

「こらー、待て-!」
「そっち行ったぞ、捕まえろ!」

横の路地から大きな声が聞こえる。すると、その路地から、一匹の黒猫が飛び出して来た。
一瞬祖父とマリーを見遣り、すぐに反対側の路地へと走って逃げる。
その後を追って、路地から悪太郎どもが走り出る。手には長い棒やらモップやらを持っている。

「逃がすな!」
「悪魔の使いめ、待て!」

そして黒猫が逃げた方へと走り去ってゆく。
マリーは祖父の袖を引っ張った。

「おじいちゃん」
「何だい」
「あの子たち、なんで猫を追いかけてるの」
「そうさなあ」

祖父は少し考えてから応えた。

「黒い猫はな、昔から悪魔や魔女の使いと言われておるからだろうよ」
「どうして悪魔の使いなの」
「どうして...どうしてだろうなあ」
「何か悪いことするの?」
「ううん、たまに肉屋のゴミ箱を散らかしておるな」
「でも犬だって散らかすじゃない」
「そうさなあ」

祖父は返答に困った。マリーは何かを思い出したようだ。

「ママが歌ってるお店、猫っていったでしょ」
「ああ...そうだな。確か黒猫という店だ」

マリーは小首をかしげた。

「ママの店は、悪魔の使いなの」
「ううん、そうじゃないと思うが」
「どの猫も、いじめられるの」
「いいや、そうでもないな」
「黒い猫だけ、いじめられるの」
「ううむ...」
「どうして? マリアさまだって黒いのに」

信心深い祖父は慌ててマリーを嗜めた。

「これマリー、なんと畏れ多い事を」
「だってそうじゃない」

小さなマリーは怯まない。

「このお菓子は黒いけど、みんな好きじゃない。教会のマリアさまとイエスさまだって、黒くてもみんながお参りするのよ。なのに黒い猫がいじめられるなんて、おかしいわ」
「マリー、猫とマリアさまは違うよ」
「あたし、あのマリアさまよりも黒い猫が好き。ママのお店の名前だし」

祖父は口をぱくぱくさせて、二の句が継げずにいた。

「ねえおじいちゃん、黒い猫だけいじめられるなんて、おかしいでしょ」
「そう...そうさなあ。まあ、良い事ではあるまいよ」
「助けなきゃ!」

そう言ってマリーは駆け出した。祖父は急いでマリーの後に続いた。

  *   *   *   *   *

「へへへへ、もう逃げられねえぞ」

悪太郎どもが黒猫を路地の行き止まりまで追い詰めた。
猫は隅にちぢこまって、毛を逆立てて威嚇している。

「くらえ悪魔の使いめ!」

ひとりが勢いよくモップを振り上げた。

「おやめなさい」

その声に驚いて悪太郎どもが振り返ると、仁王立ちになった小さなマリーがいた。

「かわいそうじゃない。逃がしておやんなさいよ」

腰に手を当てて足を開き、マリーは大きな声で彼等に命じた。

「なんだこいつ、邪魔すんなよ」
「まずおめえからぶっ叩いてやろうか」

悪太郎どもはマリーに詰め寄ろうとしたその時、路地の陰からずいと祖父が現れた。
髭もじゃの顔の眉間には深く皺が寄っている。

「マリーに手を出したら、儂が承知せんぞ悪餓鬼ども」

「うわ、革屋のフィリップだ!」
「皮を剥がれるぞ!」
「取って食われるぞ、逃げろ!」

口々に悪太郎どもはそう言って、慌ててその場から逃げ去ってしまった。

あとに残ったマリーと祖父は、路地の隅で蹲る黒猫の側へと近付いた。

「ほら、おいで猫ちゃん」

マリーは手を伸ばすが、黒猫は警戒して近寄らない。

「ほら」

ずいとマリーが近寄ると、黒猫はシャーと声を上げて威嚇した。

「そんなに恐がらないで。そうだ、これ」

マリーは手に持っていた紙の包みから、ラスクのかけらを一つ取り出し、猫の方へと差し出した。
猫は警戒しながら、くんくんとその匂いを嗅ぎ、やがでざりざりと舐めだした。

「おいしい? おいしいんだやっぱり」

マリーはにこにこして黒猫の様子を見ている。祖父はマリーのする事に興味津々だ。
黒猫はマリーの手からラスクを掴み取ると、美味そうにかりかりと食べ始めた。
その様子を嬉しそうに見ていたマリーは、突然立ち上がって祖父に向き直った。

「ねえおじいちゃん、この子おうちで飼ってもいい?」
「なんだって?」

祖父は驚いてマリーを見つめる。

「黒猫ちゃんは怖くないのよ。ママのお店と同じだもの。ママだってきっと喜ぶわ」
「あのねえマリ-」
「黒猫ちゃんが来てくれるなら、あたし明日のミサに行く」
「マリー?」
「怖くないもの。黒猫ちゃんといっしょだもの。ねえ」
「うむむ...」
「ねえお願い、おじいちゃん」

祖父は黒猫を見遣った。ぺろりとラスクを平らげた猫は、もっと欲しいとばかりにマリーに擦り寄って来た。

「ねえ、いっしょに来るよねえ」

マリーは黒猫の背中を撫でて言う。祖父は、ほう、と溜息をついた。

「そうさなあ。お前がそう言うなら」
「ほんと!? ありがとうおじいちゃん」

マリーは祖父の足にしがみついて、喜びのあまり飛び跳ねた。
蹌踉けそうになりながら、祖父はマリーの顔を、皺だらけの手で包んだ。

その横で黒猫が、にゃあ、と低く啼いた。


つづく






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