第九十六話 糠漬と猫(28歳 男 編集者) | ねこバナ。

第九十六話 糠漬と猫(28歳 男 編集者)

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※ 第十二話 別れの日(76歳 男)
  第四十四話 ハナボン(26歳 女 会社員)
  第七十六話 旅路(?歳 オス) もどうぞ。

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ピンポーン

「はーい」

家の中から明るい声が聞こえた。
僕は少し緊張した。

「○○社のタシロと申します」

がちゃ。

「お待ちしていました、どうぞ」
「は、ありがとうございます」

玄関の扉を開けて僕を出迎えてくれたのは、猫イラストレーター、ハタ・ハナエ氏だ。
洗練された都会的な印象の猫たちが、スタイリッシュに街を闊歩する作風で、人気を博している。
でも、住んでいるのは東京から新幹線と電車を乗り継いで二時間以上かかる田舎町。
家はかなり古そうな木造だ。庭は広く、小さな畑もある。
そして、僕の前に立っているハナエ氏は、チェックの割烹着姿。髪をひっつめて、大きな眼鏡をかけている。化粧っ気もない。
作風からは、洗練された気位の高い女性という雰囲気が感じられたのだが、本人の外見からはそんな空気は微塵も感じない。

「わざわざこんな遠くまで、ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもない」

ハナエ氏のあとに続いて、僕は家の中に入った。
黒光りする廊下がきいきいと鳴る。少し煮物のような匂いがする。
あと...。これは何の匂いだろう。
今時の女性は、アロマテラピーとか言って、甘い花の香りなんかを部屋に焚き込むみたいだけど、ハナエ氏の家は真逆だ。
生活の香り、といってもいいのだろうか。ほっと安心する。

「ごめんなさいね。私ひとりで住んでいるもので、リビングが仕事場になってるの」

通された部屋は広い板張りで、大きなテーブルが中央に置かれている。
文具や絵の具の棚がその脇にあり、テーブルの上にはトレース台やらファイルボックスやらが、几帳面に整頓されている。
開け放たれた襖の向こうには畳の部屋が見える。小さな仏壇があって、大きな座布団が置いてある。
その座布団の上には。

「んぎゃ~」
「あらハナボン、起きたのね」

茶トラ模様の猫が、丸まっていた。
こちらを見ると、むーんとひとつ伸びをして、そのままの姿勢でまた寝てしまった。

「もう...寝てばっかりねハナボン」
「あ、先生が飼ってらっしゃるんですか」
「先生はやめてくださいよー、恥ずかしいです」
「えっと、じゃあ、あの」
「ハナエでいいですよ。ハタなんて呼びにくいでしょ」
「はあ」
「あれはハナジローっていうの。私だけはハナボンって呼ぶんですけどね。もうすっかりおじいちゃんで」

僕は勧められるままに椅子に腰掛けた。お茶を淹れると言って、ハナエ氏は台所へと向かった。
なんとも気さくな人だ。しかし編集長は、

「以前、他の出版社での仕事で、えらく編集者を叱りつけたことがあるらしい。気難しい人かも知れないから、気を付けてくれよ」

なんて言ったのだ。
僕は改めて部屋を見回した。古いが小綺麗で整頓されている。隅々まで主の心配りが行き届いている。
うん、案外頑固なところがある人なのかも知れない。

「みゃ~」

と、足元に猫がやって来た。
座布団で寝ていた猫ではない。ほとんど真っ白だが、眼の上にふたつ、黒い斑点がある。
これは、まるで。

「マロ、お客さんだから、ちょっとあっち行っててちょうだい」

マロか。確かに。

「ぷっ」

僕は思わず吹いてしまった。
いけない。

「あっ、す、すみません」
「いえいえ、いいんですよ。おかしいですよね」

ハナエ氏はお茶を置きながら、にこにこして言った。

「もう、この名前以外思い付かなかったもので」
「はあ、そうですよねえ。見事です」
「猫、お好きなんですか?」
「僕ですか? まあ、嫌いではないです。飼ったことはないんですけど」
「そうですか、よかった」
「え?」
「いえね、別の出版社の編集者さんなんですけど、猫が怖いからなんとかしてくれって、ひどい剣幕で仰るんですよ。私が猫の絵描いてて、猫を飼ってるのだってご存知の筈なのに」
「はあ」
「だから、あなたは私の仕事の何をご覧になってるんですか! って、怒鳴っちゃったんです。その方、いたたまれなくなってすぐ帰っちゃったんですよね。今考えれば悪いことしたかなあって」

そういうことだったのか。

「いえ、それは編集者の問題ですよ。せんせ...いえ、ハナエさんのお仕事を見れば、猫に愛情を注いでいるのはよくわかりますから。猫が怖いなら、別の編集者が来るべきだったと思います」
「そう言っていただけると、なんだか安心します。さあ、召し上がってください。蒸しパンを作ったんです」

なんとも素朴なお菓子をほおばり、香りのよいお茶をすすりながら、僕は仕事の話をぼつぼつと始めた。

  *   *   *   *   *

「...というわけで、半年後から月イチの連載で、お願いしたいんですが」
「なるほど...いいですよ、やりましょう」

快諾を貰った、と思っていいのだろうか。しかし。
ハナエ氏は、ふう、と溜息をついた。

「私のこのスタイルも、けっこう浸透してきちゃいましたからね。最近は少ししんどいですよ」

僕は少し意外だった。スタイルが固定していて、シンプルなキャラクターを自在に操る腕前を持っているのだから、イメージが浸透すれば逆にやりやすいと思うが。
そう訊いてみると、

「いえ、ご覧のとおり、田舎暮らしで独り者でしょ。都会のリアルタイムな情報や感覚って、やっぱり住んでいないと取り入れるのは難しいですよ」
「でも、服飾メーカーや文具メーカーのお仕事もかなりされているから、ちょくちょく東京にいらしてるのだと思ってましたが」
「まあ、ひと月に一度くらいですかね。それに、ああいうデザインの仕事の場合、私のすることってあんまりないんです。それぞれのデザイナーさんの料理するのに任せてますから」
「なるほど」
「東京を離れて、もう八年になりますからねえ」
「あ、そうか、もともとはデザイン会社にお勤めだったんですよね」
「そうです。それが...家の事情、というか私の事情で、こちらに戻ることになって」
「そうですか」

ハナエ氏の視線の先に、写真立てが二つ置いてある。
ひとつは、壮年の夫婦と女の子の写真。もうひとつは、老夫婦の写真。

「ご家族ですか」
「ええ」
「今はどちらに」
「もう、私以外は亡くなったんです、みんな」

一瞬、ハナエ氏の眉間が動いた。まずいことを訊いてしまった。

「す、すみません」
「ああ、いいえ、いいんですよ。独りになって、もう随分経ちますから」
「はあ」
「そう、もう七年、この家で独りで住んでます」

「みゃ~う」

マロがとことこ現れた。

「あら、ごめんね、そうね、あんたたちと一緒よね」
「ああ猫ですか」
「ええ。この子たちがいるから、あまり寂しいとも思わずに暮らせてます」

ハナエ氏はマロを見遣って、ふと僕に視線を向けた。

「あの、タシロさん」
「はい?」
「意外でしたか?」
「え」
「作風と、私の生活が、こんなに違って」
「え、いやあの」

上目遣いに見られると弱い。それに僕は嘘は苦手だ。

「ま、まあ、あの洗練された猫たちを見慣れていましたから、どうもそういうイメージから想像してしまって」
「やっぱり」
「あ、でも、こういうのんびりした雰囲気も、僕は好きですよ。僕の田舎は福島でして、実家もこんな雰囲気でしたから」
「そうですか、よかったあ」

大きな眼鏡の奥で、ちいさな眼が笑った。僕はどきっとした。

ぱん。

「ああ、そうそう」
「は?」
「お昼! もうすぐお昼ですね。タシロさん、好き嫌いありますか?」
「え、いえ、たいていのものは大丈夫です」
「よかったら、召し上がって行きませんか? きのこ汁のスイトン作るつもりだったので」
「は、あの、いいんですか?」
「もちろん」

スイトンかあ。ほんとに田舎っぽいな。まあ僕はこういうの好きなほうだ。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞどうぞ。じゃ、このファイルでもご覧になっててください」

ハナエ氏はそう言うと、分厚いファイルを僕の前に積み、また台所へと向かった。
うん、スイトンはいいんだけど、僕の腹にはまだ、蒸しパンがたくさん残っている。
料理が終わるまでに、消化しきれるだろうか...。
まあいい、とにかくファイルを見せてもらおう。
ファイルには「未発表」という背表紙が貼ってあり、通し番号が付けられている。
ぺらりと表紙をめくる。

「こ」

これは。

そこには、ハナエ氏の作風からは思いもつかない、不思議な世界が広がっていた。
いや不思議というのは当たらないかもしれない。洗練されたスタイリッシュな姿の猫たちのほうが、むしろ不自然で、不思議なのだ。
なのに、ここに描かれている猫は、どれも、酷く土臭い。
というより、生活の臭いたっぷりだ。

ささくれた畳の上で寝転がる猫。
サンダルを囓って遊ぶ猫。
梅酒の瓶の間で眠る猫。
ちんまりと仏壇に向かって座る猫。

かなりデフォルメされているものの、筆遣いはもっさりとしていて、毛の柔らかさが感じられるほどだ。
そして、どれも不細工だ。かっこいい猫、きれいな猫は一匹もいない。
しかし、どれも適度に重そうで、安心する。紙細工のようなキャラクターとは大違いだ。
こんな仕事もしていたのか。

僕は夢中で、ファイルを繰った。
土の臭い、生活の臭いがぷんぷんと漂う絵から、僕は眼を離すことが出来なかった。
僕が最後の、柱にもたれて伸びをする猫の絵を見終わった頃、

「はい、できましたー」

湯気の立った土鍋を持った、ハナエ氏が現れた。

  *   *   *   *   *

「どれも田舎料理ですけど、ご遠慮なく、たくさん食べてくださいね」

土鍋の周りに、鉢が幾つも並んだ。
ひじきの煮付け、豆と野菜のマリネ、菜っ葉のおひたし、そして。

「古漬けですから、お口に合わないかもしれませんけど」

蕪と茄子の糠漬だ。

「そうか」

僕は思わず声に出していた。

「え?」
「あ、いえ、家に上がらせていただいて、ふと何か、嗅いだことのある匂いがするなあと、思っていたんですよ。糠床の匂いでしたか」
「あら、なんだか恥ずかしいです。糠味噌臭いだなんて」
「いえいえ、僕はこういうの好きなもんですから。祖母が糠漬得意でして、メロンとかブロッコリーとか、小さい頃からいろいろ食べましたよ」
「そうなんですか! うらやましいわあ。うちの糠床も祖母から受け継いだんですけど、やっぱり手入れが不十分になると、よくないですよねえ」
「ああ、僕は食べる専門なもんで、作るのはちょっと」
「うふふ、さあ、どうぞどうぞ」

蕪をひと口囓る。

ぽり。

ほどよい塩気と酸味が口に広がる。

「これは、ごはんが欲しくなりますねえ」
「あら、じゃあ...」
「いえいえいいです! そんなお手間を」

と言ったが遅かった。ハナエ氏は台所に引っ込み、数分後、ほかほかのご飯を茶碗に山盛り持って来た。

「どうぞ」
「はあ」

いやしかし。
美味い。

僕は夢中になって飯を食い、スイトンを啜った。
こんな優しい味に出会ったのは、久し振りだ。

そんな僕を、ハナエ氏は時折、じっと見ていた。

  *   *   *   *   *

「ふう、ごちそうさまでした」

満腹だ。
もう食えない。

「おリンゴでもむきましょうか」
「いえいえいえ!! もう入りません」
「あら、うふふ」

笑われてしまった。

「こんなにたくさん食べてくださる方は、久し振りです」

これまた香りのよい玄米茶を注ぎながら、ハナエ氏は笑って言った。

「そうですか」
「ええ。うちは年寄りばっかりでしたから」
「はあ」
「こうやって、食べてくださる方がいると、作りがいもありますけどねえ」

と、ハナエ氏は自分の茶碗を覗き込みながら言った。
僕は、背筋のあたりが、もぞもぞとむず痒くなった。

そうだ。
僕は、ハナエ氏に提案をしなければならない。

「あの、ハナエさん」
「はい」
「先程、ファイル見せていただきましたが」
「あ、はい、どうでした」
「すごくいいです。僕の担当する『jolie』の雰囲気には合わないと思いますが」
「そうですよねえ...やっぱり。皆さんに見ていただくんですけど、なかなか」

ハナエ氏は少しうなだれた。

「いえ、使いましょう、ぜひ」
「は?」

僕はそう言って、鞄からひとつのファイルを取り出した。

「これ、僕が立ち上げに少し関わってる雑誌なんです。高級志向でもロハスでもない、“ふつうのスローライフ”ってのをコンセプトにしているんです。この雑誌のコラム、いえ、表紙を飾るキャラクターとして、この猫たち、使わせていただけないでしょうか」
「え」
「来年創刊予定ですから、まだ時間があります。ですからじっくりやりましょう。ファイルをお貸しいただければ、僕は編集長を説得する自信があります」

一度うなだれたハナエ氏の顔が、みるみる明るくなった。
そして、がっしと、僕の手を握った。

「ありがとうございます! そう言っていただけたのは初めてです」
「あ、いえ、そんな」
「私、正直疲れてたんです。お洒落な猫たちに芝居をさせるの。ほんとは糠味噌臭い田舎っぽい猫たちを描きたいんです。だから、あの」
「わかってます、わかってます」
「あ、ごめんなさい」

ハナエ氏は急いで手を離した。顔が真っ赤だ。

「あの、今日お伺いして、ハナエさんの本来のお仕事は、こういう生活感のあるものだということが、よく判りました。ですから、徐々にこっちを増やしていきましょう。そのほうがきっといいものが出来ますよ」
「はい...」
「今回依頼させていただいた連載、六回までにしておきますね。その後はまた相談させてください。そして」

僕はまた、生活臭たっぷりの猫たちを見遣った。

「彼等にもっと、活躍してもらいましょう、ね」

と、ハナエ氏の方を向くと。
ハナエ氏は。

真っ赤になったまま、俯いていた。

「あの」
「はい...よろしくお願いします...」

...なんだか、こっちまで真っ赤になってしまう...。

  *   *   *   *   *

「すっかり長居して、すみません」
「いいえそんな、大しておかまいも」
「とんでもない! あんなに御馳走していただいて」

僕はぽんぽん、と腹を叩いた。

「今日は晩飯抜きでもいけますよ」
「まあ」

ハナエ氏は笑った。そして僕を、上目遣いでじっと見た。
僕はちょっと視線を外して、

「じゃ、じゃあ、また詳しいことは、メールとお電話で」
「はい」
「これからも、よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げた。
ハナエ氏は、

「こちらこそ」

と、僕よりも深く頭を下げた。
そして顔を上げると、

「あの」
「はい?」

「...また、ごはん食べに来てくださいね」

「は、あ、はい」
「お待ちしてます」
「...はい」

僕はもう一度、ぺこりと頭を下げて、歩き始めた。
細い路地を抜けたところで振り返ると、

ひらひらと手を振るハナエ氏の姿。
そして、その両脇で僕を見送る猫たちの姿。

傾いた午後の日差しに照らされて、滲むように見えた。

また此処に来るに違いない。
いや。
此処に帰ってくるに違いない。

何の理由もなく、僕はそんなことを考えていた。


おしまい





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